形にならない思い
「とまあ、そういうわけでして。レトリ国行きの鉄道も、宿まで手配されてたんですよ」
困ったように眉尻を下げた青年、ポルクスがここに来るに至った経緯を説明した。
「そう」
コハクは小さく頷く。
レトリ国の温泉は病気の療養に良いと有名だ。ポルクスがここにいるのも至極当然とも言える。
「あの、貴女はどうしてここへ? ええと、その、ミズホ国の方ですよね? やっぱり観光ですか?」
ミズホ国の名を出す時、青い垂れ目が不安げに揺れた。
黒髪を持つ人種は極めて珍しく、コハクの瞳のように明らかに普通の人間と違う目を持つとあればミズホ国の妖魔狩り『珠玉』のみ。『珠玉』は妖魔事件のあった時にしか現れず、自らも妖魔を使役する。
東邦の魔女と呼ばれる不吉の象徴であり、『珠玉』が姿を見せたということは重大な妖魔事件が起こったという示唆でもある。不安に思わないわけがないから、聞いてきただけだろう。
しかし、これ以上詮索されてはならない。
「ええ、そうね。観光みたいなものよ。リハビリの邪魔をしたわね、それじゃ」
せっかく関わりを絶ったのに、自分から近づいては意味がなかった。どうして駆け寄ってしまったのだろう。コハクは温泉を出ようと踵を返した。
「あの!」
背後でばしゃんと水音がして、腕を掴まれる。
驚いて振り返ると、間近に青い垂れ目があった。澄んだ瞳に射すくめられて、心臓が跳ね上がった。
腕を掴まれた部分が燃えているように熱く感じる。
「あの、どこかでお会いしませんでしたか?」
「していないわ」
うるさいほどの心臓の音を悟られぬよう、コハクは静かに否定した。
「……知っている気がするんです。何か、大切な、何か。思い出さなきゃいけない気がするんです。貴女を見てたら、思い出せそうな……本当に、どこかで会っていませんか?」
真剣な顔で腕を掴まれ、間近で瞳を覗かれながら囁かれる。
思い出そうと必死なのかポルクスの目は熱っぽく、囁く声は上ずっていた。
コハクより少しだけ高い温度のポルクスの手から、実際の体温以上の熱が伝わってくる。
熱いのは掴まれている腕だけではない。
ぬるい温泉の中、体の最低限しか覆っていない入浴用の衣服の青年。剥き出しの肌が触れそうなほどの至近距離。
そのすべての要素がコハクの熱をわけもわからぬまま上げた。頭が熱で上手く回らなくなる。
近づいてはならない。離れないと。なのにどうして自分から。いや、今腕を掴んできたのはポルクスで。掴まれたままでは離れられない。どうすれば。
混乱したコハクは、体に染みついた動きをなぞる。
掴まれた腕を引き寄せながら、反対の手で青年の手首を掴むと、自分の体ごと回転させた。
「へっ?」
突然のコハクの動きに青年がきょとんとし、あっさりと体勢を崩す。回るコハクの動きに合わせて、青年の体がくるりと巻き込まれた。
「わっ、ごぼっ」
綺麗に回転して、どぼんと頭から温泉に沈んだ。腕を掴んでいた手が外れ、コハクはポルクスから距離を取る。
「ぶはっ」
ざばっと飛沫を上げてポルクスが再び顔を出した。
「げほっ、ごほっ」
湯が鼻にでも入ったのか盛大にむせる。
「ご、ごめんなさい。つい」
コハクは駆け寄って背中をさすってやりたくなったが、やめた。あまり近くに寄るとまた同じことになるかもしれない。
まだ心臓は早い鼓動を刻んでいて、頬が熱い。
「いえ、けほっ」
滴り落ちる湯を手で払い、ポルクスが首をぶんぶんと横に振った。
「けほっ、すみません。僕が悪いんです。急に変なことして。わぁあ、何やってんだろ、僕」
ポルクスが涙目で頭を抱えた。それから勢いよく頭を下げる。
「びっくりさせてごめんなさい!」
気にしていないと言いかけて、コハクは言葉を飲み込んだ。
突然腕を掴まれて驚いたのだと、嫌だったからもう近づくなと言った方がいい。青年から離れるなら、ここできっぱりと拒絶して別れればいい。
なのに言葉が出なかった。
肯定も拒絶も出来ず、コハクは己の心を持て余す。無言で後ろへ一歩下がった。
「あのっ」
またコハクへ手を伸ばしかけたポルクスが、慌てたように引っ込めた。
「僕はしばらく滞在予定です。貴女は?」
「……分からないわ」
やっと出した声は、長い間出していなかったかのように掠れていた。
無意識に左足が床を蹴り、右足が後ろへ出る。青年から遠ざかろうと後ろへ下がったコハクの背中に、柔らかいものがあたった。
「っ!?」
慌てて振り向いた先にいたのは、ホタルだった。
「さっきから何やってるの?」
眉根にしわを寄せ腰に手を当てたホタルが、コハクとポルクスを交互に見る。
その険しい表情が直ぐに面白そうなものへと変わった。にやにやとした笑いが浮かぶ。
「なによ、コハク、顔真っ赤にしちゃって」
「えっ」
コハクは反射的に頬へ手をやる。
「すみません! 僕が急に腕を掴んだりしたものですから」
「見てたけど、何で?」
ホタルが腕を組んでコハクの横から青年を見上げた。
「それが、僕にもよく分からなくて」
自分でも理由の分からない行動だったのだろう。金髪の青年の瞳が揺れた。
「はあ?」
はっきりしない答えにホタルが剣呑な声を上げる。
「ホタル!」
コハクはホタルの手を引いた。これ以上、この青年に関わっていてはならない。
「ちょっと、何?」
「いいから、上がるわよ」
眉根を寄せるホタルの手をコハクはさらに引っ張った。
「何で?」
ところがホタルはこのコハクの態度が気に入らなかったらしい。足を突っ張って抵抗する。
「後で説明するから来なさい」
苛ついたコハクの声が低くなり、目が据わる。それが余計に事態を悪くした。
「偉そうに命令しないでよねっ」
ホタルが余計に頑なになって抵抗する。こうなると元々小柄なコハクはホタルを引っ張れなくなった。コハクの瞳の中の破片が目まぐるしく舞い始める。ホタルの多色の瞳と睨み合った。
「わわわ、ちょっと待って。喧嘩しないで下さい」
険悪なコハクとホタルを何とかしようと、ポルクスが割って入った。それがまたコハクを苛立たせた。
この青年から離れようとしているというのに、当の本人に宥められるとは上手くいかない。
ホタルはホタルで、すっかり頭に血を上らせている。
「「ふんっ」」
頬を膨らませたホタルとコハクは、互いにそっぽを向いた。
申し訳ございませんが、定期更新はここまでです。
次回から不定期になります。




