flag3. デッド・エンドかバッド・エンドしか選べないわけだが
裸でうろうろしていた妹は、案の定、体調を崩した。
風呂場から出てくるなり、ぼんやりしていたので、熱でもあるのかしらと計ったら37度ほどの微熱が出ていたのである。
自業自得というか……分かっていたのに、俺が兄貴らしく、しっかり注意できなかったせいというか……。
元を正せば俺が大昔に過保護すぎたせいで、妹がこんな性格に育ったというのもあるかもしれない。そうして自分に原因を探している時点で、じゅうぶん過保護なのかもしれないが。
「にぃにぃ……」
「具合悪いみたいだったら、明日学校休め」
「うん、ごめんね」
「そんなに気落ちするな」
「ごめんね、にぃにぃの為に、一緒に登校できなくて」
「俺のためでもなんでもないだろ、それは」
栗色の髪を撫でながら思った。
どうしてこいつは、いつもいつも『俺のために』なんて……。
「ダメです、にぃにぃを、見守ってあげなければ、不安なのです」
「俺っていつから守られる対象になったんだ? いいから寝ろよ」
「にぃにぃ、だからね、今日は、一緒に寝よ?」
「………………」
俺は、妹の隣でぐったりしている抱き枕を、疲れた目で見やった。
ドングリみたいな目の下に、大きな切り傷が書かれている。
どう見た所で、『俺』をキャラクター化した抱き枕だった。
なぜ俺の抱き枕を置いているのか知らない。
俺の役割を任されたその抱き枕は、なぜか腹の位置にぽっかり丸い穴が空いていて、綿がこんもりはみ出していた。
……ああ、そうさ。
部屋に入って、その抱き枕が目に入った瞬間から……俺の頬の傷がひりひり痛んで仕方ないのさ。
その穴どうやって開けたの。ねぇ、何を思って開けたの。もう一度確認するけどその抱き枕俺だよね。
俺は、妹と一緒に寝る危険性と、離れて寝る危険性の両方を天秤にかけた。
どちらも寝首をかかれる危険性があった。だが、離れて寝れば、少なくとも、部屋にカギをかけて眠る事は出来る。
思い切り冷や汗をかき、ゆっくり首を振った。
「バカだな春香、俺まで風邪を引いたら、お前の為に、朝ごはんを作ってやれないだろ?」
「うん、わかった……」
「ん? やけに素直だな」
「だって、にぃにぃ、早く1人になって、したいもんね」
「何を?」
「にぃにぃ、さっきの私、ずっと見てたでしょ?」
「………………」
「ハダカの私、見てたんでしょ?」
「………………」
「早く思い出して、1人でしたいでしょ?」
――ば、バカな!? あり得ないッ!
――あのとき妹はあえて風呂に入らず、自ら罠を片付けることによって、逆に俺を罠にはめたというのか!?
そうだ、何度も言うが、裸で衣服を畳んでいる妹を覗いている、なんてシチュエーション、端から見ると変態以外のなにものでもないじゃないか。もう過ちを犯したも同然だ。
しまった。やられた。俺は嵌められた。
妹の計算高さに人知れず戦慄を覚えていると、彼女は熱っぽい目でこっちを見た。
「いいよ、1人で寝てきても。にぃにぃ、すっごく変態さんだね」
「…………ッ!」
ヤンデレ化フラグを気にしすぎる余り、こっちのフラグにまで気は回っていなかった。
失策だ。完全に失策だ。
このままでは俺は、妹の裸をのぞき見して興奮していた兄貴という不名誉な汚名を被ってしまう。
どうにかしなくてはならない。
見ていたという事実を覆す事はできない、やましい気持ちではなかった事を伝えなくてはならない。
てかお前の貧相な身体なんて見て誰が興奮するか。
どうにかして、ここで兄貴としての面目を取り戻さなければならなかった。
叔母さんはまだ帰ってきていない、叔母さんに報告される前に、なんとか手を打たなくては。
だが、そのまままっすぐ伝えたらヤンデレ化するリスクが高い。お前は恋愛対象じゃないとまっすぐ伝えるようなものだ。10年前と同じ轍を踏む訳にはいかない。
考えろ、考えるんだ。
面と向かって伝える事なく、さりげなく態度でそれを証明する方法。ああ、そんな都合のいい方法なんて……あった。というか、これしかない。
「な、なんの事だ? 春香、俺にはよく分からないな」
朴念仁を装いつつ、俺は、にっこりと微笑んだ。
「考えたら、お前を1人で寝させるのも心配だ。俺もここで、一緒に寝てやるよ」
***
「うふふ、にぃにぃ、ついに陥落の巻き」
陥落してたまるものか。こんなの振りだ、振り。
簡易ベッドを持ってきた俺を、妹は始終にやにやと眺めていた。
熱で顔を真っ赤にしているくせに身体を起こし、ぽふんぽふん、とベッドを叩く。
「一緒に寝ようよぅ」
「む、無理言うな。お、俺は、寝相が、すごく悪い。春香を、蹴っ飛ばしたくないんだ。だから、俺はこっちな」
「………………」
簡易ベッドを広げて、シーツを敷いて、その上に寝転がった。
春香は珍しく素直に言うことを聞いていた。熱でぼうっとしているのかもしれない。
なにも言わずに、しばし黙り込んでいる。見ると、さっきと同じ姿勢で、むっすーと俺の方を睨んでいた。
何か企んでいるな、と、思ったら、ベッドからぴょん、と飛び降り、栗色の髪をゆらしながら部屋の中を走り出した。
とたたたた……。
――な、こ、こいつ背後へ……ッ! く、来るッ!
がばッ!
――やってきた、やってきた、やってきた、やってきたぁ~ッ!
這い寄る妹が! 名状しがたい二つの膨らみが、俺の背中にッ!
「にぃにぃになら、蹴っ飛ばされても平気だもん!」
「そ、そんな事言って、泣いても知らないぞ? 落ちたらキスするのは床だぞ」
「ううん、むしろご褒美。えへへ」
どんどんマゾっ気が開拓されていきますね、春香さん。
まずい、愛が痛い。この献身さもヤンデレルートの一種か。
妹は、後ろから俺にしっかり抱きついて、離しそうにない。
しかも、俺の腹に回された手の動きがやばかった。
あの抱き枕の姿を思い出した。腹の辺りにぽっかり穴が空いていた奴だ。
その穴が空いていたポイントを、妹の指が的確にぐりぐりと、ぐりぐりぐりといじっている。まさかこいつ指で穴を開けやがったのか!? カンフー映画か!
「久しぶりだね、にぃにぃと一緒に寝るの!」
「そうか? ああ、そういえば、昔はよく一緒に寝たな」
「にぃにぃ……」
「ん、なんだ?」
不意に、俺の頬の傷に、ひやっと冷たいものが触れるような感覚が走った。
しかし、それはヤンデレセンサーが働いたからではない。
妹の指だ。
妹が、俺の頬の傷を優しくなぞっていたのだ。
「ごめんね、この傷の事、まだ謝ってなかった」
「今さらなんだ」
「怒ってるよね」
「………………」
妹の方から、自然とその話題に触れてきた。
まるで、昔の行為はほんの遊び心だった、とでも言うみたいに。
どう返事をしていいか分からなかった。
何と返事しても、今さらのような気がした。
春香は、俺の背中に顎を押しつけ、鼻声で言った。
「にぃにぃの名前、どうして春風って言うか、覚えてる?」
「お前……その話好きだな」
「にぃにぃが、教えてくれたんだよね」
「ああ、確か母さんのお腹の中にいるときに、俺は女の子だって診断されてた。『春香』って名前をつけようとしてた……で、結局男の子が生まれたから、『ぜ』をつけて、男の子っぽくしてみたって」
俺が母さんから直接聞いた、懐かしいエピソードだ。
その2年後に生まれた本物の『春香』は、俺の背中に顔を押しつけて笑った。
「それ聞くと父さんの顔も、母さんの顔も見えてくる気がする。私も家族と繋がっている気がするんだ」
「そうだな、お前が生まれる前の事だもんな」
「私、にぃにぃを傷物にしちゃったこと、すっごい後悔してたんだ。会えない間、ずっとその事ばかり考えてたんだよ」
「――傷物?」
再び、妹は胴体をぎゅっと締め付けた。
それは、妹からは決して逃れられない俺の宿命を感じさせるほどの強さだった。
おいおい、傷物ってなんだ。どういう意味だよそれ。俺は箱入り娘か?
顔に傷を付けたから、責任を取るとか、ひょっとしてそんな男前な事を言うつもりで俺に近寄っていたのか?
そんな理由で今まで『俺のために、俺のために』って、しつこく言ってたのか?
許すとか、許さないとか、怒っているとか、怒らないとか、そんなの俺だって分からない。一度ヤンデレ化して、仲直りする間もなく引き離れた妹が、ただ恐ろしいんだ。
そうか、こいつは――怯えてたんだ。
10年ぶりに会う兄貴にどう接していいか分からなかった、それだけだったんだ。
ああ、分かってたさ――だってお前じゃ、どう頑張ったって、俺を幸せにすることなんかできないんだから。
ちくしょう……お前が妹でさえなければよかったのに。
……はい、言っちいました。
……俺はシスコンですよ。ひと目見たとき、ぶっちゃけマジ好みのタイプだと思ってました。
「誰も怒っちゃいないさ。俺はこう見えてモテるんだぞ?」
「……にぃにぃ、嘘ついた」
「ウソじゃない。俺は自分の幸せぐらい自分で見つけるから。お前が幸せになってくれたら、俺はそれで充分だよ」
「……うん、それは本当っぽい」
やがて妹は、俺の背中にくっついたまま、うとうとと眠ってしまった。
どうやら2人でひっついて寝ると落ち着くのは、俺も妹も同じらしい。
気が付くと、俺たち兄妹は仲良く眠りに落ちていた。
***
翌朝、妹が珍しく早起きをした。布団をもぬけの殻にして、どうやら朝ごはんを作っているらしい。
「あ、ダメだよにぃにぃ、まだ寝てて」
「え? なんで、もう7時だろ?」
エプロン姿のまま、春香は振り返った。
「にぃにぃ~ッ。おっきろ~、朝ごはんだよ~ッ、て、言って、起こしてあげたいの!」
どうやら妹は、理想の妹像を忠実に再現したいらしい。
そうか、そんなに起こすのを楽しみにしていたのか。
まあ、今日ぐらいはゆっくりしていこう。
「春香、料理上手くなったんだな」
「にぃにぃのお嫁さんになるために、頑張ったんだよ」
「へぇ」
いつもより遅めの朝食。叔母さんは夜勤明けでまだ眠っている。
どうやら久しぶりに2人でゆっくりできそうだ。
……と思ったのだが。
「はい、この浅漬け。にぃにぃのお嫁さんになるために、味付け工夫したんだよ」
「ふうん」
「にぃにぃのお嫁さんになるために、台風それてよかったぁ」
「ほう」
「あ、にぃにぃのお嫁さんになるために、帰りにスーパー寄らなくちゃ」
「………………」
「にぃにぃのお嫁さんになるために、晩ご飯は何にしたらいいかなぁ?」
ここまで聞いた俺は、もうそろそろ感づいていた。
どんなに感の鈍い奴でも、もうそろそろ感づいてもいい頃だろう。
どうやら妹の口癖であった『にぃにぃの為に』が、いつの間にか『にぃにぃのお嫁さんになる為に』へとグレードアップしていたらしい事を。
あからさまな語呂の悪さに目をつぶったとしても、残るこの違和感。
俺は勇気を振り絞って、突っ込んでみることにした。
「あの……春香、にぃにぃのお嫁さんになるためにって……それずっと使うのか」
「うん、使うよ?」
「春香……あのいつかメールでくれた『結婚計画』のことだけど……冗談だよね?」
冗談だよな、あれはただの演出だよな。
お前は俺を傷つけた罪悪感から逃れる為に、冗談を言って、気まずい雰囲気を必死ではぐらかせようとしていただけの、健気な普通の妹だよな。
試しに聞いてみると、妹は、天使のように笑った。
「本気だよ! だって春香、にぃにぃの事、大好きだもん! 一緒に幸せになろうね!」
妹のまぶしい笑顔から、顔を背けるように。
俺は黙って、部屋のどこでもない場所に目を向け、音を立てずに泣いた。
そして俺の妹は、今日も着実に、ヤンデレ化フラグを立て続けている。
〈了〉