冬の息苦しさ
憂鬱な朝だ。
今日も、直持は比奈子からのメールで起こされた。
「まあ寝坊しなくていいけどね」
美少女からのモーニングコール代わりと考えれば悪い気もしない。敗戦記録が増え続けるのは釈然としないが、この勝負ごっこも慣れてくるとただの日課だ。
ただし勝敗数を覚えていないと、比奈子が怒ってくるので直持も油断できない。
直持はのそのそと起き出すと、玩具のダンボールを跨いで顔を洗いに洗面所へ行く。
鏡に冴えない顔が映る。
「我ながら気の抜けた顔はダメだ」
これでも多少が顔に自信のある身だが、キメ顔してないと人間ってのはどこまでもダメな顔になる。
きっと一日に何回も、間抜けな顔になったりしてるだろう。
人間、鏡の前だとちょい気合が入るが、普段はたるんでいるモノだ。誰とて気合を入れて生きてる。
だがそれを常に顔へ貼り付けるのは難しい。
それを……常日頃から出来る少女がいる。
直持は比奈子の顔を思い浮かべた。
彼女は美人なだけじゃない。隙があるように見せて、身体にはまったく隙がない。
滑から肌はいつも滑らかで、髪はいつも整えられてて、百面相のように変わる表情だっていつも綺麗で、しかも崩れる事がない。
まるで人形だ。
「……キミは、いったいなんなんだ?」
直持は鏡へではなく、記憶に浮かぶ比奈子の顔に問いかける。
「なんで俺なんだよ」
疑念とも不安ともつかない思いが、直持の心を焦がしていた。
*
風が強い。
この地方の冬では、雪国の人を以てしても寒い! 死ぬ! と言わしめる強風が吹く。
全国二位の裾野を持つ山から吹き降ろされる風は冷たく、そして追い剥ぎでもしそうなくらい強い。
それため、この地方の学生はコートが必需品だ。それも風を通さない素材か、厚みのある生地でしっかりと作られたコートだ。
特に夕刻の風がもっとも強く、人も看板も吹き倒そうと荒れ狂う。
もっともこの迷惑な風だが、恩恵もまるでないわけでもない。
叩き付けるような風が、ハーフコートを着た女子生徒を襲う。重いコートの裾もなんのその。容赦の無い強い風は女子生徒たちのスカートをなびかせる。
「きゃぁーっ!」
「おおう!」
市野丞が恥も外聞を忘れて、女子たちをガン見する。
女子高生の悲鳴を聞いて、彼女たちをチラリと見た人たちは多いが、丞ほどはっきりと見る奴はいない。
「春の風と違ってめくれやしねーぞ」
直持はコートの襟とマフラーを握って、風が胸元に入らないよう素知らぬ顔で駅を出た。
普段、丞と一緒に帰る事はない。だが今日は剣道部の練習が無いため、直持は丞と一緒に下校した。
最近、比奈子と一緒の登下校が多く。直持は、こうして気楽な気持ちになるのは久しぶりだった。
「なにその余裕。どこからその余裕でるの? カノジョ持ちのナオザムライには余裕があるんかい? 余裕っち?」
上背のある丞は、直持の背後からしがみつく。押しつぶすように寄りかかり、直持を歩かせて風の盾にした。
こうした男子同士のじゃれあいも久しぶりだ。直持は不快ながらも、自然と笑みが浮かんだ。
「何が言いたいんだよ、丞。俺は単に、見れば女子から白眼視されて、見えなくても白眼視されそうな事するなって事だよ。それに俺はカノジョいない。いないから、カノジョ」
駅前の学習塾前を横切りながら、直持は彼女持ちという点を激しく否定する。
「またまた出ましたよ! どう考えてもお前ら付き合ってるっしょ」
「お前らって、誰と誰だよ」
「ナオザムライとぉ、比奈子ちゃん」
冷やかしと嫉妬が混じった複雑な声だ。
「ご冗談を」
直持は伸し掛る丞を振り払って駆け出した。
学習塾玄関の自動ドアが、走る直持に反応して急に開いた。
「きゃあっ!」
強い風が不意に吹き込み、学習塾ロビーで荷車を押していた宅配便の制服を着た女性が帽子を飛ばされた。
風が女性の髪を乱す。
彼女は暴れる髪を押さえている。
「あ……すいません」
学習塾の関係者でないが、直持は屋内に入って宅配便の制服帽を拾いにロビーを走った。
「おっ、ナオっちじゃん」
髪を整えた女性が、前髪を払って言った。
「あれ? 晃子さんでしたか」
直持は振り返りながら帽子を拾い上げた。
「お仕事、この風の中、大変ですね」
帽子を手渡し、直持は晃子と一緒に学習塾を並んで出た。
「いやー、この時期の学習塾は戦争だからねー。各種通知、参考書に問題集。次から次へと重い紙束のピストン輸送だよ」
晃子は女性らしい細い腕で力瘤を作る仕草をしてみせた。
体力はあるのだろうが、筋力はさほどでもないはずだ。彼女は彼女なりに仕事をこなしている。
反して、直持は多少の疲労感があるのものの、玩具を直す能力で濡れ手に泡のような仕事でお金を稼いでいる。
直持は、晃子や世間で汗水垂らして働く人たちに申し訳なく思った。
「ナっ! ナナオナオナオザムライくん!」
硬直しながら振動するという器用な身体状況を披露する丞が、裏返った声で直持を呼んだ。
「俺のアダ名がどんどん長くなる……」
ナオモチがナオザムライになって一文字増えてるというのに、丞はさらに長くしたようだ。
「だ、誰かね? この美人のお姉さんは?」
無音かつ高速移動で直持の肩を引っ掴み、丞はこそこそと耳打ちして訊ねる。
「いつも俺のアパートに来てくれる宅……」
「いつもお前のところにだとぉっ!」
丞の腕に力が篭ったので、直持は首をねじられないように身体から力を抜いた。
「あ、いや、丞。お前、絶対勘違いして……」
「いいや。絶対、勘違いしてないね」
「早とちりもしてるぞ」
「いいや。オイラの特技は千里眼だから」
「……正露丸だって?」
「わー、ナオっちの仲良し男子のお友達だね。お姉さん、学生時代を思い出すよぉ」
直持のボケは、晃子の歓声で打ち消された。
「あたしはナオっちのおうちに玩具を届けたり、直った玩具を世界の子供に配るトナカイさんです。よろしくね」
晃子は何故か台車を勢い良く担げ上げて、注目しろ(チェキ)!と横Vサインをかました。
「……すげぇ。駅前で出来る技じゃねぇ」
稀に良く奇行に走る丞ですら、晃子の大技に感嘆の声を上げた。
「……あの……千里眼……正露丸」
直持はボケを繰り返した。普通なら繰り返して言えるようなボケではない。
ツッコミばかりしてる人間が、なれないことをすると他人の反応が気になってしかないので、直持の行動も仕方無いことかもしれない。
「名前は新堂 晃子。新しいお堂って書いて、日光見ずして結構と言うなかれの日光を一文字にして、そして女の子のこだよ」
「あきこさんすかー。おいらは市野 丞です。よろしく。……と、運送っていうことは、あきこさん、お仕事の関係でナオザムライとお知り合いで?」
「うん、そうそう」
晃子は担いだ台車を降ろして、うんうんと首肯いた。
「よかったぁ。まさかこいつ二股してんじゃないかと思ったっすよー」
丞の指が直持の頬を突く。
「いてーよ。二股じゃねーよ。あと俺カノジョいねーよ」
「またまた、ナオザムライくん。キミには比奈子ちゃんという人がいるじゃないか?」
「え? マジで? ナオっちカノジョいるの?」
台車を背後に回して、晃子は顔を二人に近づけた。
化粧をしてないように見えたが、そこは年頃の女性。ほのかに乾いた芳香が漂う。
「うわ、晃子さん食い付きいいなぁ……。断っておきますけどいないですから、カノジョ」
直持は晃子の視線から逃げつつ、カノジョという問題について否定した。
「じゃあ、ひなこって女の子は? カノジョのようなもの?」
どうしてもカノジョという領域にしたいようだ。
「ただちょっと競いあってるだけの子です。なんていうの? ライバル?」
「ライバルじゃなくてラブラブじゃね?」
言い訳をする直持に、丞が茶々を入れた。
「ラブラブライバル? やっだ、超ウケるーね、それぇ!」
千里眼と正露丸は受けないんだろうか、と直持は不満の顔を見せた。拘って引きずるタイプである直持は、一度手を出すと止められない。
彼は内心、今度こそウケのいいボケをカマそうなどと不穏な事を考えていた。
それ故に危うい。
「ラ、ラブならライバルより聖書。……バイブルの方に書いてあるだろ」
「……ラ、ラバイブル」
ラとバの間に、ブのイントネーションを込めて。
「……あ、あたし仕事に戻るねぇ。じゃあねぇ、ナオっち……じょーくん」
いち早く立ち直った晃子が、そそくさと台車を押して路駐してある宅配車へと戻っていった。
「じゃあまた明日~」
窓を開け、晃子が手を振る。
「え、ええ……さようなら」
軽いエンジン音を響かせ、晃子の運転する宅配車は駅のロータリーを回って走り去った。
「なれねぇことすんなよぁ、ナオザムライ……」
見送った丞が、不機嫌に肩を竦める。
「な、なんのことだよ」
「お前はそういうキャラじゃねーだろ。周囲で浮かれた奴らの重石になる。それがお前の息苦しそうな性格の利点だろ?」
「お、俺はそんな息苦しくなんてないぞ」
直持は心当たりが無いと否定する。
「いや、息苦しいね」
丞は髪を縛り直し、ひらひらと手を振った。
「ナオザムライは、他人にない力を隠してる。それは……世界の誰もが感じ得ない。想像を絶する息苦しさ……だろ?」