妖魔と新米隊員
ダグスへのポルクスの印象は、怖いの一言だった。
上司や先輩ですら怖いのに、ましてや権力者という者は雲の上の人種、ポルクスにとって恐怖のかなり上位に位置する。
加えて人を値踏みするあの緑に光る目が怖い。堂々と自信に満ちた表情と態度は、無条件に従いたくなる佇まいであった。
妙に似合う洒落たジャケットとスカーフも、くわえ煙草も気後れする。
しかもダグスは妖魔であるハルを前にしても、動揺どころか興味の視線を向けていた。商会の会頭ではなく、その筋のボスだと言われても納得だ。
そんなダグスに、「間違いだったでは済まない」と脅されても顔色一つ変えないコハクを、ポルクスは純粋に尊敬した。
「それではまず屋敷で働く者たちを集めて参りましょう」
コハクから指示を貰ったレイモンドが、折り目正しく一礼して退出する。その様をポルクスは背筋を伸ばしたまま、固めた体勢を維持して見送った。
「なんか変な顔色だな」
ハルが能天気にポルクスの頬をつねった。緊張のあまり、死人のような白さになっていたポルクスは、「痛い」と飛び上がった。
「何するんですか、ハルさん」
つねられた頬を擦りながら、ポルクスは恨みがましくハルを見る。
「よし! もとに戻った」
ハルは満足そうにポルクスの肩を叩いた。馬鹿力によろめくも、なんとか堪えて転倒は免れる。
そう言われれば、手足が冷たくなるほどの緊張は今ので何処かへ行った。どうやら気のいいこの妖魔は、顔色の悪いポルクスを心配してくれたらしい。
「ありがとうございます」
素直に礼を言うと、ハルはポルクスをじっと見詰めた。人間であるダグスに、顔色が白くなるほど恐怖していた癖に、妖魔であるハルに怖がりもせずありがとうと言う。そんなポルクスが不思議だった。
いつもの快活な様子がなりを潜めたハルの真剣な表情が、ポルクスに先程と違う緊張を強いる。落ち着かない心地になって、ポルクスは居住まいを正した。
「お前さ、何で俺たちを怖がらない訳?」
「へ?」
きょとんとしたポルクスを見て、やはり何も分かっていないんだと、何故かハルは失望していた。
なまじコウという憐れな妖魔と、妻とのやり取りを見たせいかもしれない。あれで妖魔が安全なのだと勘違いしただけだ。
「ええと、そうですね」
ハルの内心を知ってか知らずか、口元に手を当ててポルクスは考え込む。
「なんていうか、コウという妖魔と奥さんを見て思ったんですけど」
ほら見てみろとハルは自分を笑う。こいつはただの能天気なお人好しで、危害を加えられても、威圧されてもいないから、ハルたちに危機感を持っていない。ただそれだけなのだ。
「妖魔は人間の罪だってハルさんは言いました。コウの罪は普通のおじさんの罪でした。ありふれた、何処にでもいる、それこそ僕だってもしかしたら同じようなことをするかもしれない。そんな罪でした」
ポルクスは手を下ろしてハルを見ている。垂れた青の瞳は何処までも真剣で、ハルは固唾を飲んで見守った。
「妖魔が人間の罪なら、僕が恐れるのは罪を犯す人間です。正直ハルさんたち妖魔が、本気で僕を殺しにくれば勝てないんだから、怖がらないのはおかしいのかもしれないけど」
いつしかコハクもホムラも、ポルクスを食い入るように見つめていた。コハクの瞳に熱が点る。コハクの瞳の中で、妖魔たちも同じようにポルクスの言葉を聞いているのだ。
「もしもさっきの怖いダグスさんとか、道を歩いて偶然通りかかった人とかだって、向こうに殺す気があれば怖い。僕にとって人間だって同じくらい怖い存在で、妖魔だって信頼出来る存在なんです」
権力者を怖がり、経験も浅く、コハクや妖魔のように戦う力もない、ごく普通の新米隊員が誰よりも本質を見ている。
「今ハルさんに僕を殺す気はないでしょう?ハルさんの態度とか、行動を見てて分かります。だから怖くないです」
そこまで言ってからポルクスは、顔をくしゃっとさせて照れ笑いをした。
「おかしいですかね?」
「……ああ、おかしい。お前みたいな奴初めてだ」
ハルの答えは少ししゃがれて、詰まったような声になった。
「お前は本当に変で、……本当にいい奴だよ……!」
ハルはポルクスの頭に片手を回して抱え込み、反対の手でぐしゃぐしゃと撫でた。唐突なハルの行動に、ポルクスは「うわっ」と声を上げる。
「いや、いい奴と言って貰えるのは嬉しいですけど、何故に頭をっ」
抗議して嫌がるのをお構い無しに、ハルはさらに回す腕に力を込め、乱暴に揉みくちゃにした。
「痛い痛い痛い! ちょっと、ハルさん。首がっ、首がもげる! あと禿げるっ」
堪らずポルクスはギブアップと、ハルの腕を叩くがびくともしない。彼の人柄を表したような明るい金髪は、あっという間にぐしゃぐしゃで、生真面目に着込んでいた制服もよれよれになった。
「ぷっ」
ハルの腕から脱け出そうともがくポルクスの必死な様子に、コハクは思わず吹き出した。白く長い指を口元に当てて、クスクスと笑う。笑いすぎて、涙が滲んでしまうほどに可笑しい。
「ハル。止めなさい。あなたの馬鹿力だと本当に首がもげるわよ」
「冗談ですよね!?」
コハクの一言であっさり開放されるも、物騒な発言にポルクスは慌ててハルと距離を取った。何となく、冗談を言わなさそうなコハクが言うと真実味があって怖い。本当に首がもげるまで撫で回されそうな気がする。
ぐしゃぐしゃになった髪を、元に戻そうと足掻く彼をハルが呼んだ。
「ポルクス」
ハルは屈託のない笑顔で、尻尾を上機嫌に振っている。そういえば、ちゃんも名前を呼ばれたのは初めてかもしれない。そんなどうでもいいことをポルクスは思う。
「依頼でさ、本当はコハク以外の奴の手足千切られようが、首を喰い千切られようが、どうでも良かったんだけど。ポルクスは別だ。何があっても俺が守ってやるよ。なっ?」
「あ、ありがとうございます。けど、手足とか首を千切られたら死にますよ!? そんなに危険だって聞いてないんですけど!? 僕をからかってるんですよね?」
守ってくれるのは有難いが、その前の台詞の物騒さにポルクスは慌てふためいた。冗談であってくれとハルを見ても、彼はニコニコと笑うばかり。コハクに至っては目を逸らされた。その仕草がポルクスの不安を煽る。
「ちょ、ちょっと、何で目を逸らすんですか! 止めて下さいよ! 怖いじゃないですか!」
何もかもがいちいち全力で、人間も妖魔も関係なく接する。この新米隊員が、コハクや妖魔たちには誰よりも眩しくて。瞳が熱くて。
コハクは彼を直視出来ずに、暫く俯いて笑いの衝動に肩を震わせた。




