パーフェクト・ロウ
Ⅰ
『酸…雨警報発令中――……該当…区の居住者は――た…ちに退避――ください』
壊れかけの街頭スピーカーがひび割れた機械音声を発する。
レライは首に下げていたマスクを着け、防雨フードを被ると、黄土色の曇った空を見上げた。
空はいつも汚染された厚い雲に覆われている。ここが担当地区になってから三年ほど経つが、パトロール中に青空など見たことがない。いや、本当の青空は今や世界のどこを探しても見られないだろう。
雨が降り始めた。
この辺りの崩壊した建物が角を失いところどころに穴が開いているのは、この雨の仕業だ。
レライは屋根のある廃墟の中にいるが、そこら中から雨漏りがしている。たとえ屋内といえど、首都のそれと違って酸雨対策のされていないおんぼろだ。防雨服とマスクは欠かせない。
ポケットの通信端末が震えた。党の指令室からだ。レライはうんざりしながらも通話ボタンを押した。
「こちら321号」
『司令A-2だ。402号よりパトロール中に君とはぐれたとの通信が入った。先ほどから二回ほど通信要請を出していたが』
「反党グループのジャミングだ。先ほどゲリラと遭遇したので単独行動をした」
『全員始末したのだろうな』
「当然だ」
『君の報告を欠く行動は今月で三度目だ。減点六点で処罰の対象だが?』
「いちいち指令室に報告していたら、まざまざ敵を逃すことになりかねん。それこそ党の意志に反するのではないか?」
通話の相手は押し黙った。
レライは声には出さずに笑った。相手がA-2で良かった。こいつは党の意志に忠実に従う人形。エリートと言われる公安局員だが思考力はろくにない。今のエリートとは、常に党に従順で、己の意志を殺して責務を全うできる者のことだ。
『……まあ良い。本日の巡視は終了だ。ただちに戻れ』
一方的に通話が切れる。
「せっかくの楽しみに水を差されちゃかなわない」
レライの笑いを含んだ声は雨音にかき消された。
「……どういう、つもりだ……」
憎悪の滲む声が奥から聴こえた。
外を眺めていたレライは無表情でそちらを振り向く。
そこにはうつ伏せに倒れ、両腕でかろうじて体を支えている少年がいた。彼の体の下には赤い水たまりができている。
「どういうつもり、とは?」
「今、公安の司令官に全員始末したと言っただろう! なぜおれにとどめをささない!」
少年の両脚には銃で撃たれた傷があった。レライが撃ったのだ。
公安局の特殊戦闘員が持つ光線銃は、拘束レベル、傷害レベル、殺害レベルと段階的に作られている。少年を傷付けた第二段階は傷口の細胞を破壊し出血が止まらなくなるものだ。
「別に意味などない」
「なんだと――」
レライは少年の目の前にしゃがんだ。その一分の狂いもない整った顔はただ静かに笑っている。
「楽しいからだよ」
――死の恐怖に怯えながら、わめく姿を見るのが。
少年の血の気を失った顔が、さらに蒼白になる。
「そうか……聞いたことがあるぞ。公安の番犬に、党に立ち向かう同志をいたずらに殺し遺体を弄ぶ狂人がいると……おまえが、その……」
「さあ。存外、俺の他にもおまえたちを殺して楽しんでいる奴はいるだろうよ」
「悪魔め! 何もかもを支配し管理する党が悪だとなぜわからない! おれたちは解放軍だ!」
「公安に殺された奴は皆そう言ったよ」
激昂していた少年の表情が、ふと笑みに転じた。
あきらめたような顔ではない。目の前にいるレライをあざけるかのような――
「正義はおれたちにある。死ね、悪魔ども」
握られていた少年の手の中に見えたのは、起動を始めた小型爆弾。
それに気付いたと同時にレライの視界を閃光が覆った。
小型といえど殺傷を目的に作られたものだ。朽ち果てた廃墟などひとたまりもない。
派手な轟音を立てて壁と天井がことごとく倒壊した。砂塵が舞うが、それはすぐ雨に消された。
「…………」
倒壊が止んだ後、体を押しつぶそうとしている瓦礫をどけ始める。
瓦礫の上に座ったレライは数度瞬きをした。
「ちっ……センサーがやられた」
視界がうまく像を結ばなくなっている。他にも髪や皮膚がところどころ焦げて骨格がのぞいているが、大きな損傷はないようだ。特殊製造の超合金でできた骨格は爆弾程度の威力では傷一つ付かない。もっとも身に着けていた服や銃の類はもはや使い物にならないが。この分は給金から引かれるだろう。
これまでにも追い詰められ自爆した標的はいた。生きて帰る望みがないとみると、奴らはほぼ百パーセント自爆によって一人でも多く道連れにしようとするのだ。
無駄な自己犠牲精神だとレライは思う。だが馬鹿にしているわけではなかった。
それが彼らなりの信念であり、美学なのだろう。それが少しうらやましくもあった。
レライは試しているのかもしれない。彼らの自由への執着が、この機械仕掛けの体を砕く時が来るかもしれないと。
Ⅱ
“党”による支配が始まって二十年になる。党が管理、統制する社会――それは理想郷だった。
管理知能とスーパーコンピューターに出生から死に至るまで管理され、すべての人民が教育を受け適正の出た職業に就く。徹底された治安管理の下、犯罪はほぼ死滅していた。
ただしそれは、首都エデンとその周辺――党が管轄する地域とそこに居住権を持つ人間だけだ。
汚染により放棄された地区。そこは党への反抗勢力の根城となっている。どれくらいの人間が放棄地帯に住んでいるのか定かではないが、エデンの人口をしのぐとも言う。
党は治安維持機構である通称公安局に、そうした放棄地帯の管理と反党組織の殲滅を一任している。
その目的は反抗勢力を一掃し放棄地帯の浄化を進めることであるが、二十年の月日が経過しても党の支配する“理想郷”の版図は大した広がりを見せず、いまだ根強い反党組織との争いは続いている。
* * *
〈――以上により、貴官の減点は無効とする〉
後日、レライに渡された通達には、一連の任務に関して随所に軽微な違反行為は見られるものの、功績がそれを補って余りあるものであるため、特別措置として処罰は行わないという旨が書かれてあった。いつものことだ。
「君も懲りないな」
レライにその紙を手渡しながら、司令A-2、もといジファ=ハルドは呆れてため息をついた。
ジファは公安のレジスタンス対策室の第二室長で、レライの直属の上司にあたる。エデンの大学を主席で卒業し、若くして室長の座についたという”エリート中のエリート”である。
「無理に取り締まることは結果的に減益となると、上層部はわかっているのさ」
「なめた口を――まったく、公安の特殊戦闘員には問題児が多くて困る。私が第二室長となって半年ほどだが何度上にどやされたか。中でも君がトップだよ、レライ=シン」
「光栄だよ」
ジファは舌打ちをし、乱雑に退室を促す仕草をした。
素直に礼をしてレライは執務室を後にする。
レライが去った後、ジファは机上のコンピューターの通信スクリーンをオンにした。
「また『処罰なし』でよろしいのですか? 局長」
スクリーンには「音声のみ」と表示され、その向こうにいるはず通話相手の顔は映っていない。
『問題ないよ。彼に関しては多少の自由とわがままは許してやっていることにしている』
スピーカーから聴こえてくるのは機械で変調された声だ。
「しかし“自由”は危険です。もし彼が我々に刃向かうことでもあれば――」
『その心配は無用だ、第二室長。彼は特別なのだよ』
「……元快楽殺人者の彼が特別だと?」
スピーカーの声がひび割れる。どうやら相手は笑っているようだ。
『ともかく、レライに関しては上層部に任せたまえ。君は彼を監視し、私に報告すればそれで良いのだ』
「――了解しました」
レライのことを話していた時とは違い、その了承の声に不満の色は微塵もなかった。党の命令、それはジファにとって――エデンに暮らす者にとっては当然なのだ。
* * *
「あ、終わりましたー?」
部屋の外で待っていたのは、レライ同様特殊戦闘員の一人であるサナ=リューイだ。一応はレライの部下にあたる。
「にしても先輩、すごいっすね~。B地区の反党勢力、先輩の鬼神のごとき働きでほぼ壊滅したって聞きましたよ」
「大げさに騒ぎ立てるのは党のプロパガンダに過ぎない。壊滅などするわけがないさ。奴らは無限に湧いてくる」
サナは栗色の巻き毛を指で弄んでいる。彼女のくせだ。
一見やる気がなさそうに見えるが、飛び級で専門訓練学校を卒業した優秀な若手である。レライのように最前線で戦いに参加するというよりも、後方支援や指揮能力に優れ、若干二十歳にして”番号持ち”である。特定のナンバーを与えられた隊員は、他の者を率いる隊長権限を持つのだ。
華奢で可愛らしい雰囲気はどこにでもいる若い女性のように見えるが、彼女の左腕は義手だ。制服の下の体にも無数の傷があり、彼女がれっきとした戦士であるということを物語っている。
「上が先輩を処罰できないのも実績があるからじゃないですかぁ。生粋のエリートの室長は気に入らないでしょうね~うちらみたいな末端が活躍とかするの」
「彼のようなタイプは好きだよ。扱いやすいから」
「わっるい顔」
ジファはレライやサナより対策室に来て日が浅い。曲者ぞろいの戦闘員がぽっと出のエリートに素直に従うはずはなく、ジファの権威は実際無いに等しかった。
ジファのようなタイプは、これまでの生活の中でレライたちのような人種と直接接したことはほぼないだろう。彼らは生まれた時から党の思想の下で育ち、党によく従い奉仕する人材を育成するための教育を受けてきた。
前線で抵抗勢力と戦うための駒である特殊戦闘員にそのようなエデンの教育を受けてきた者はほぼいない。命の危険のある、誰もやりたがらない過酷な仕事だ。言い返すと、そのような仕事に就くしか生きる道が残されていない社会の異端者が特殊戦闘員になる。
サナは党の管轄地域と放棄地区の間にある貧民街出身である。
公安局と反党組織の戦闘に巻き込まれ、家族と左腕を失った。それから党の保護を受けて治療を受けながら施設で育ち、見事に才能を開花させ公安局で働くようになった。
そして、公安局の特殊戦闘員の中でも群を抜いている能力を持つレライも尋常ならざる過去を持っている――と噂はされているが、真相は定かではない。
二人が公安局本部の廊下を歩いていると、突然けたたましい警報が鳴り響いた。
『緊急要請、C地区東部で抵抗勢力と公安戦闘員が交戦中――至急応援求む――ナンバー115、321、402、438、以下隊に属する戦闘員は至急現地に――』
「あれま、さっそく」
サナは気の抜けた反応をする。
「先輩、楽しそーな顔してますね」
「そうかな」
「……あたし、絶対党に反抗なんてしないなぁ。先輩に殺されたくないもん」
* * *
レライたちが現場に着く頃には、雨が降り始めていた。
「先輩~、こっちの被害はそうでもなさそうです。反党組織の戦闘員は退却したって。ここから五キロほど先のビル跡地に奴らの本拠地があるっぽいです~」
現場状況を確認したサナがいつもの口調で報告を行う。
「追撃しますか~?」
「おまえの意見は?」
「んーと、とりあえず怪我人を下げてぇ、無傷の援軍をいくつか小隊に分けて挟み込むように拠点を叩くとか」
「それでいく」
「えー……もうちょっとアドバイスとかないんですか~? 先輩がこの場の指揮官でしょ、一応」
「俺は作戦とか考えるのは苦手なんだよ」
「それはわかってますけど~」
文句を言いつつも、サナはてきぱきと作戦指示を出している。レライの丸投げには慣れているのだ。
「俺は単独で動く」
「え、またぁ? ダメですよ、こないだの件で室長にあたしも怒られたんだから。あたしと二人一組だったら別に構わないでしょ~?」
レライは無言で前を見据えている。それが肯定であることをサナは知っていた。
「あの……サナ隊長」
「ん~?」
恐る恐るといった様子でサナに声をかけたのは、最初にここで戦闘を繰り広げていた隊の隊長だ。
「レライ隊長のことなんですが、本当に大丈夫なんでしょうか?」
「大丈夫って?」
「その……優秀な方なんでしょうが、悪い噂も多くて……うちの隊には正直彼を良く思っていない者もいます」
「噂って、違反行為は当たり前とかしょっちゅう室長と喧嘩してるとかってこと? そんなの先輩だけじゃなくない?」
「それもそうなのですが……」
「じゃあ敵の目玉くり抜いたり、手足千切ったり、死体を解体して内臓並べたりしたこと? まあ先輩はやりすぎだけどさぁ」
「た、確かに彼のやり方は常軌を逸していると皆言っていますが……なんでも、彼はもともと死刑囚で、極秘裏に改造手術を受けて公安の戦闘員になったとか……」
サナの大きな黒い瞳が一瞬細まったことに、彼は気付かない。
「そんなに気になるなら直接聞けば~? せんぱーい!」
「わー! ちょ、やめてください!」
「えー、なんで」
「おい」
レライが振り向きもせずに声を発する。
「そろそろ行くぞ」
レライにこの会話は聞こえていたのか――おそらく聞いていないだろう。彼は自分の話がされることに興味がない。まして今は、この先にいるであろう殲滅すべき敵のことを見据えている。
「はーい。――じゃ、そういうことで。先輩が気に入らなくても作戦はちゃんとやってね」
「は、はぁ……」
目的地までは徒歩で向かう。車やバイクといった音の出る者は気付かれる可能性があるからだ。
降り注ぐ酸の雨を建物の陰でよけながら、レライとサナは影のように進んでいく。
レライは足音を殺しながらも、後ろのサナのことをまったく気にせず歩いており、そのスピードは相当なものだ。しかしサナはそれに難なくついていく。またレライもサナが自分の後ろを数歩と空けずついてくることをわかっていた。
突然レライの足が止まった。
サナはとっさに光線銃を構える。
「……先輩?」
「何かいる」
レライが見つめるのは朽ちた石の塀だ。おそらくかつては建物を囲う役割を果たしていたのだろう。
レライの目は温度を検知してそれを視覚情報に映すセンサーが埋め込まれている。先日の戦闘で壊れたものの、修理を受けひとまずは回復した。
つまり、それほど厚みのない物質ならば透過してその向こう側を見ることが可能なのである。そして今彼の目は、温度の無い石壁の向こう側に動く何かを捉えていた。
サナはレライの背後から銃を構え、その何かが姿を現したところを狙い撃ちにしようとしていた。
「待て」
とっさにレライの腕が銃口をおさえる。
石壁の向こうから姿を現したのは――
「……猫?」
真っ黒な子猫だ。向こうもこちらをきょとんとした目で見つめている。
さすがにサナも面食らった。
「なんだぁ。緊張して損した~」
「……珍しいな、こんな所に」
エデンの外、汚染区域に生物は滅多に見られない。ドブネズミももはや希少種である。
サナは猫を見つめるレライの顔を覗き込んだ。
「先輩、猫好きなんですか~?」
「いや」
「えー、だってめっちゃ顔ゆるんでるからぁ」
「そう見えるのか?」
「うんうん。先輩にも動物を愛でる心ってのがあるんですね~。人間にはめっちゃ冷酷なのに」
レライは無言で歩き出した。
「照れ屋さんだな~」
サナはくすくすと笑う。
――その時、旧式銃独特の乾いた音が鳴り響いた。
「――!?」
レライが銃声と同時に振り向いた時、サナは大きな目を見開いたまま頽れようとしていた。
彼女の体を抱きかかえ、廃墟の陰に身を隠す。銃声はしばらく鳴り響いた。
レライは狙撃手の場所を探ったが、遮蔽物が多くうまく視ることができない。
「おい、サナ! 大丈夫か」
腕の中のサナは苦痛に顔をゆがめながらも、いつもの笑みを作ろうとしていた。
「問題ない……ですよ。急所は、外れてます……」
そう言って手で押さえている脇腹からは、血があふれ出している。
「止血するぞ」
「ははっ、先輩、応急処置下手なくせに、こんな時だけ……無理、しなくても……」
「しゃべるな」
雨が傷に当たらないように注意しながら、サナの体を壁にもたれかけさせる。出血量からして傷は相当深いようだ。
この傷では作戦の続行は不可能だ。いやそれどころか、今から救護班を呼んでも間に合うかどうか――
「……ね、先輩……覚えてますか。初めての任務で、あたしがへまをして、怪我して……その時もこうやって手当てしてくれたよね。下手くそだったけど……」
「忘れた」
「これで、二度目……先輩が助けてくれたの。あたし、本当はあの時から……先輩のこと……」
「無駄口を叩くな」
「だから、残念です――」
レライの後頭部に硬く無機質な感触が押し付けられた。
「――あなたはここで終わるから」
視界に映ったサナの冷笑を最後に、レライの意識は途切れた。
* * *
耳障りな声。なにかの鳴き声だ。
――この妙に耳にまとわりつくような高い音は……そう、猫だ。
ぼやけていた視界が鮮明になり始める。見えたのは、自分を見上げて鳴き続ける黒猫だ。何を思って鳴いているのか……身動きできなくなったレライを心配しているのか、それとも餌でもくれると思っているのか。
「目が覚めたんですね」
黒猫は華奢な人影に抱きかかえられ、視界から消えた。ぎこちなく頭を動かしそれを追う。
「普通の改造脳の回線なら一発でショートするほどの電流だったのに、三十分と経たずに意識を回復するなんて。やっぱりあなたは規格外なんだ」
レライは両手両足を拘束され、鎖で椅子にくくりつけられ座っていた。目の前に立っているのは傷一つ負っていない様子のサナだ。
そしてその周囲には旧式のライフルや電撃銃を持った男たちがいる。皆一様にレライへ銃口を向けていた。
「かわいいでしょ? この子。ここであたしが飼ってるんです」
サナに抱きかかえられている子猫は彼女になついている様子だった。ゴロゴロと喉を鳴らしながらサナの腕に身を委ねている。
「ただのお遊びのつもりだったけど、まさか本当にあなたの警戒が緩むなんてね。ふふ、体のほとんどを改造した機械人間でも、心はまだ持ってるんだ」
「……さっきのはキたよ。大昔を思い出した……頭ん中ぐらぐら揺れて、やばい薬キメてる時のな」
「もうしゃべれるんだ? それだけの高機能の割に単純な手にあっさり引っかかるなんて、かわいいところあるんですねぇ。心配してくれてたから申し訳ないけど、さっき使ったのはただの血糊ですよ。まさかあなたがそれすらもわからないほど動揺してくれてたなんて、嬉しいなぁ」
サナは床に猫を下ろした。猫はしばらくサナの足元をうろうろしていたが、やがてどこかへ走り去っていった。
レライが監禁されているのは、放棄地区にしては立派な造りの建物だった。ここがこの辺りの反党組織の拠点なのだろう。
他の隊がどうなっているかわからないが、実質的に指揮官だったサナが連中の仲間だったということは、作戦も位置も筒抜けだ。もはや無事ではないだろう。
「いつからこんな遊びをしてたんだ?」
“遊び”と言われ気に障ったのか、男の一人がレライの額に銃口を押し当てた。が、サナが仕草でそれを止めさせる。
「最初からですよ。まあ、単純に言えばスパイです」
「驚きだな。十代前半からエデンで暮らしながら、党の思想に染まらなかったとは」
「それよりも前に、あたしは党は悪と教え込まれて育ちましたから。運よく党も知らなかったことだけど、死んだあたしの両親は反党組織の幹部だったんです。八年前、公安との間に大きな戦闘が起きて両親や多くの同志は命を落とした。だけどあの時の戦闘の混乱のおかげであたしがその娘だとはばれず、戦災孤児としてエデンに保護され――公安という党の中枢にも入り込むことができた」
「なるほど。完全を謳う党の管理体制も、案外適当なんだな」
「そしてその時の戦闘で目覚ましい活躍をし、多くの反党組織構成員を虐殺した“英雄”が、あなたです――レライ=シン」
レライの表情は動かない。
「おまえが反党組織のスパイだったというなら、随分とお仲間を殺してきたということだな。おまえの作戦で壊滅に追い込まれた組織はいくつもある。己こそが『同志の仇』じゃないか」
レライに銃口を突きつけた男が声を張り上げた。
「我々には大義がある。党の支配を打倒し自由を手にするという宿命が。そのためにサナはどうしても党の信頼を得なければならなかった。勝利のために、犠牲はつきものだ」
「随分と理解しがたい論理だが……」
「貴様には理解できるはずもない。この快楽殺人者が!」
「それはまあいいのだが。そこまでしてスパイとしてのサナに価値があったというのか?」
サナが答えた。
「価値があるのはあなたですよ、レライ=シン」
「ほう」
「公安局の有する人体改造技術――その最たる成功例があなただ。あなたを排除することが必要不可欠であると我々は考えてきた。……しかし、あなたほどの者を殺すのは忍びない。そして我々もこの技術を手に入れない限り、党にまともに立ち向かう術はない……単刀直入に言いましょう。我々の仲間になりませんか? そして開発実験にも協力していただく。了承すれば、命は保証します」
サナとレライの視線が重なる。
「あなたは党の思想に傾倒しているわけでもない。あなたからしても、党の支配体制は不条理だと感じているはずだ。党は教育と管理によって人々を思うがままにしている。表では清廉潔白な君主を気取りながら、裏では汚職にまみれ、特権階級の理想郷を築いているに過ぎない。そして、いまだ貧民街に取り残されている人々は汚染されているという理由でエデンの居住も許されず、エデンにおいても管理体制からはみ出す者は容赦なく排除している」
「党が悪なら、自分たちが正義というわけか?」
「それ以外に答えなどありません。我々は必ずや自由と平等の社会を実現する」
「なるほどね……」
レライの口元が笑みを湛えた。
「一つ教えてあげよう、サナ。この世に正義などない。君たちは絶対悪を作り上げ己を善と信じ込みたいだけだ。それは事象を二面化しているに過ぎない。もちろん、党が正義というわけでもない……最初から存在しないんだよ、そんなものは」
「そのようなことはない! 不条理で汚れた体制を倒し苦しむ人々を救う、それが正義でなくてなんだというのですか」
「君たちが党を倒したとしても、必ず憎しみは生まれそれは連鎖となり永久に脱することはできない。完全なる支配も、法も存在しない。これは単なる事実だよ」
「……どうやらあなたとわかり合うことはできないようですね」
サナが手を掲げる。男たちが一斉にレライの頭に狙いを定めた。
「さようなら」
その台詞は、サナとレライの口、両方から同時に発せられた。
血の赤が鮮やかに灰色の床と壁を染め上げる。
「……な……」
サナは仲間たちの血と脳漿の雨を浴びながら呆然と立っていた。
起こったことを理解することは到底不可能だった。一斉に銃撃を受けてレライの頭は跡形もなくなっているはずだった。
ところが――なんの予兆もなしに、仲間の男三人の頭が同時にはじけ飛んだのである。
「やれやれ、これはなるべく使いたくなかったんだけどね……この後にくる頭痛がすごいんだよ」
レライはゆっくりと立ち上がった。彼を拘束していたはずの鎖はいつの間にかちぎれ、床に落ちている。
「おまえたちは勘違いしているよ。党がいかに巨大で計り知れないものを秘めているか、まったくわかっちゃいない。エデンに住む連中そうだ」
「……あなたは、一体……」
「党が成立するより前から人体の改造技術は普及していて、党はそれをより推し進めた。そしてやがて、人間の体のほぼすべての改造・強化しつくした党はついに未踏の領域に足を踏み入れた――脳だよ」
レライは人差し指でこめかみの辺りを指差した。
「知っての通り、俺は改造手術でほぼ全身が人工の代物だ。だが、唯一脳だけは生身で残っている――改造された上で。今しがたやって見せたのはね、脳をいじくられた末に手に入れた人工の超能力だよ。党は脳の改造をもってして、その存在を更なる高次の領域に押し上げた――完璧な支配者となるため、すなわち己そのものを法とするために」
最高レベルの機密と思われるそのことを語る口調はあまりにも淡々としている。
「俺が元は死刑囚だったという噂があったな。あれは事実だ。この“神の実験”には強靭な精神と肉体を持つ者でなければならない。俺はこの実験に耐えうる個体として選出されたのさ。そして、成功体となった。一応はね」
サナは無表情のままレライを見つめている。
「あまり驚かないんだな」
「驚いてますよ、もちろん……」
その時サナは不意に微笑んだ。
レライは意外に思った。数年間行動を共にしていた相棒。サナはそれ以下でもそれ以上でもなかった。今目の前にいる彼女の表情――あきらめたようにも見える微笑。それは今まで見たことのない顔だった。
「……先輩が何者でも、今更どうでも良いですよ。だって、あたしが怪我のふりをした時のあなたの動揺は本物だったから。それだけであたしは嬉しかった」
サナの靴底が血だまりを踏み、ぱしゃりと音が立つ。
温度の無い彼女の左の指先がレライの頬に触れた。
「あの時言いかけたこと……あれは本当だよ、先輩」
彼女のもう一方の手、そこに何か光る物が握られていた。
レライにはそれが何かわかっていた。
「本当は、あたしは……大義とか使命なんてどうでも良かったのかもしれない。あなたのことが――」
レライがそれに続く言葉を聞くことはなかった。
サナの唇が動こうとした瞬間、彼女の頭部は子供に弄ばれた虫のそれのごとく、はじけ飛んでいたからだ。
倒れた体が握っていたものが、血だまりの中にぽとりと落ちる。
レライはそれを拾い上げた。対改造強化兵用のビームナイフだった。
「抜け目のない奴だな」
そう言うレライの声は笑っていた。あざけりではない。素直な感心と、少しの呆れが混じったいつもの彼のそれだった。
Ⅲ
公安局に密かに侵入していた反乱の種は摘まれた。
サナ=リューイという人間の記録はすべて抹消され、また彼女のことを噂する者はいなくなり、間もなく誰もが忘れ去った。
『やはり君に任せて正解だったよ』
公安局のビルの屋上で、レライは風に吹かれていた。
耳に当てた通信端末からは機械で声色を変えた音声が聴こえてくる。
「随分とご機嫌ですね、局長。実際は結構やばかったんですがね。あの力も使わなきゃならなかったし……おかげで体調は最悪だ」
『必要ならばメンテナンスを追加させよう。とにかく、こちらとしても一安心だ。421号――サナ=リューイの存在によって党の教育がまだ完全でないことが証明されたからね。これから更に改良を重ねなければ』
「最初から彼女の反党思想を知っていたのなら、わざわざ俺を使うこともなかったのでは?」
『まあそう言うな。君の実戦能力のデータも取れたのだから』
レライはサナを殺した時のことを思い出した。サナもレライを殺そうとしていた。あんなちっぽけなナイフ程度ではレライを殺すことはできない。それは彼女もわかっていた。わかっていながらも、サナは最期まで反抗した。
その理由は、この通話の相手にはわからないだろう。しかしレライにはそれが少しわかる気がした。
「……できればこのような後味の悪い真似は二度とさせないで欲しいですね」
『最後に彼女が君に言ったことを気にしているのかい? あれは君を惑わせるための嘘だよ。女という生き物に嘘はつきものだ』
「そうであってほしいですがね――」
と、レライは心にもないことを口にしてみた。