六日目(中篇)
ご主人様はゆっくりと近づき、横から優しく私の肩に手を這わせ、抱き寄せます。突然の出来事に私は一瞬身体を仰け反らせますが、覚悟を決めると同時に目を瞑り、服の裾を強く握り締め、ご主人様の行為に身を委ねました。寄せられた肩がご主人様の胸に触れ、その体温が伝わってきます。ご主人様の唇がゆっくりと私の耳に近づき、時より発せられる吐息に全身を震わせ、閉ざした瞼に力を込め、自らの意思とは関係無く出そうになる声を押し殺してその行為が終わるのを待ちます。やがてご主人様の柔らかい唇が開かれ、心地よい声が私の耳へと伝わってきます。
「アリスに連絡して、私の自慢の屋敷や迷宮を案内したいと伝えてくれ。また魔族では手に入らない珍しいお菓子等も用意してあり、客人をもてなす準備もあると。そして他の魔族では到底思いつかない珍しい試みもあり意見交換もしたい為、すぐに来て貰えるよう言ってくれる?」
「アリスですか?多分、大丈夫だと思います。ご主人様から正式に招待されるとなれば主の面目もある為、断ることはしないはずです。すでにこちらが用意してるとなれば尚更です。管理者同士であればすぐに呼びつける事は失礼に当たりますが、使い魔なら問題ないでしょう。」
咄嗟に考えて口にしましたが、間違ってはいないはずです。
「ではすぐに伝えてくれ。」
私がご命令の通りに伝えたところ、すぐに来てくれるそうです。主の面目の為かご主人様の迷宮に興味があったのかはわかりません。一つ言える事はお菓子に釣られた訳ではないでしょう。おそらく、珍しい人間の管理者の作る迷宮に興味があったはずです。彼女は優秀な使い魔なので、この迷宮を分析し利用価値があるとわかればすぐに自らの迷宮に取り入れるでしょう。
ご主人様は人間の身でありながら、管理者となられて二日目にして私を買い取った事実は多くの魔族に知れ渡っています。実際はベルゴ様からの借金ですが。
普通は管理者同士で交流を持つことはめったにありません。皆、お互いの手の内を明かしたくないからです。そのはずなのに、自ら迷宮の披露や意見交換を言い出された為、興味をもったはずです。
もてなしの準備が整っていることを確認した私は、ご主人様の元へ向かいました。
「連絡したところ、すぐに来るそうです。アリスを呼んでどうされるおつもりでしょうか?」
「アリスをあの冒険者と戦わせよう。彼女なら勝てるかな?」
「彼女なら間違いなく勝てるでしょう。ですがそんな都合良く戦ってくれるとは思いません。他の管理者を助ける義務はありませんし、逃げるのではないでしょうか?」
「彼女には悪いが、身重なのだろう?敵が狙って来た場合、実力的に自らが勝っているのであれば敵を倒してくれるはずだ。狙われたまま逃げ回るより、本能的に確実に自らの身を守りたいはずだ。」
「ですが、敵がアリスを狙うとは限らないのではないでしょうか?」
「大丈夫だ、多分。それと、一応リリも彼女を援護してくれ。罠に嵌めたと思わせたくない。」
そして私の手を取り頭を下げる、ご主人様。
「すまない。同期の友人を利用するような真似をして。」
「そんな、どうか頭を上げてください。ご主人様はなんとしても生き残らなければいけません。私共、使い魔の命を守る為にこの作戦を考えて下さった事も理解しています。」
まだ未熟な我々は、自分達ではどうすることも出来ない場合は、他人を利用するしか方法はありません。実際の所、あの冒険者は今まで出会ったことが無いような異質な存在です。
初めて迷宮に進入してきたあの双子のように熟練の冒険者でもなければ、私が捕らえた未熟な冒険者とも違い、まったく想像出来ない実力の持ち主です。
モニターに映る男に目をやると、相変わらず滅茶苦茶な足運びで、ただ武器を振るっているといった動きにも関わらず、魔物を駆逐し迷宮を的確に進んでいました。
複数の魔物から放たれた電撃すら難なくかわして切りかかっています。
「我々はアリスを迎える為、エントランスに移動しよう。ミント、ラミア、ここは任せた。」
「なんで私が。いきなり任されたって・・・。」
「旦那様、お任せください。」
エントランスに移動すると、扉の前の空間に光が現れ徐々に楕円形に広がっていき、やがてアリスが現れます。
「この度はお招き下さいまして、光栄の至りです。私は魔王ルシエル・フォン・リード様の第一妃のアリスと申します。」
それぞれの手でドレスの裾をつまみ軽く挨拶するアリス。その堂々とした姿は私とは格が違う感じがします。って第一?あれ?ルシエルってたしか有名な貴族で昔から数多くの側室を抱えていたはずなのですが、僅か百年足らずで上り詰めたのでしょうか?まさか自分より上の妃は消したのでしょうか?
「急に呼び出して申し訳ありません。私は人間の管理者の・・・ミストです。まずは迷宮を案内させて頂きましょう。小物の冒険者が紛れ込んでいるようですが、まったく問題はありません、ご安心を。」
低姿勢のご主人様、しかも名乗る時一瞬迷いました。ベルゴ様に名乗った名前を忘れていて、すぐに思い出したといったところでしょうか。
ご主人様とアリス、どちらも満面の笑みを浮かべていますが、狡猾なもの同士の罠の掛け合いがはじまるのでしょう。知能と狡猾さに長けた人間のご主人様、すべてを兼ね備えて尚且つ狡猾な使い魔のアリス。残念ながらとてもお似合いに見えてきました。
まずは二階層分を使った屋敷を説明し庭で温泉の説明をするご主人様、その後温泉の近くにいつの間にか立てられていた小屋へと案内されました。
奇妙な形のガラス容器の中で、所々黄色が混じった白い砂の塊が燃やされています。その煙はガラス容器を伝わり斜め下の水の中へと通されて泡を立てていました。そのすべては密閉されているようで、更に泡を立てているガラスには上からの水によって冷やされているようです。
ご主人様は錬金術でも始められたのでしょうか?
流石にアリスも首を傾げて奇妙な光景を見つめています。人気が高いだけあってその姿は可愛らしいですが、これは幾ら考えてもわからないでしょう。もちろん私もご主人様が何をされているのかまったく理解できません。ですがここはあえて堂々としておきましょう、無いけど胸を張って。
「ミスト様は酸を作っておられるのですね。錬金術は初めて見ましたわ。先ほどの温泉はその為のものだったのですね。」
え?アリスは何故わかるのでしょう?温泉が関係あるのですか?
「この酸によって様々な物が作れますので、とりあえずは持ち運ぶことの出来る睡眠ガスを作ろうと思っております。」
また意味不明な事を仰るご主人様です。酸とは相手を溶かすものですのに。だいたいガスをどうやって持ち運ぶのでしょうか?
「服を綺麗にする薬以外にも使い道があったのですね。睡眠ガスは興味深いですわ。」
アリスまでおかしくなったのでしょうか?せっかくのドレスが溶けてしまいますよ。
隣の小屋では先ほど燃やされていた砂が何かと混ぜられて黒い粒にされていました。ここではゴブリンが作業をさせられていて、この小屋自体も奇妙で壁はとても分厚いのに天井はありません。部屋に入るや否やすぐにゴブリンに作業を中止させ控えさせるご主人様。
「これなら簡単にわかりますわ。燃える砂を作っているのでしょう。でもわざわざ濡らして粒上にするのはどうしてでしょうか?」
「乾かせば問題ありません。粒上にしたほうが良く燃えて都合が良いのです。突き固めて爆発させたいのです。」
簡単どころかまったくわかりません。私はもう帰っていいでしょうか。そしてここまで使い魔としての性能に違いがあったのでしょうか。
幾つかの錬金小屋を廻り説明をしたご主人様はようやく迷宮の説明に移られます。助かりました、アリスが冒険者を倒す前に、私がアリスにやられそうでした精神的に。
視覚効果に訴えかける迷宮を各小部屋の入り口方向まで歩いた後、振り向き説明するご主人様。
アリスも逆から見たらまったく違う部屋に見えるこの迷宮に真剣な表情をしています。
「こちらが冒険者の実際よく通る経路となっています。」
ご主人様はアリスに冒険者が辿る経路を書き加えた地図を何枚か渡します。しかもその地図は冒険者一人一人別にしてあり、性別、年齢、レベルまで書かれていました。相変わらず几帳面なご主人様です。
「これを見る限りすべての冒険者が同じ経路を通っているようですわね。すばらしい仕掛けですわ。」
一瞥すると地図をご主人様に返すアリス。気のせいでしょうか?その瞳に光が宿っているような気がします。
私達が次の小部屋へ入ると同時に、あの男も小部屋に侵入してきました。
「む、まさかここまでたどり着くとは・・・。私自ら相手をしてやろう。」
しらじらしく仰り手にした杖を構えるご主人様。やめてください、この前リザードマンなんかに負けたじゃないですか!
「あら。これは見ものですわね。異なる世界から力を与えられて召還された人間同士の戦い。」
「え?わかるのですか?」
アリスの全てを悟っているかのような口ぶりに驚くご主人様と私。訂正しておきたいのは、残念ながらご主人様は何の力もありません。
「ええ。ミスト様の能力はまだわかりませんが、少なくともこの世界の人間とは持っておられる知識が違い過ぎますわ。あの冒険者はまるっきり見た目が初心者で、経験に乏しいのにここまで楽に来れる実力と奇妙な武器。経験をつまれると勇者たりえる存在ですわ。私も幾度と無く葬ってきましたから。」
喋り終えると同時に、ご主人様と冒険者の双方との距離を取り両者の戦いが見やすい場所に位置取り、結界魔法で身を包むアリス。
ご主人様の作戦は失敗に終わったのでしょうか。それぞれが小部屋の出口と入り口に立つご主人様と冒険者、小部屋の中で一人高みの見物を行うアリス。
私はご主人様を守るべくその傍らに寄り添いました。