1-1-5 異形の水
ジャスティンに連れられて、シグとベルカは少し離れた通りへ向かった。辿り着いたそこは古い建物が多い通りで空き家も多く、人があまり住んでいない区画だった。
少し進んだところにエルヴィスがいた。壁にもたれかかるようにして通りの端に座り込んでいる。
「ああ二人とも。悪いね来てもらっちゃって」
「班長、怪我したってほんとか!」
「そんなに大したことないよ。ところでベルカはいい加減に先輩には敬語使おうね」
真っ先に駆けつけたベルカをエルヴィスが諫める。
エルヴィスはシグ達3人を含む班の班長で、同時に入隊した頃から世話になっている5つ上の先輩だ。隊の中では特に身近に接している先輩だけに、ベルカもかなり心配していたようだ。
もちろんシグも同じ気持ちだったが、何より剣の腕が西方部隊の中では5本指に入るであろう腕前の彼が怪我をしたというのが信じられなかった。
だが今のエルヴィスは普段と変わらないような様子で平然としていた。むしろ、柔らかく笑みを浮かべているようにさえ見える。
ただ、少し違うのはだらりと垂れた右腕に、血の滲んだ白い布が巻き付けられていること。
「エルヴィス班長……その腕……」
「心配ありがとう、シグ。本当に大したことないからさ」
「そんなわけないですよ! 手当はしてるみたいですけど、早く隊舎に戻ってちゃんと治療受けて下さい!」
「わかったわかった」
ジャスティンの言う通り、平気といえる傷には見えなかった。だがこの先輩はどんな怪我をした時でもいつだってこんな調子だ。お陰で世話焼きのジャスティンにはいつも心配されていたが、ひょっとしたら後輩の前で情けない姿を見せられない意地もあるのかもしれない。
「班長、なぜ怪我を?」
シグの問いにエルヴィスは今までとは違って渋そうな顔をした。
「それを見てごらん」
エルヴィスが手で示した先には、白いレンガで舗装された道があった。それは王都では一般的な道であり、特に変わった様子は見受けられなかったのでシグは首をひねる。しいて何かあげるとすれば、雨の多い王都ではよく見かけるものが一つ。
「……エルヴィス班長、ひょっとしてこの水たまりのことですか?」
訝しんでいるシグにエルヴィスとジャスティンが頷いた。
「そう、水なんだ」
エルヴィスは小さく息を吐いた。
「驚かないで聞いてくれ。最初、その水は人の姿をしていたんだ。そして僕たちを斬りつけきた」
「は?」
「どういうことですか?」
シグもベルカも困惑を隠せなかった。
「信じられないよね。でも嘘じゃないんだ」
「さっきね、この辺りを私とエルヴィス先輩で見まわってる時に男の人を見つけたの。どこにでもいそうな普通の男の人だったんだけど、なんだかフラフラ歩いてて様子がおかしかったの。それで先輩が近づいたらいきなり刃物みたいなので斬りつけてきたわ」
「その人の顔をよく見たらね、明らかに人じゃないって事に気がついて慌てて応戦したんだ。剣で切ったらその男の人は崩れてそこの水溜まりになったんだよ」
「よく見たらって……班長は最初から気づかなかったのか?」
「いやぁ、面目ないけど全くね。近寄った見たら体の表面が波打ってるように見えて変な人だなぁ……って思った時にはもう斬られててさ」
「先輩! 笑い事じゃないんですから! こっちがどれだけ心配したと思って……!」
「あはは、ごめんごめん」
「――先輩、あの三つほど質問してもいいですか?」
シグは手を挙げて言った。
「ああ、聞いてくれシグ」
「相手の武器は、一体何だったんですか?」
「多分だけどね、それも水だと思う。腕の部分が刃に変形して斬りつけてきたんだ」
「そうですか……。あと、顔を見たら人じゃないってわかったと言うのは?」
「それはね、これには目がなかったんだ。それだけでも決定的なんだけど、なんていうかな、明らかに生気がない感じというか、人じゃないって思ったんだ」
「……じゃあ、もう一つ。これは、先輩の考えを聞かせていただきたいのですが、相手は魔物だったんですか?」
「……多分、魔物じゃない。そこが引っかかってるってことは、シグもおかしいと思ったんだよね」
「はい」
「えっ、魔物じゃないってどういうことなんだ?」
ベルカの質問にシグが答える。
「ベルカも魔物のことはよく知ってるだろう。この世界に昔からいる、人を襲う生き物だ。様々な個体、大きさ、形のものが存在するが、魔物はどの個体も全身が黒色だ」
「あ、そっか」
「そう、確かに人の形に似ている魔物も見たことはあるが、色が黒ければさすがに班長もジャスティンも人とは思わないだろう。それに王都には魔物除けの結界だってある。ならば班長が見たのは一体何だったのか」
「じゃ、じゃあ魔獣だったんじゃないのかな?」
「それもおかしい。魔獣が人を襲うなんて聞いたことがない」
「そうだな。何考えてるのかわかんねぇやつばっかだけど、人間を襲うってことはしねぇな」
「んー……僕が見た感じだけど魔物でも魔獣でもないと思う。しいて言うなら、魔法使いが作る使い魔やゴーレムみたいなものに思えたね。あそこまではっきり人の姿をしているものは見たことがないけど。ジャスティンはどう思った?」
「私は、近くでは見てないけど、ホラー小説に出てくるゾンビとかグールとかそういうのかな、って思いました。それか……」
ジャスティンは少しだけ間を開けて、そして言った。
「幽霊」
その答えをなんとなく予想していたシグと、同じくそう思っていたらしいエルヴィスとシグが頷きあった。
「つまり、最近の幽霊騒ぎってのはこいつのことだったってことか」
ばしゃん、とベルカは水たまりを踏みつけた。水は飛沫をあげただけだった。
「そうだね、はっきりとしたことはまだわからないけど、これでようやく尻尾がつかめたって感じかな」
「だな。街中で見られてんだし、こいつ一体しかいなかったなんてことはねぇだろうしな」
「きっとこれから忙しくなるよ」
「そうですよね!」
「まぁ手当てはあんまり増えたりしないだろうけどね」
「そ、そうですよね」
頷きながらもジャスティンは少しだけ肩を落としていた。
「じゃあ僕はそろそろ隊舎に戻って報告してくるよ。3人はこのまま一緒に巡回を続けて、予定時間になったらすみやかに帰還すること。じゃあ後はシグにお願いするね」
「わかりました」
「班長、他の奴には伝えなくていいのか?」
「他の隊員には隊舎の方から人を送るよ。3人はこの辺りの隊員に会った時は知らせてあげて。ただ、必ず3人で行動すること。相手の情報が少なすぎるし、何かあってからじゃ遅いから」
「で、でも、先輩を一人にするなんて……」
「ありがとうジャスティン。でも自分の身くらいは左手でも――?」
不意にエルヴィスの声が切れた。急に訝しげな顔で辺りを見回す動作を見て、3人も同じようにする。
ーーなんだ?
唐突に水の匂いがした。雨でもないのにむせ返るような湿気が周りに漂っている。
そして、ざわりと悪寒がするほど空気が冷えはじめていた。
シグは気付けば剣を抜いて身構えていた。ベルカとジャスティンもそれぞれ槍と剣を構え、息を潜めて周りを睨む。
街灯、民家、街路樹、屋根、窓、水路ーーと視線を移したところで、
水路の水が、不自然に跳ねた。
「水路だ!」
シグが叫んだ次の瞬間、水路の中からと不自然に水が盛り上がる。やがて人間大ほどの大きさにまでなり、ぐねぐねと大きく波打った後、水が女性の姿になった。
俯いていて顔までは分からないが、服も着ていて、髪もある、どこにでもいそうな普通の女性の姿だった。
うっすら透けているようにも見えるその体には、エルディスが言っていた水面のような揺らめきがあった。
水の女性は、水路から出て道路にぺちゃりと足をつける。そしてゆっくりと顔を上げた。
「ひっ……!」
ジャスティンが小さく悲鳴を上げた。
長い髪の隙間から覗く女性の顔には――目がなかった。
女性はニタァとした笑みを浮かべ一歩一歩こちらへ近づいてくる。
その後ろから、同じく水の人間たちが2体出現していた。
「エルヴィス班長! ここは私達で食い止めるので隊長に伝えてきていただけますか!?」
エルヴィスは少しだけ渋い顔をした。
「……わかった、3人共気をつけて! まずくなったらすぐ逃げるんだよ!」
言いながらエルヴィスは踵を返し走りだしていた。
「ジャスティン、班長についていかなくていいのかよ?」
「行かないわよ。先輩よりこっちの方が心配だわ」
「そりゃありがとな!」
「そろそろいいかな? 二人とも、来るぞ!」
軽口を飛ばしつつも三人は頷き合い、近寄ってくる水の異形たちへと向き直った。
エルヴィスの呼び方
シグ→エルヴィス班長、班長
ベルカ→班長
ジャスティン→エルヴィス先輩、先輩