第五章 羊魔老ナギ。 第二十七話 羊魔老ナギ。
100年変わらず存在し続けた風祓いの塔は、建設者の一瞬の激高により吹き飛ばされる。
塔を打ち抜いて……上層より順に壁を内部から吹き飛ばし……ゾナを直撃するかに見えた稲光は、ナギのひるがえした短杖に受け止められ、吸収されて消えた。瓦礫が遅れて降ってくる。風祓いの塔はナギ達のいる3階より上層を完全に失った。夜空に星が瞬いている。瓦礫は断崖の草原に撒き散らされ、塵や微細な破片がゆっくりと中を舞うばかりとなった。月明かりと瓦礫に生じた小さな炎だけが辺りを照らし出していた。 ナギの傍らではウィウが震え声を上げずに泣いている。一瞬の静寂があり、老ナギは口を開いた。
「……封魔の杖に、鏡と木霊の術を施した剣か。ふむ。用意周到じゃな。まるで、ワシと魔力をぶつけ合う日がくることを見越していたかのようじゃの。まぁ……当然ではあるがな。」
ナギは大きく息を吐き出し、切れ長の美しい黒い瞳を真っすぐに羊魔へと向けた。
「そうよ。あたしは、いつかあなたと対峙して、あなたの呪いからこのリガの街を解放するつもりだった。ちょっと予定が早まったけど、既に準備は終わってるわ。どちらにしても、あなたの狂気はもう沢山。ゲップが出るわ。」
言い終わると同時に、ナギは全ての短杖を抜き取り、式を唱え始める。老ナギは、獣の息を鼻から吹き出し、あざ笑った。ナギの式に答えて無数のルーンが老ナギの周囲に現れる。ナギが長年研究し、老ナギを倒せる唯一の術だと結論したそれをついに使う時がきたのだ。老ナギの力の源を絶つ術だ。この術により、老ナギは力の根源としていたウルスの瘴気から、毒気を抜き取ることが出来ずに、内から滅びるだろう。羊魔老ナギは常に体内にウルスのショウキを内包しており、そこから毒気を祓いマイトだけを抽出しているのだから。だが、術が完了する前に羊魔は突進した。大掛かりな術を使うには距離が接近し過ぎているのだ。でも、それは予定通り。ナギに足りないのはほんの一瞬。それを稼ぎ出す為にゾナが立ちはだかる。一瞬の睨み合いを作り出せば、それでナギの術は完成する。ゾナは大剣を横に構え、部屋を完全に塞いだ。巨大な羊魔の通る空隙は どこにもない。が、羊魔はゾナをスルリとかわす。ゾナには黒い陰が瞬いたとしか見えない。人外の魔物にしか達成することのできない速度だった。僅か一瞬の時間を稼ぐことさえ出来なかった。ナギの背後に回り込んだ羊魔は巨大な手でナギを打ちすえ、僅か3階建てとなった風祓いの塔から、弾き出した。術は霧散した。最大のチャンスは流れた。
ナギは脇腹の骨に赤熱する痛みを感じながらも、どうすることもできず塔の3階から落下する。あまりの衝撃に、体中が痺れ、全く動かすことが出来なかった。意識も、霞む。 彼女を追おうとするゾナの前に回り込み、羊魔はネジ曲がった邪悪な鉤爪を突き出した。ゾナは必死にそれを躱す。天与の才をもつ剣士であるゾナでさえ躱すのがやっとの鋭い突きだった。この羊魔は魔術師にして、格闘家でもあるのかと、ゾナは驚愕した。冷たい汗が流れる。そしてこの一瞬で、ナギは取り返しの突かない位置まで地面に接近しただろう。 運が良くても体中を骨折するだろうし、悪ければ……ゾナは不安と恐怖を感じながらも、 目の前の羊魔との戦いに集中した。ナギの元にたどり着くのが早ければ早いほど、彼女が助かる確立は上がる。彼女は俺を助けてくれた。俺は彼女を助ける。愛には愛で報いるべきなのだ。
はっ!と短く強く……そして、静かに体全体でゾナは呼吸を行う。同時に周囲のマイトを取り込み、体内のそれと練り合わせ密度を上げて行く。ゆっくりと息を吐き出し……また吸い込む。限界を越えて体内に蓄積されたマイトは昇華し、黄金のオーラとなって立ちのぼる。力強い金色のオーラがゾナを包み込んでいる。白銀の大剣の切っ先までがゾナのマイトを帯びて、光り輝く。ゾナは一気に踏み込んだ。気合と共に白銀の大剣を打ち下ろす。羊魔は軽く身を引き、事もなげにかわした。ゾナ渾身の一撃は、床板に大きな穴を空け階下の天井を崩したが、羊魔にはかすり傷一つ負わせられなかった。老ナギは余裕の笑みを浮かべている。
ゾナもまた、笑う。
大剣を床から引き抜くと共に、無数の床板の破片を羊魔に向けて飛ばす。
羊魔は左腕で破片を払う。
ゾナが消えた。
左腕に鈍痛が走る。
切断されていた。
無くなった腕やゾナを探すより先に素早くその場を離れる。
次瞬、切断された左腕から血液が吹き出した。
重なるように、左脇腹に激痛が走る。
羊魔は漸く気づいた。最初の一撃は床板を砕く為であり、撒き散らした床板は攻撃ではなく目隠しであったのだ。左に払い飛ばす床板の陰に隠れゾナも左に移動したのだ。そして、痛みに振り返るより早くさらに左へと。で、今はどこに?羊魔は大きく飛び上がった。 一飛びで、フロアの端まで飛び下がったが、それでもゾナを見つけることができなかった。 全てが吹き飛ばされ何の遮蔽物も無いというのに。痛みと怒りがたぎる偏平な黒目をぎらつかせるが、ゾナは見つからない。
ゾナは気づいていた。
一瞬、勘違いしかけたが、羊魔の体捌きは格闘家のそれではなかった。羊魔の高い身体能力によるものなのだ。素早く反射神経も鋭かったが、それだけだった。結局、魔術師は魔術師であり……
「接近戦は不慣れだな。」
床下から突き上げられた大剣に左ももの肉を抉られた。そう、最初の一撃は、階下へと 降りるための穴を空ける為にあったのだ。床板を撒き散らしたのは目隠しより、穴を潜り込める大きさにすることに目的があったのだ。風祓いの塔の低い天井とゾナの巨大な剣が可能とした策だった。羊魔は悲鳴と共に式を唱え、ルーンを切る。
……紫の腐陽よ!!
羊魔の右腕から紫の火球が飛び出す。
ゾナはナギの鏡と木霊の術に護られた大剣で火球を受け止める。爆発が起こり、ゾナと 羊魔は塔ごと吹き飛ばされる。巨大な火球が破裂し、今度は3階が無くなり、塔は2階のみとなった。巻上がる炎と粉塵に視界を遮られながらも両者はすぐに互いを見つけた。
その距離、5トール。
離れた。
今度は術に有利な距離だ。
勝利を確信した羊魔はすぐにルーンを切る。
よりも早くゾナは大剣を投げ放った。
大剣は羊魔の頭部を直撃した。
不気味な渦を巻く角が砕け、血と共に後方に飛んで行く。
しかし、致命傷ではなかった。
羊魔は踏みとどまり、ピアニストのように器用に指を動かし、式を結ぶ。
…来たれ!絶望の沼の主よ!ララ・ノイエ・ハールーン!
羊魔の腹部より腐敗した龍が飛び出し、ゾナに食らいつく。
直前、
俊馬ファントが飛び込み、ゾナはその背に乗る。
腐龍は獲物を失い、塔を離れそのまま反対側の岸壁に激突し爆発して岸壁を砕いて消えた。
「逃がさぬ!」
叫び、ファントを追う羊魔を稲光が貫いた。体中の血液が沸騰しそうになるのを、停滞と再生の術で抑える。振り返る羊魔の視界の先にはウルスハークファントに跨がり浮かぶ ナギの姿があった。塔より落ちたナギを、ウルスハークファントは……ウィウを救った時 のように……受け止め激突から護ったのだ。羊魔が呪いの言葉を吐くより先に、ウルスハークファントが爆発性の黒炎を吐き出した。
直撃を回避することができなかった羊魔はバラバラに吹き飛ばされた。羊魔の黒い肉片が辺り一面を覆いつくし、毒気のある悪臭を撒き散らした。
ファントの手綱を絞りゾナは振り返った。歓喜の叫びを上げようとするゾナの目の前で、羊魔の肉片が膨らみ変容を遂げる。それらは触覚を生やし、牙を突き出し、足を突き出す。 不気味な縞模様を持つ後ろ足をびくつかせて起き上がる。その変容は一瞬で進み、大地はこぶし大のカマドウマの群れで黒く蠢く。
……後悔させてやる。
羊魔の声が、脳内に直接響く。カマドウマは、一斉に飛び撥ね、崖下のリガの街へと降りて行く。黒い波となり、ザワザワと崖を下って行く。後を追おうとするナギにゾナが声をかける。
「まった。ウィウがいない!」
街か、ウィウか。
二人は一瞬、胃が引き絞られるのを感じた。
そして、自らの決断に身を任せた。




