flag2. 灰色の未来を夢見ているわけだが
昼休み、俺は中庭で2人の世界を形成していた幸田と美由紀のバカップルに相談を持ちかけた。
妹からは「サンドイッチあーん」「プチトマトあーん」というメールが届いていた。次はきっと「ポテトサラダあーん」だろう。「うん、おいしいよ、春香」というメールを送信予約して時間をかせぐ。
目の前でまさにあーんをやっている2人の注目を、咳払いで奪ってから、話を切り出した。
「俺と春香なんだが……なんか、べたべたしすぎだと思わないか」
「今さらかよ」
「今さらじゃないの?」
美由紀は愚か、幸田にまで呆れ顔をされた。返す言葉もない。
どうしてこうなった。あの初潮事件があるまでは、特にべたべたしているという意識はなかった。
家庭の都合で、春香の世話ができるのは俺ひとりだったから世話を焼くのは当然だと思っていた。
おしめも取り替えていたし、ごはんも食べさせてやっていたし、風呂にも入れてやった。
俺にとってはごく当たり前の事だったのだ。まあ、さすがにこの年齢になってまで一緒に風呂に入るのは、何かおかしいとは思ったが。
「甘えんなよ、春風。それは兄貴であるお前の仕事だ。誤魔化さずに、びしっと言ってやれ。お前が変わるしかない」
「それが、できない……」
「どういうことだ」
「妹が、またヤンデレ化しそうで怖いんだ……」
ヤンデレ化。別名、闇落ちとも言う。
様々な定義があるが、狭義には、愛情が強すぎる余りに、病的な精神状態に陥るイベントを指す。こじらせたばあい、最悪、愛された主人公は死ぬ。
この典型はギリシャ古典劇にもすでに見られる。サロメが有名だ。国王の愛人になったサロメはジョージⅡ世を愛する余り、彼の首が欲しいと国王にねだる。その後の畳みかけるような鬱々とした展開は……ここでは語るまい。とにかく、下手な選択肢を選ぶと命に関わるのがヤンデレ化なのである。
「疑うのなら、これを見てくれ……これは、お前達が、友人だから、見せられるんだ」
俺はケータイの画面を彼らに見せた。
そこにはつい先ほど届いた、妹からのメールが表示されている。
「にぃにぃ、考えたんだけど、春香とにぃにぃの結婚には、やっぱり順序よく段階を踏んでいく必要があると思うの。春香の方は、今のところ順調よ。にぃにぃの方はどう? ひとつ屋根の下に暮らせるようになったから、あとはにぃにぃが過ちを犯して、にぃにぃが私を愛してしまった事実が叔母さんにばれて、にぃにぃが家を追い出されて、私が後を追って家出をして、新天地をみつけて、そこで2人だけの結婚式を開くの。がんばろうね、にぃにぃ!」
「………………」
幸田は開いた口が塞がらないみたいだ。俺も最初見た時は暫く呆然としていた。
そんな鬱な計画を打ち明けて、俺にいったいどうしろというのだ。
幸田みたいな奴に悩みを打ち明けるほどに、精神に堪えていたと思う。
「これは……鬱展開だな……」
「だろ」
「春風くん、わざと理由を付けて距離を置いたらどう?」美由紀が心配そうに口を挟んだ。「春香ちゃんも今まで春風くんにずっと会えなかったから、そのぶん舞い上がっちゃってるのよ。少し離れたら冷静になるんじゃないかしら」
そうかもしれない。熱が冷めるまで、距離を置いて様子を見よう。
美由紀のアイデアに従い、俺はその日一緒に下校できない由をメールした。
「ごめんな、春香。今日俺と幸田は補習があって帰れないんだ。幸田がバカでずいぶん遅くなるみたいだから、先に帰っててくれないか?」
「……よし」
「気を付けろよ春風、声に出しながら打ってたぞ」
「ああッ!? し、しまった!」
メールを送信した後、俺と幸田たちは裏門から出た。妹が待っている表門や、帰り道でばったり出くわさないよう、俺たちは、そのまま夜まで時間をつぶすことにした。
ゲーセンやカラオケはお金がかかる。鴨川に小石を投げ込んだり、等間隔に並んだ恋人達の近くに爆弾に見立てた石を次々と設置していく幸田考案の脳内ゲームを楽しんだり、ぼんやりとカモを見ながら時間を潰した。彼女の出来ない俺の事を気遣ってくれたのだろうが、余計なお世話過ぎて胃に穴が空きそうだった。
しばらくして、美由紀から、「春香ちゃん、お家帰ったよ」というメールが届いた。
それを見て、ようやく俺はほっとした。
補講が終わるまで、意地でも俺の事を待とうとする恐れがあるため、帰宅を促すよう頼んでおいたのだ。
さすが美由紀、春香が唯一心を開いている他人の1人だけのことはある。俺も安心して妹を任せられる。
「……帰るか」
「おう」
七時になり、冷たい風が吹いてきた。標的となるカップルの姿も消え、鴨川はかなり冷え込んできた。
「明日辺り、桜が沢山散りそうだ」
「幸田」
俺は黙って、幸田に手を差し伸べた。
「色々とありがとう、幸田。お前がいてくれて、本当に助かったよ」
幸田は、そんな改まるような仲かよ、と言って照れくさそうに首を振った。
「お前もさ、もう少し余裕ができたら、春香ちゃんの気持ちとも真正面から向かい合ってやれよ。今のお前はただ逃げて遊んでいるだけだ。兄妹で結婚することは、別に法律で禁止されてるわけじゃないんだからな」
「しっかり禁止されている訳だが」
幸田は、やはりどこまでも幸田だった。
家に帰って玄関をのぞいたが、春香はまだ帰っていないらしい、玄関に靴がない。
叔母さんは今日は夜勤で、五時から出かけているはずだ、家には誰もいなかった。
着信メールも特になかったので、俺はすっかり近所のコンビニでごはんでも買っているのだろうと思って、自分のぶんだけ晩ご飯を作る事にした。
しかし、やがて八時になり、八時三十分になり。
どんどん夜が更けていくのに、妹は一向に帰ってくる気配はない。
まさか、と心配になってケータイに電話をかけると、春香のふぁ~ひという間の抜けた声が聞こえた。
「は、春香、なにやってんだ?」
「に、に、に、にぃにぃ~」ガチガチと歯が鳴っている。震えているのだ。震えているのに嬉しそうだった。
「にぃにぃ、春香、いい子で、待ってるから。え、偉い?」
「おま……美由紀から連絡うけとらなかったのか? 俺遅くなるから帰れって……」
いや、俺が甘かった。こいつはその程度で素直に引き下がる妹じゃない。
美由紀の目を盗んで、また校門まで引き返したんだ。そして今も、出てくるはずもない俺を延々と待ち続けている。
「待ってるよ、春香、にぃにぃが来るまで、ずぅ~っと、待ってるから」
「すぐ家に戻って来い」
「えっ?」
「戻って来い、今何時だと思ってるんだ」
「だだ、だって、にぃにぃ、まだ学校から出てきてないよ?」
「補講なんてとっくに終わってるよ。俺もう家に帰ってるんだよ」
ガチガチ、となっていた歯が、しばらく鳴り止んだ。
……
……
……
突如、頬の傷に、ずきん、と激しい痛みが走る。
ズ キ ン ッ!
「ぐ……ッ!」
まるで傷をそのまま鋭利な刃物でえぐられたような痛みだ。
――こ、これは!
――ヤンデレセンサーであるところの、俺の頬の傷が、こんなに強く反応するとは!
生命の危機を感じた俺は、早口でまくしたてた。
「そ、その……ごめんな、お前いないと思って、幸田と一緒に裏門から出ちゃったんだ、そ、それで……」
「ふぇぇぇぇえええええ」
突然、妹の泣き声が俺の耳朶を打った。
「どうしてぇ? どうして、こんなに可愛い妹が、一緒に帰ろうって、待ってるんだよ? いつもの優しいにぃにぃは、ごめんな春香こんなに待たせて寒い思いさせてごめんなって言いながら、ぎゅーってしてくれて、お家まで手を繋いで帰って、途中で肉まんとか買ってくれて、そうでなきゃやだよぉ、やだぁ。どうしてぇ?……」
「ご、ごめんなー、ホントごめん……」
俺は息をついた。無邪気ないつもの妹だった。
可愛いかどうかはともかく、いや、むろん可愛いのだが、妹をこのまま凍えるまで放っておく訳にはいかなかった。
「今どこにいるんだ? まだ学校か?」
「まって、にぃにぃ、いま鼻が、鼻が……うっくし! あぁーッ!」
「いちいち報告するな、迎えに行ってやるから待ってろ、切るぞ」
「ああーん、切っちゃやだ、切ったら春香、にぃにぃと兄妹の縁も切るぅ~!」
「しょうがない奴だな……」
ヤンデレセンサーが反応する気配はもうなかった。
なんだ、結局は俺が自意識過剰だっただけか。
妹だって少しは成長しているんだ。いつまでも過去の事件を引きずって、身の危険を案じているなんて自分は小さな奴だ。
そうだ、この傷のうずきも、嫌な予感も、きっと俺の思い過ごしに違いない。
……だが、この時の俺は、まさにその油断こそが、確定的な『フラグ』であるという事に気づいていなかった。
この瞬間も、俺の妹は、俺の知らない間に、着実にヤンデレ化フラグを立てていたのである。
***
帰宅した俺はドアを開け、ガッチガチに凍ってしまった妹を抱きかかえ、一緒に玄関に入る。
妹は辛うじてまだ生きていたが、冷凍マグロみたいに固まってしまっていた。
肉まんを買ってやるどころじゃない、すぐに温めてやる必要があった。
「風呂は入れてあるから、温まってこいよ」
「うん……」
暖房は出かけるとき消してしまったので、室内は外と同じくらいの温度まで冷えている。
フローリングの床は氷が張ったみたいな冷たさだ。電気ストーブの所までしゃーっと滑らせてやりたいが、さすがに妹を滑らせる訳にはいかないので、電気ストーブの近くまで移動させる。スイッチを入れても、火が点くまでのタイムラグが長い。
妹はぶくぶくのコートを着たまま、よろよろとバスルームへの扉を開けた。
「にぃにぃ」
「ん?」
「お風呂入ってるね、にぃにぃ」
「早く入ってこいよ」
「うん、入ってるね」
窓の外は、もうすっかり夜のとばりが降りている。
テレビを点けても大して面白い番組はやってなさそうだった。興味があるのは野球中継ぐらいだ。俺はひとり、次第に暖まってくる室内で、ティーバッグの紅茶を飲んでいた。
ふと、お風呂場の方を見ると、僅かにバスルームの扉が開いているのが見えた。
おまけに、隙間から見える範囲でも、床に大量の衣服が脱ぎ散らかっている様子が分かる。
――やれやれ、そそっかしい奴だ。
慌てて脱いで、よほど寒かったのだろう。
しかし、どうして下着だけ、ドアのぎりぎりに落ちているのだろうか?
ブラジャーやパンツだけ、ドアの隙間からはみ出るようにして落ちているのはどうしてだ?
疑問は残ったが、俺は気を利かせたつもりで、下着には一切手を触れず、ドアを使って中に押し込むように、磨りガラスの扉を閉めてやった。
扉がぱたん、と音を立てた瞬間、キンッ、と、俺の頬の傷がうずいた。
――まただ。
ヤンデレ化フラグなどないはずだ、ついさっきそう思ったはずなのに。
何か、重要な手順を踏み間違えた予感がする。
心臓がばくばくと高鳴り、恐怖が呼び起こされる。
――また俺は、妹のヤンデレ化フラグを立ててしまったのか?
幼かった俺の心にすり込まれてしまったその恐怖心は、簡単にはぬぐい去ることが出来ないものだった。
確認しなくてはならない。確認して、自分を納得させるだけだ。
軽く深呼吸をして、俺は閉じた扉を、もう一度開けた。
すぐ目の前に、春香の下着類、そして遠くにセーターやタイツやスカートやジャンパーなどの衣服が散らかっている。
そして、風呂場と脱衣所を仕切るドアには、うっすらと人の立ち姿が透けて見えた。
――居る!
やっぱり、そういう事だったのか。
あのとき、妹のヤンデレ化フラグは着実に立っていたのだ。
これは罠だ。
俺が妹の下着に手を触れるという、『過ちを犯す』ように仕向けた罠だ。
そして俺はこの罠にかかることを期待されている、1匹の哀れな野ウサギなのだ。
触れてたまるか。妹の《結婚計画》通りに事を進めるつもりなら、ここで俺に過ちを犯させ、その既成事実を作った妹は、次にその事実をおばさんに打ち明けるだろう。そして俺が妹によこしまな感情を抱いているとウソをでっちあげ、家を追い出された俺と駆け落ちする算段なのだ。
まさに急転直下の鬱展開である。冷や汗が出た。そんな展開にだけは、絶対にさせてはならない。たとえ俺の命が危うかろうと、妹のためにも、なんとかしてやらなくてはならなかった。
「は、春香~、風呂入っているか~?」
こんこん、とわざとらしく音を立ててノックをしてみた。
ドキドキしながら見ていると、ドアの向こうの人影がもじもじ動いて、春香の、のんびりした声が聞こえた。
「う、うーん、気持ちいいよぉ、春香、ちょっぴりおっぱい大きくなったかなぁ?」
「そ、そうかぁ、よかったなぁ」
まずい。言葉が続かない。「アホだろお前モロバレしとるがなブギャーm9っ」って言ってやりたい。だが、そんな身も蓋もないことを言った日には、狩人はきっと腹を立てて、野ウサギを原形も残さないぐらいメッタ刺しにするに違いない。
そうだ……俺は狙われている立場なのだ。
狩られる立場なのだ。命を握られているのだ。ひとつの隙も見せてはならない。
愛されているのは、正直嬉しい。
けど、こんな愛は間違っている。
愛って一体なんなんだろう。
いまだかつて、こんなに手に汗握る愛があっただろうか。
「ま、マフィン作ってあるからさ。叔母さん、帰ってくるの朝になりそうだし、お風呂から上がったら、好きなだけ食べていいぞ~」
俺は必死に考えた。考えに考えた末で、やっぱりこんな、その場しのぎの、雰囲気をはぐらかす為の言葉しか出なかった。
慎重にならざるを得なかった。どうしても。妹と俺、両方の将来がかかっているのだ。
頬の傷が、すこし、ほんの少し、ぴりっと痛んだ。
だが、恐怖は感じない。身の危険を感じるほどではなかった。そう、妹は、俺の作ったお菓子が大好きなのだ。
「は、春香の好きな、鳴門金時のマフィンだぞ~、すごい甘いぞ~」
さらに畳みかける。徳島の親戚の家で育った春香は、鳴門金時が大好きだった。
「う、うーん。わかったよ、にぃにぃー。にぃにぃの為に、このお腹の脂肪が少しでも、胸に行くよう努力していくからね~!」
「あ、あはは。無理するなよー、それと『にぃにぃの為に』は禁止だろ-」
「ごめ~ん、にぃにぃ、大好き~」
いつも通りの甘えるような声。
だが、声が固い。
やはり俺が罠にかからなかったせいで、いくぶん機嫌を損ねてしまったみたいだ。
しかし、最悪という訳では無かった。
ヤンデレセンサーのうずきが徐々に和らいでいく。
――よし、よくやった。よくやったぞ、俺。
後はこの扉を閉めて、キッチンに戻るだけだ。
ゆっくりとココアでも作ってやって、風呂上がりの春香を精一杯もてなしてやる。
甘いな春香、俺を罠にかけるには、少しばかり色気が足りなかったぞ。
俺はこのヤンデレルートから、総力をもって離脱しようとした。
「……いっくし!」
そのとき、ほんの一瞬だけ、妹のくしゃみが聞こえた気がした。
……そういえば、あいつ、裸のまま、ずっとあそこに立ってるんじゃないか?
そう思った瞬間、俺の気持ちは、かすかに揺らいでしまった。
――さすがに風邪引くだろ。バカだな。はやく湯船に浸かってろよ。
言いたい言葉がふつふつと胸の内にわき上がってくる。
それがいけなかった。俺はそのまま、引き返せばよかった。
止せばいいのに、「風邪引くなよ」なんてひと言を言うために、俺はもう一度扉を開いた。
ああ……やばい。
やばい、やばい、やばい、やばい、やばい、やばい、やばい、やばい、やばい、やばい、やばい、やばい、やばい、やばい、やばい!
やばい、あいつ見てる!
めっちゃこっちの様子見てる!
妹の衣服が散らばった脱衣所と、浴室へと続くドア。
その奥で、妹はドアを、ほんの少しだけ開いて、細い隙間に身を寄せていたのだった。
確実にこちらをのぞき見ている格好である。
驚くべきは妹の知能犯ぶりだった。よもやくしゃみまで囮だったというのか。
しかし、向こうからは俺の姿が見えていないのかもしれない、妹は、生まれたままの姿を俺の前にさらけ出した。
裸のまま脱衣所に出てきて、床に散らばった衣服を、俺を誘うため自ら仕掛けた罠を、お片付けしはじめたのだ。
きっちり畳んでいる! ひとつひとつ丁寧に! 妙に律儀だ!
「しくしくしくしく……」
悔しかったのか、寂しかったのか、目元を拭いながら、服を畳んでいく妹。
不意に胸を襲ってくる罪悪感。
頬の傷が痛まない代わりに、今度は妙に胸が苦しくなった。
裸で衣服を畳んでいる妹を覗いている、なんてシチュエーション、端から見ると変態以外のなにものでもなかったが。
それでも俺は兄として、妹の身を案じざるを得なかった。
……ごめんな、春香。俺はお前を大切に思っているからこそ、今はこうしてお前を突き放しているんだ。俺はお前を愛している。お前の手を血に染めさせたくないし、お前にはまともな恋愛をして欲しいんだ。ある日お前が、お似合いの彼氏を家に連れてきたら、俺はきっとその彼氏の事をぶん殴るだろう。それくらい愛している。それでも決して逃げずに立ち向かってくるほどの、骨のある、芯の強い彼氏だったら、俺はそいつを彼氏として認めてやろう。そして、その彼氏に同情するだろう。『奴は犠牲になったのだ』と……。