239勝145敗4分の少女
直持の住む街は、中央に流れる大きな川で南北に分けられている。
大きな川と言っても二級河川だが、街を分断して不便さを強いるには十分な川幅を持っていた。そのため僅か一キロメートル間に、様々な形をした四つの橋が掛かっている。その四つの橋から少し離れた東西にも橋がいくつもかかり、多くの住民たちは毎日のようにこれらの橋を渡る。
幸い直持は橋を渡らず、川の北部を東西に走る電車一本で通学できる。
この街は人口が一五万人しかない地方都市のわりに学校が多い。高校は公立私立が乱立し、大学と短大、各種専修学校、駅前には独特な形状をした校舎の専門学校などがあり、県内県外から通う学生が多い。
隣接する街も学校が多く、そのため周辺は学生の街という一面もあり、商店街の活気がないわりに若人が行き交う不思議な風景が出来上がっている。
直持は制服姿で走る。マフラーを靡かせ、白い息を吐き走る。
須磨 比奈子が待つ駅の北口を目指して走る。
駅が近づくといよいよ学生が多くなってきた。寂れた街には不釣り合いなほど学生が溢れかえり、バスや電車に乗って学び舎へと通っている姿がそこかしこに見える。
駅南にも大きな高校があり、電車から降りた大量の学生たちが南口から吐き出されていた。
直持は駆け足を止めて、早歩きで駅構内を目指す。
「おっそーい!」
冷たい空気よりも凛とした声が、立ち止まった直持の背に投げかけられた。
白い息をすっと吐き出し、直持は呼吸を整えながら振り返る。息を整えてからではないと、呼吸が止まってしまうかもしれない。
心臓だって止まってしまうかもしれない。
それくらい声の主は美しいから――。
声の主、美しい須磨比奈子は肩をいからせ、おにぎりを片手に駅構内の売店前で仁王立ちしていた。
そんな姿も美しいと直持は思う。
艷やかに肩に掛かる長い髪は決して重く無く、眉で切りそろえた前髪は上品で、それでいて活発さの印象まで混在している。円な瞳はいつも輝きを失わず、つんとした鼻は自己主張を止めない。
小さな口元と小さな頤は、小ささ故の危うい均衡を保って彼女の美しさを引き締めている。
作り物か、工芸品か、白磁か、大理石の彫刻かと思わせるキメ細かく白い肌は、彼女の美しさに緊張感とアンタッチャブルな雰囲気を与えている。
触れれば冷たくて、繊細な人形のように壊れるのでは?
そんな風に思わせる美少女だ。
だが、そんな繊細さも一度口を開けば、快活さで吹き飛んでしまう。
「ナオくん、私の勝ち」
勝利宣言と共に、大股で歩みよるとニコリと笑って周囲の視線を誘導する。誰もが彼女の美しさに見惚れている。
「またかよ……」
そんな女の子と対面して話す直持も、年頃の男の子の中ではなかなか整った顔立ちだ。だが、彼女の前では凡庸で垢抜けたところがない。
不釣り合い……と思われる周囲の目線が少なからずある。だが、直持はあまりそういった事を気にする性格ではなかった。と、いうより目の前の美少女を意識しすぎて、何も耳に目に入らない。
「239勝145敗4分ね」
比奈子が声高らかに宣言する。
彼女はいつもこうだ。つまらない事でいちいち勝ち負けを決めて、律儀に数を数えている。
直持は内心では辟易としていたが、この勝負ごっこが彼女との関係を保つ理由な気がして拒絶できない。
「はいはい、僕の239敗ね」
出来る限り興味なさそうに……。だが迷惑とは思っていないという態度で頷いた。これが直持が精一杯できる彼女との距離間だ。
積極的に勝負はしない。だけど嫌だと素振りを見せない。
本気で勝負などして比奈子が呆れられないように、そして嫌がっているからと彼女が勝ち負けを言い出さないような事にならないように……。
上手くいっているかはわからないが、思惑通りこうして彼女とライバルごっこを続けられていた。
彼女が急に持ちかけてきたちょっと面倒な勝負事だが、こうして美少女と仲良くできるなら悪くもない。
それが直持の正直な感想だ。
「よし、じゃあ学校行こ」
比奈子はそういってからおにぎりを一気に頬張り、スカートとコートの裾を翻し改札へ向かう。
比奈子のカバンについているキーホルダーたちがジャラリと音を立てた。
キ○ーピーちゃんにうさぎのぬいぐるみ、小さな鉄砲型ライトや廃棄物でできたような人形に、デフォルメされた女の子の人形などなど、重苦しく邪魔なほどカバンにぶら下がっている。
無節操にジャラジャラとぶら下がっているせいで、キーホルダーたちには傷が目立つ。中には腕の取れた人形まである。
以前、直持は修理すると言ってみたが、彼女はこれも長年の愛着だからと固辞した。それから直持も直すなどと無粋な事は言わない。
「また増えたね」
「もぐもぐ……ん、わかる? うさぎの子が新しい子だよ」
パスモで改札を通過した二人は、衆目を浴びながら到着したばかりの電車に乗った。
通学時間とあって、なかなかの乗車率だ。押し合うほどでもぶつかるほどでもないが、半歩進めば誰かにぶつかる。
そんな、こそばゆい空間……。
二人はカバンが時より触れ合うくらいという微妙な距離間を保って電車に乗る。
二人の通う学校は、電車に乗って一駅隣り。低い丘の上に立つ学校だ。
関東平野最初の北限といった山並み。その山々の一番南の丘。そんなところに学校は立っている。
だんだんと町並みが寂しくなり、電車の南はすっかり田園風景。その向こうには川。その先に広がる関東平野。
北の窓を見れば低い山々並び、その向こう連なる山は次々に高さを競い始めて、遠くには雪をいただく雄々しい山がいくつも並ぶ。
切通しを抜けて到着した駅は、半無人駅だ。朝夕などは駅員がいるが、日中はだいたい誰もいない。
近くに有名な観光地があり、行楽シーズンには何万人も日に乗り降りする駅などとは見えない小ささだ。
改札を抜けて二人は並んで学校へ向かう。
直持は、彼女が「学校まで競争よ!」と言い出さないか不安で堪らない。だが、どこかでそんな戯れあいのような勝負を望んでいる。
美少女と並んで登校するのも悪くない。きっと比奈子がいれば何を競っても悪くない。
直持がふと比奈子の横顔を眺めたとき……。
「よう! ナオザムライ! 今日も同伴出勤かい?」
駅前の弁当屋から出てきた男子生徒が直持たちを見つけると、手を上げて声をかけた。
竹刀袋を背負った彼は、クラスメイトの市野 丞。高校入学時、直持と席が近くなったときから友人関係が続いている。
「いや、通学か」
長い髪を後ろで縛った浪人スタイルの学生で、竹刀袋を持っていることからもわかるとおり剣道部だ。
一年生ながら団体戦のレギュラーを狙える立場にあるが、弱小剣道部なので実力がとりわけ高いわけでもない。
しかし浪人スタイルと上背のある体格は、なかなか様になっている。
「おはよう、市野くん」
「おはよう」
笑顔で挨拶する比奈子に、丞はニヤケ顔で答えた。仏頂面の似合いそうな馬面だが、美少女の前では顔は緩むらしい。
「と、ところでナオザムライ」
美少女と対峙する事が辛いのか、丞は話題を変えようと直持の肩に手を回して、比奈子から視線を逸らす。
丞は直持を『ナオザムライ』と呼ぶ。入学時、彼が直持の名前を直「侍」と読み間違えた事が原因だ。以来、頑なにその間違えを正さず、ナオザムライと呼び続けている。お陰でクラスメイトの間で、ナオザムライという愛称が定着してしまっている。
愛称なのに本名より長いのはなぜだろうか。
比奈子が呼ぶ『ナオくん』というのもむず痒いのだが……。
ちらりと比奈子の様子を見た直持の肩を強く抱き寄せ、丞が耳打ちをする。
「さっき、大河内先生がやたらデカい荷物を持ってきてたぜ。また直して欲しいのがあるって言ってくると思うぞ」
「え、またかー」
大河内先生は担任教師だ。既婚者で五歳になる子供がいる。
五歳頃の子供となれば、玩具を壊すなど日常茶飯事だろう。これがもう少し小さければ、頑丈が取り柄の玩具を預けているのだろう。だが五歳頃となると複雑な玩具にも興味を示し始めるし、力も強くなってきて遊び方の試行錯誤が激しくなる。
大河内先生は学食の券で修理代金を支払うので、一応はお得意様ではある。昼食は毎日のことなので学食の券は魅力的だが、券という形なので貯まるとクラスメイトにタカられ易い。
隣の丞もそのタカる一人だが、彼は直持の秘密を知る人物であり、それを隠す協力もしてくれているので奢るの事はやぶさかでもない。とはいえ彼にばかり奢っていては不公平だと言い出す友人や、図太い神経のクラスメイトが出てくる。
出来れば現金を送って欲しい……。
などと、学校へ向かう坂道を登りながら世知辛い事を考える直持。
比奈子はベタベタする男二人と嫌な顔一つせず並び歩く。丞に肩を組まれたまま、直持は比奈子の様子を窺った。
なぜこんなに綺麗な子が、勝負をふっかけるという形でそばにいてくれるのだろうか?
幾度もなく浮かぶ疑問。
比奈子が直持にどんな感情を抱いているかなどわからないが、少なくても友人としての好意くらいは持っていてくれているはずだ。直持は彼女の気持ちを理解したいが、いつも勝負ごっこにかまけてしまって確認することができない。
そんな直持の視線に気がつくと、彼女は臆面もなく微笑み返してくれる。
「あ、そ、そういえば、丞は今頃登校か? 朝練は?」
気恥かしさから直持は視線を逸らし、丞とたわいのない会話をして誤魔化してしまった。内心では、こんな態度は良く無いなぁ、嫌われないかな? などと考える直持は不甲斐ない。
「ちげーよ。俺、弁当買いに来ただけだよ。カバンは教室だし、武道場から竹刀持ったまま買いに来たんだよ」
戯れあいながら登校する直持の姿を、黙って見詰める比奈子。
彼女の目は直持を見据えて揺るがない。
ムズ痒くでその視線から逃げようとする直持。
そんな彼を見詰める視線は、まだあった。
比奈子のカバンにぶら下がる人形やぬいぐるみ……。
それら全ての目が、鈍い青い光を放ち直持を見つめて怪しく笑っていた。