裏側で青鬼は笑む
コハクたちが、ホタルたちの後から三階へ上がろうと、中央階段の踊り場へ着いたその時。
「あれは、宿主」
コハクの視線の先で、少年と少女が中央階段を駆け下りていった。
「うそ、もう? 早すぎよ!」
『だって、だって。このままじゃやられちゃう、ちゃう。はいっ、はいっ。結界は解いた! 解いた!』
「何よ、根性なし!」
『ひっどぉい、どぉい。ホタル嫌い、嫌い』
『殺す、殺す、殺す殺す殺す殺すッ』
「駄目だって。待て、この馬鹿犬! 待ちなさいよーーーっ」
上の階からは、わあわあとホタルたちの騒々しい声と、ハルの吠え声が降ってくる。あの会話からすると、チヅルがハルを結界内に閉じ込めたものの、すぐに耐えられなくなったのだろう。ハルが結界から出て、下りてくるのも時間の問題だ。
コハクの瞳がほんのりと熱を帯びた。瞳が告げている。先程の二人のうち、少年の方が宿主だ。その宿主が、ポルクスのいる玄関ホールに向かっている。
二人とも面差しがロイバール公爵に似ていたから、おそらく公爵の息子と娘なのだろう。公爵の元に向かって何食わぬ顔で保護してもらおうとしているのか、集まっている人間を喰おうとしているのか。
それとも、喰い損ねたポルクスを狙っているのか――。
その可能性が浮かんだ瞬間、コハクはハルを止めることよりも宿主を追う事を優先した。
「シオリ! ハルを止めて。私は下に行く」
「はあい。了解」
シオリに指示してからコハクは階段を降り始める。
そんなコハクの頭上を、咆哮を上げる大きな影が飛び越えた。
『宿主ぃいいいいい』
「ハル」
見上げた視界に、ハルを追って妖気の糸が伸びてくる。シオリの糸はハルの四肢ごと胴体に巻き付き、拘束した。シオリも高位妖魔。拘束は十分であるはずだった。
ところが。
「なっ、私の糸が!」
シオリの驚愕に彩られた声が、コハクの背中に当たる。
あっさりと糸を切ったハルの足が階段のコハクを追い越し、玄関ホールの床を踏む。ハルの足裏が床をその力で砕き、抉りながら蹴った。
今、シオリの糸が普通の糸にすり替わった。
コハクの頬が強張る。この能力には、覚えがある。
「この能力は……シキ」
あの青鬼は、ナナガ国で執事長とすり替わっていた。さらには自分への攻撃を、全て第二部隊の隊員とすり替わり、肩替わりさせていた。それと同じことが、シオリの糸に起こったのだ。
「ハルを止めようとしたシオリを妨害した……?」
ハルを止められたら困るということ。つまりハルに宿主を殺させたいのだ。何故、何のために。
コハクは階下の玄関ホールへと目を走らせた。
階下ではソファーをベッドにしてポルクスが寝かされており、周りにはヤクロウマルと使用人たちが囲っていた。
少し離れた椅子に座っていたロイバール公爵が、立ち上がって二人と合流する。彼らの周りにも大勢の使用人がいた。
ここにいる誰かが、なりすましたシキ。
「父さん!」
「ジレン、タニア! 一体、どうしたんだ」
何も知らないロイバールが、走ってきた二人を見て驚きに目を丸くしている。
「その宿主が俺だと思われてるんだよ」
「なんだと!?」
「本当なの。それだけじゃないわ。『珠玉』の妖魔が兄さまを殺そうとしているの」
タニアが叫ぶように簡単な説明をしてから振り向き、新型対妖魔銃を構えた。銃口の先には猛然と迫りくるハルがいる。
ロイバールと周りの使用人たちの顔色が変わる。ロイバールを含む全員が一斉にそれぞれ銃を取り出し、スライドを引いてから安全装置を外すとハルに銃口を向けた。
いつでも撃てるよう、弾倉にはあらかじめ弾を入れておいたと見える。普段から訓練された、迷いのない流れるような動きだった。
旧式対妖魔銃の使用人たちがジレンの盾になりながら発砲し、弾幕を作る。新型対妖魔銃を持つタニアとロイバールが、ハルを撃つ。
貴族とは思えない、正確な狙いがハルを捉えた。ところが。
「がァッ」
「ううっ」
銃弾はハルに命中せずに、他の使用人に当たった。
「なっ、外した!?」
「嘘。手応えがあったのに」
驚愕の声を上げながらも、ロイバールとタニアは銃口の向きを修正し、発砲する。しかし動揺が二撃目の銃弾の狙いを外させた。まずい。
「ハル……」
ハルを制止する言葉を発しようとしたコハクだったが、違和感が生じる。
コハクに向かって、微かな妖気が流れてきている。
このまま続きを叫べば、違う言霊をかけてしまう。コハクはそう直感する。ならば。
ハルが大きく口を開け、さらに床を蹴る。耳をつんざく銃弾の幕などものともしない。ジレンとの距離は、ほんの数メートル。
「うわぁああああああっ」
ロイバール公爵とタニアの後ろにいたジレンが、対妖魔銃を放り出して駆けだした。取り残された公爵とタニアの目の前で、ハルが床に着地。石造りの床を砕きながら踏み抜き、方向転換した。
「兄さま」
「ジレン! くそっ、この犬!」
至近距離からハルに向かって発砲する。外しようのない距離だというのに着弾せず、代わりにまた使用人が倒れる。当然ハルの勢いは止まらない。
「コハク、早く犬を止めなさいよ。早く!!」
ホタルが焦って叫ぶ。
ジレンを守ろうと立ち塞がる使用人を、ハルが体当たりで蹴散らした。ジレンとの間には誰一人おらず、距離は二メートル足らず。
「来るな、来るな、来るなぁあ!」
身を守ろうと両腕を掲げて目を瞑るジレンに、ハルの牙があと少しで届いてしまう。
言霊を紡ぐため、コハクは口を開いた。
……状況は整った。
殺せ。このまま公爵の息子を噛み殺してしまえ。
犬の牙が喉笛を噛み破るその瞬間、本物とすり替えてやろう。
この場にいる者たちの視線、意識が全て犬にいっている状況下、独り傍観者のシキはそっとほくそ笑んだ。