鬼ごっこの終わり
あの人に出会ったあの日は今も鮮烈にリルの脳裏に残っている。
どうにか心の空白を埋めるものはないかと、いつものようにふらりと街へ出掛けた。
特に宛もなく街を歩く。通りに溢れる人々は皆他人に無関心で、足早にすれ違っていく。脇に並ぶ洒落た店先も、真新しいものは見えない。知らず知らず溜め息が溢れる。勝ち気な瞳に翳りが落ちて、彼女の美しい顔立ちを憂いの色に彩った。
「溜め息を吐くと幸せが逃げますよ、お嬢さん」
目を上げた先には男が一人、苦笑を浮かべて佇んでいた。北によく見られる銀髪と、緑がかった茶色いヘーゼルの瞳がミステリアスで、彼の穏やかだがどこか危険さを孕んだ笑みと合っていた。
ラフに着崩したストライプのシャツにグレーのジャケット、ベージュのスラックス、靴は最近西から入ってきたナナガでは最新のブランド、一流のものではないが安物でもない。どれも悪くないセンスだ。
金に飽かせて一流ブランドで固めればいいと思っている、見飽きた求婚者たちよりはずっといい。
「なら、貴方が私の退屈を紛らわせてくれるのかしら?」
暇潰しくらいにはなるだろうと、リルは挑発的な笑顔を男に向けた。リルよりも年上なことも、女に慣れた雰囲気も学校の馬鹿な求婚者たちと違った。
金目当てなのも、聞き慣れた上辺だけの賛辞もリルは承知の上だった。分かった上でたしなむゲームの一つ、せいぜい楽しませてご覧なさいな、とそんな軽い気持ちだったのだ。
それこそが胸の穴に填まるモノとも知らず。
※※※※
視界にちらりと白い何かが映り、リルは頭に疑問符を浮かべる。乱立する建物の隙間から見える空は茜から藍色へグラデーションを創り、その不思議な色合いの空に、白い何かが幾つも舞っている。
「……鳥?」
鳥にしては妙な動きとシルエットだと目を凝らしていると、それは形を変え始めた。
「っ!?」
明らかに鳥ではない動きに鋭く息を吸う。鳥だった白いものは、四角い紙切れとなり今度はくるりと丸まり筒上になった。
小さな白い筒は次々と連結し棒状になっていく。みるみる四つの棒が出来上がり、空からリルを目掛けて降ってきた。
「きゃああああっ」
悲鳴と共に足が止まる。顔と頭を守った両腕が視界を遮った。髪が鞭のように放たれて白い棒を叩き落とそうとする。
さしたる強度もない紙を丸めただけの棒に、触れることも出来ず弾かれた。
棒は何事もなかったかようにリルを囲んで起点にし、四方へ広がった。
恐る恐る両腕を下ろしたリルは、見たものを信じられずに呆然とした。
両脇にあった建物も、狭い路地も、夕闇に沈みつつあった空もない。四隅の白い棒が創る四角い空間。その只中にポツリと立っていた。リルは自分が小さくなって、戯れに箱の中へ閉じ込められたような錯覚に陥る。
後ろに生じた気配に振り向くと、四角い空間へコハクたちが入ってくる所だった。壁から生えるかのように頭から全身を表してくる。
半狂乱になって、コハクたちから一番遠い壁に駆け寄り、壊そうと叩いたがびくともしない。
「無駄よ。ここはチヅルの結界の中。許可したもの以外は出ることも入ることも出来ない」
赤髪の男から降りた黒衣の女、コハクが静かに言った。
コハクとホムラの直ぐ後ろから、ハルとポルクスが壁を通り抜けてくる。
「あ、あの……ハルさん」
ハルの背から降りるというよりは、ずり落ちたポルクスは息も絶え絶えになりながら言った。力を込めすぎていた手足は震えて、立ち上がるのも一苦労だ。
「僕、車の所で待ってたら駄目だったんですかね?」
ポルクスの武器は腰の治安警備部隊隊員に支給されている拳銃のみ。プルプルと震える手で狙って撃てる訳がない。しかも聞くところによると高位の妖魔には効かないらしい。はっきり言って、ここにいても何の役にも立てそうになかった。
『何言ってんの、一緒にいた方が面白いじゃん。俺ポルクス気に入ったし!』
「何言ってるのか分からないですけど、面白がられているだけの気がしてきた……」
返ってきたのはハルの吠え声だが、人間のように細めた目は笑みの形で、楽しそうなことくらい分かる。
通ってきた壁から出られないかと下がってみるが、背中には普通に壁の感触だ。つまりもう逃げようにも逃げられないのだと、ポルクスは悟った。
壁を叩くことを諦めたリルは、こちらに向きなおった。彼女をじっと見つめるコハクの黄褐色の瞳に光が点り、仄かな香気が立ち上る。
「教えて。貴女の罪を」
「罪なんて知りませんわ!」
壁に背を着けてリルが金切り声を上げた。声に呼応するように、金の髪が翻ってコハクへ向かった。半歩前へ出たホムラが小刀でいなし、地面へと軌道を変えた髪は弾かれて戻る。
「なっ、何!? 何なの?何なんですの、これはっ!?」
初めて自分の髪が自分の意思とは関係なく動く様を目にしたリルは、恐慌状態に陥った。狂ったように壁を叩きよじ登ろうと足掻く。彼女の感情に反応してか、髪も壁を穿とうと蠢いた。しかし、彼女の髪の攻撃にも壁はびくともしない。
どんなに叩こうと突破するのは無理だと知って頭を抱えて踞り、今度は泣きじゃくる。
「落ち着いて。貴女の中の妖魔の仕業よ。声が聞こえるでしょう?」
コハクはゆっくりと距離を詰めていく。まずは宿主と妖魔を分離させなければならない。
四角い空間には空も何もないが、外の時間を共有していて、夕暮れの赤はすっかり弱まり宵闇が支配しつつある。
ほの暗い中、ゆらゆらと立ち上る黄色と橙色の光がコハクを包む。ふわりと甘い香りが結界の中へ満ちた。
「そんなの知らない。嫌だ、こんなの嘘よ。寄らないで! 」
頭を抱えたまま涙声でコハクへ来るなと訴える。
「……苛めるな……」
「え?」
やけにはっきりと聞こえた声にリルは、顔を上げた。先程までの内からの声と違う。聞き覚えのある、いやそれどころか今のは自分の……。
「リルを苛めるな!」
今度こそリルは自分の口が動き、声を発するのを自覚した。




