抜き取るモノと持っている者
真っ白な四角い空間。四隅に白い棒があるだけのその空間に、コハクとホタル、妖魔がいた。
「『琥珀』の名において真実の名を呼ぶ『千鶴』」
四角い壁や床からおびただしい紙が剥がれ、重なり、少女の姿を作る。
「やっと真名を呼んでくれた、くれた。でもこいつ相手に必要かな、必要かな」
頭の先からつま先まで白い紙で出来た少女、千鶴が首を傾げた。
「ひ、ひぃぃいいいぃっ」
妖魔が悲鳴を上げた。
シキ本人はロイバールとすり替わり、妖魔はシキの能力でジレンとすり替わっていたのだろう。千鶴の結界でシキの力が届かなくなり、妖魔の容姿は先ほどまでとっていたジレンの姿ではなくなっていた。
ぼさぼさの髪に無精ひげの見ずぼらしい男。こちらを見る目に浮かぶのは高位妖魔独特の狂気ではなく、怯え。
「人を一人喰っただけの中級でしょ? ふん。つまんないわね。こんなのが私が使役する最初の妖魔だっていうの」
「ホタル。まだ妖魔を狩ってもいないのに侮るのではないわ」
「狩らなくても分かるわよ。どう見たって小物じゃない。中級なんて楽勝だわ」
すっかり戻った視力で妖魔を視認したらしきホタルが、両手を腰に当てて胸を反らした。
「ホタル」
コハクはホタルの名を呼ばわる。コハクの静かな声が四角い空間に凛と響いた。
「な、なによ」
「妖魔を見た目で判断してはならない。それに」
怯んだ様子のホタルをちら、と一瞥してからコハクは視線を妖魔に向けた。
「貴女の力を受けてもなお、この妖魔は完全な人型よ」
ホタルの『真実を暴く』だけならば、宿主の中に巣くったままといえよう。しかし、ホタルは『浄化』の力も同時に行使した。もし妖魔が宿主の中にいたならば、弾かれて外に出たはずだ。弾かれた様子もなくいるということは、既に宿主は喰い尽くされ、妖魔そのものとなっているということ。
妖魔は力が強くなればなるほど、外見は人に近付く。完全な妖魔となっても人間の姿となんら変わらないということは、高位妖魔。
ぼさぼさの髪の下から覗く瞳が、ぎょろりとこちらを見た。灰色をしたその瞳には、相変わらず怯えが浮かんでいるが、同時にもう一つの光も浮かんでいた。
高位妖魔特有の、狂気の光が。
「おいで、ユズリハ。『琥珀』の名において真実の名を呼ぶ『譲刃』」
瞳を舞う茶色い欠片が飛び出した。くるりと回転して銀の体毛に覆われた長い銀髪の少女の姿を取る。
ホタルには使役する妖魔がいない。シオリとハルはシキに、ヤクロウマルはポルクスに対応中。ホムラはどこでどうしているのか分からない。コハクの今の手持ちは千鶴と譲刃だけだ。
譲刃は中級。千鶴は高位妖魔なれど、攻撃力を持たない。
妖魔が片手を上げた。五本の指先がホタルを向いている。
「譲刃、ホタルを」
「守らなくったていいわっ。攻撃して」
コハクよりも早くホタルが動いた。横に跳んで指先の射線上から逃れるホタルの、その瞳が黄色を纏っていた。
「ちぃっ」
指先をぐっと握る仕草をした妖魔が顔をしかめた。
「ふふん。空振りね。あんた、能力は『中身を抜き取る』。発動条件はどうやら指先を向けて握る、でしょ」
「だったらどうしたっ」
妖魔がまた指先をホタルに向け、握る。しかしその時には既にホタルは妖魔から遠ざかりながらジグザグに走っていて、能力は不発に終わった。
「くそ。くそ、くそ、くそぉ!」
「あっはははは! 何よ、ただ指先を向ければいいだけなのに、当てられないの? 雑魚ね」
ムキになってホタルを妖魔の指先が追う。それをホタルはことごとく躱した。地面に片手をついて回転、かと思えばしゃがんで体を沈ませる。指先を下に向ければもう走り出していて、そちらを追えば急旋回。
「ふざけやがって。馬鹿にしやがって」
妖魔の目が血走った。その目に映るのは縦横無尽に駆け回るホタルのみ。
「がふっ」
妖魔の口から血が噴き出した。ホタルしか入っていなかった目が、横を向く。
そこには刃となった譲刃の髪が突き刺さっていた。音もなく滑らかに髪がうねる。妖魔の腹を裂く。
「ひっ、ひぃあああっ。俺の腹が。腹の中身が抜ける」
慌てて内臓を掻き抱く妖魔の眼前に、女のつま先が現れた。ホタルだ。彼女は汚物を見る目で妖魔を見下ろし、冷たく吐き捨てた。
「自分の内臓が抜かれる気分はどう? 今まで抜いてきたんだもの、これくらい平気よね」
ぐしゃ。妖魔の手ごと内臓をホタルの足が踏みつぶす。
「抜かれるのは嫌だ。俺は抜いて、俺のものにするんだ。金持ちどもの財布の中身も、肥えた舌も脂肪を耐え込んだ腹も、全部、全部抜いて、俺が持つ。俺が味わう。俺が太る」
男はスリを生業にしていた。
ガキの頃から手癖が悪かった。親の財布からバレない程度にくすね、欲しいものを買っては、ほくそ笑む。抜き取ることが快感で、ある日それがバレて袋叩きにあった。すった金や物を全て取り上げられたことに激昂して、立ち去るやつらの背後から刺した。生んだ妖魔でやつらから取り返し、逃げた先がレトリ国だった。
『今度はお前が持つ立場になればいい』
そこで鬼に出会った。
『この国の権力者の息子にすり替えてやろう。怪しまれないよう、記憶もある程度すり替えておいてやる』
小動物を殺すところから始まるという、可愛らしい記憶にすり替わったが。そうだ。自分はもっと心の奥底から欲していたじゃないか。持っている人間から抜き取って自分の物にすることを。奪ったものを自分が持つことを。抜き取ったものを喰らうことを。喰らって力を得ることを。
「ふうん。それがあんたの欲望で、『罪』? つまんないわね」
「お前は」
ギリ。妖魔が奥歯を噛んだ。
「持っている人間だ。取られる恐怖を、悔しさを、恨みを、痛みを知らない!」
「知らないわよ、そんなの。そうよ。他人から盗まなくたってあたしは全部持ってるの。他人のものなんていらないわ」
黄色から緑、青、紫、白。ホタルの瞳の色が次々と変わった。表情は無。ただ無感動に妖魔を見下ろしている。
「そんなことよりねぇ、あんた。あんた私に従いなさいよ。そしたらあたしの持ってるものを分けてあげる。言ったでしょ、あたし、全部持ってるんだって。あたしに従ったら、もう恐怖しなくていい、悔しくない、恨む必要ない、痛くないわよ」
妖魔の内臓と手を踏むホタルの足が緑色を纏った。ホタルの能力は色によって変わる。癒しと回復の緑色は妖魔の手、内臓をも包み、次第に体全体を染めていく。
「あ、あああ……」
痛みと恐怖の後に与えられる飴に、妖魔が呻く。
「さあ、従いなさい。あんたの名は……そうね。最初の妖魔だし『一臣』カズオミよ」
妖魔の返事も何も聞かず、ホタルは真名を刻んだ。