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猫日和  作者: 高遠響
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春待月

     春待月


 石田が浜本家を訪れたのは年が明けて三日が経っていた。紗枝も石田も明日から仕事が始まる。冬休み最後の一日に二人で家の近くの神社に初詣に行くことになった。

 初詣に行くと聞いた途端、紗枝の母親の鼻息が荒くなる。

「あんた、わかってるでしょうね!」

「なにが?」

「見合いしたのが夏でしょうが。もう何ヶ月経ったと思ってるの。五ヶ月よ、五ヶ月!」

「そんなになる?」

 紗枝はわざととぼけた。母親がもどかしそうに身をよじった。

「そろそろはっきりしなさいよ。見合いで五ヶ月も付き合ったんだからね、もういいでしょう」

「もういいでしょうって言われても……」

 紗枝は口ごもる。「もう五ヶ月」と言うが、紗枝にとっては「まだ五ヶ月」だ。普通に付き合っていたら五ヶ月くらい長いうちには入らないのではないのか? 見合いだと五ヶ月という時間は長すぎるのだろうか。

「いい感じじゃないの、あんた達」

「……」

 確かに石田との仲は順調だと紗枝も思っている。最初の頃に感じていたような戸惑いはなくなり、石田と過ごす時間が落ち着いて穏やかなものになってきた。そして石田と会えない時間の寂しさも感じるようになってきている。ようやく付き合っているという実感が沸いてきた。それは確かなのだが、そう鼻息荒く迫られるとこちらは鼻白むというものだ。

「いつまでそんなノンキな事言ってんの。あんた、春になったら大台よ、大台」

 紗枝の背中をばしっと叩き、母親はふがいない娘に喝を入れた。

「あ~、もうじれったいねぇ! 結婚なんてのは勢いなのよ、勢い。深く考えたら駄目なの! アタシなんかお父さんをふん縛って、ずるずる引きずって結婚したようなモンなんだからね! 考えるだけ無駄よ、無駄! 突撃あるのみ!!」

 なんともひどい母親である。紗枝はくらくらしてきた。

「私はお父さん似なの! お母さんみたいに魚雷みたいな性格じゃないんだから無茶言わないでよ」

「じゃあ、しのごの言わずに石田さんにとっととふん縛られて嫁に行けぇ! 選択の余地なし!」

 紗枝は深い溜息をついた。むちゃくちゃな事をとことん無責任に口にする母親だ。あの世の父親が聞いていたらこんな女と結婚したことを後悔するに違いない。

 そんな親子漫才のようなやりとりをしている最中に当の本人が到着した。インターホンに紗枝を差し置いて母親が玄関に飛び出そうとするので紗枝は慌てて引き止めた。

「お母さん! 頼むから、石田さんに余計な事言わないで」

「余計な事ってなによ、余計な事って」

「お・ね・が・い・だ・か・ら」

 紗枝にしては珍しく断固たる口調である。母親はまだ何かいい足りなさそうにしていたが、しぶしぶ頷いた。

 紗枝が玄関の扉を開けると石田は珍しくスーツ姿で立っていた。ばつの悪そうな笑みを浮かべている。

「明けましておめでとうございます」

 紗枝が丁寧に頭を下げるとあたふたと頭を下げた。

「おめでとうございます。旧年中は色々と、ご心配をおかけして、迷惑かけてしまいまして、すみませんでした」

 年賀の挨拶なのだか謝罪なのだかよくわからない挨拶だ。紗枝が小さく笑うとほっとしたような笑みに変わった。

「石田さん、いらっしゃい。おめでとうございます」

 母が乱入してきて、石田はもう一度年賀の挨拶と謝罪を繰り返す羽目になった。

 二人は母親に追い立てられるようにして表に出た。目的の神社へはのんびり歩いて二十分ほどである。

 大きなバス通りをしばらく行き、そこから閑静な住宅街へと入って行く。紗枝の家からは少し離れただけで、一ランク上であろうと思われるような大きな一戸建て住宅が並ぶ界隈に出る。ここは昭和の匂いのするモダンな洋館や古い木造建築が残っていて、なんとも懐かしい情緒があった。緑も多く、家の軒先から赤い実をたわわにつけた万両が顔を覗かせていたり、山茶花の垣根があったりで散策するには丁度いい。

「こんな界隈があるんだ……。いい雰囲気だなぁ」

 石田は周りのレトロな家々にしきりに感心している。

「車だと気がつかないでしょ。歩いていると色々見られて楽しいんです。ほら、あそこの家の二階とか」

 紗枝が指差す。昔の旅館を思わせるような造りの建物の二階の物干し場の軒に何本も干し柿が吊るされていた。茶色くなって小さくなっているが、まだ鮮やかな柿のオレンジ色も僅かに残っている。

「つるし柿なんて久しぶりに見た」

 石田は目を丸くした。

「面白いですよ、洋裁女学校とか質屋とかの看板があったりして」

「洋裁女学校……そんな学校、戦前の学校じゃないんですか」

「多分」

「すごいな~」

 静かな住宅街に二人の話し声と足音が響く。柔らかな日差しが心地よかった。

「体調はもう、大丈夫なんですか」

「いや、もう、本当に参りました。せっかくのクリスマスだったのに……。面目丸つぶれ」

 石田はとほほ……と頭を叩いた。

「紗枝さんからもらった写メが唯一のクリスマスでした」

 紗枝は無意識のうちに肩から提げたバッグの紐を握りなおした。バッグの中には渡しそびれているクリスマスプレゼントが入っている。

 小さい交差点を曲がると長い石垣とその向こう側に大きな木々が並んでいる通りに出る。神社の外周だった。

 二人はぐるっと石垣に沿って歩き、神社の参道の入口に辿り着いた。背の高い木々の林の中をまっすぐ貫く石畳の参道。林は常緑樹が多く、参道は表の通りよりは少し薄暗くなっている。暗すぎるとか不気味とかではなく、神聖な静けさを感じさせた。

 参拝客はぱらぱらと言ったところだ。それほど大きい神社ではないので初詣客狙いの露店もなく、落ち着いた清清しい空気で満ちていた。

 二人はゆっくりと石畳の上を歩いた。木々の静かな息遣いが聞こえてくるようだ。自然と会話が途切れ、黙って歩みを進める。

 境内に入ると、そこはかすかな音量の雅楽の音色と香の匂いが流れていた。

 玉砂利に足を取られてよろめくと、石田の手が伸びてきてさりげなく腕を支えてくれた。その石田の手の感触に紗枝は閃きにも似た予感を感じた。この手を離してはいけない。その確信に近い強い思いは雲間から差す一筋の光のようだった。ほんの一瞬の時間が随分と長い時間のように思われた。

 紗枝はもう片方の手で自分を支える石田の手に触れた。自分でも不思議なくらいに当たり前の、自然な動きだった。

 びっくりしたように石田が立ち止まり、まじまじと紗枝の顔を見る。怪訝な表情はすぐに柔らかい笑顔に変わった。

 紗枝は石田の腕にそっとつかまる。多分、これでいいのだろうと思う。恐らくこの選択は間違ってはいない。

 境内に一際冴えた音で鈴の音が鳴り響いた。



 正月が明けて初めての週末に花音が遊びに来た。いつもの通りのほんわりした笑顔で深々と頭を下げる。

「明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願い致します」

 年賀状の文言のようなきっちりした挨拶に紗枝も笑いながら同じように頭を下げた。

 いつものように庭に回ると、花音は早速庭の隅で咲き始めている白い水仙の前にしゃがみ込む。

「いい匂い……。寒いのにちゃんと咲くんだね。エライエライ」

 紗枝は中から縁側の戸を開けて花音に声をかける。

「花音ちゃん、寒いから中に入ったら?」

「ううん、寒くないよ。大丈夫」

 花音がしゃがんだまま背中越しに答える。花を見始めると時間を忘れるらしい。身体が冷えて風邪でも引いたら大変だ。熱いお茶でも入れてあげようと、紗枝は台所に向かった。

 温かい紅茶を二人分用意し縁側に置く。花音に声をかけると今度は振り返ってパタパタと小走りにやって来た。

「やっぱり地面に植わってる花は元気でいいですね~」

 花音はしみじみと感想を述べた。その口調が妙に大人っぽいというか、園芸好きのおばさんのようだったので思わず紗枝は吹き出した。

「花音のトコはベランダも狭いし、日当たりがあまり良くないから鉢植えでミニバラとかプチトマトとか育ててはみるけど、いつもあんまり元気ないんです」

「そっかぁ」

 花音は居間の隅の小さな引き出しの上に置かれたシクラメンの鉢に目をやった。

「石田さんのシクラメン、元気ですねぇ」

 紗枝もそちらに目をやった。ピンクのシクラメンは元気に咲き誇っている。それほどマメに世話をしている訳でもないのに、健気なものだ。

「紗枝さん、クリスマス、どうだったんですか?」

 花音が珍しく、うふふと意味ありげな含み笑いを浮かべる。

「そぉれがさ~」

 紗枝は笑いながら答えた。

「石田さん、インフルエンザになっちゃって、それどころじゃなかったの。大晦日くらいまでずーっと寝込んでたんだって」

「わぁ、タイミング悪っ!」

 花音が何故か嬉しそうに膝を叩いて笑い出した。こうやって学校では友達と騒ぐこともあるのだろう。ふとそんな事を思わせるような仕草だった。花音もおしゃまなところがあるのだなと、紗枝は少し安心する。あまりにも素朴すぎて周りについて行けないのではないだろうかと時々心配になるのだ。そういえば自分もそんなところがあった。

「じゃあ、結婚するって話はまだ進まなかったんだ」

 ちょっとどきっとした。

「クリスマスにもしかしたら結婚しますって話になっちゃったかなって思ってた……」

 花音の言葉に紗枝はう~んと唸った。複雑な気分である。初詣の時も結局具体的にその話にはならなかったのだ。珍しくスーツ姿だったので、もしかしたらそういう話を進めたいと思っていたのかもしれない。が、初詣の後、家に帰ったのが悪かった。紗枝の母親がずっと同席して、ああだこうだと賑やかにするものだから肝心の話は進展なしだった。花音の言うとおり、タイミングが悪いという事なのか。それとも神様が先に進むなと後ろから引っ張っているのか。神社で覚悟を決めたはずなのに、紗枝は自分が揺らぎそうで不安なのだった。

「で、紗枝さん、いつ結婚するんですか?」

「何よぉ。花音ちゃんまで急かす訳?」

 紗枝はおどけて怒った顔をしてみせる。

「いえ、そうじゃないんです」

 花音は慌てて首を振った。

「あのね、あの……」

 一瞬口ごもる。

「引っ越すかもしれないって言ってたでしょ」

「うん」

 紗枝はきゅっと心が引き締まるような気がした。花音の母親の再婚話が持ち上がっているというのを知ったのは確か先月だった。

「ママね、やっぱり再婚したいって。香川さんについて行きたいって」

「……そう」

「色々考えたし、腹も立ったし、なんか自分でもよくわからなかったし。あれから、ママとも香川さんとも色々話し合った……」

 花音は紅茶を一口飲む。随分落ち着いた様子だった。この間の混乱ぶりが嘘のようだ。

「……ママは花音のママだけど、『花音のママ』って言う人間じゃないんだよね。『松田沙織』っていう人なんだよ。花音が知っているママだけがママの全部じゃない。……って、わかります?」

 紗枝は曖昧に頷いた。

「……なんとなく」

 深い言葉だ。どんな気持ちで今花音は喋っているのだろうか、それを慮ると胸が痛い。と同時に、小学生でこんな複雑な自分の感情に、母親という存在に、正面から向き合おうとしている花音に正直驚いていた。自分だったらどんな風に考えただろう。

 父親が不慮の事故でなくなってから、母親はずっと独り身だ。再婚を考えたことなどあったのだろうか。どんな気持ちで今まで過ごしてきたのだろう。そんな事、考えた事もなかった。

「再婚するからってママじゃなくなる訳じゃないし。香川さんはいい人だし。」

 花音は自分の言葉を噛み締めるように頷きながら言葉を紡ぐ。

「花音のママなんだから、花音の事をちゃんと見てて欲しいって思ってた。でも、なんだろう、花音もいつか大人になって、ママから離れるんだよね。でもそれって、別に花音がママを捨てるとか、そんなんじゃないんだろうなって」

「……」

「でね、ママと香川さんが結婚するの、『いいよ』って」

「……言ったんだ」

「うん。夕べ」

 花音はにっと笑った。ふっきれたような明るい笑顔だった。紗枝の方がたまらない気持ちになる。

「ああもう、花音ちゃん~」

 泣きそうになり、紗枝は花音に抱きついた。

「そうかぁ……。大人だよ、花音ちゃん。大人よりも大人だよぉ」

「紗枝さんが泣いてどうするの」

 花音が笑い出し、紗枝の背中をぽんぽんと叩く。まるで子供をあやす母親のようだった。まったく立場があべこべだ。

 紗枝は花音から離れると居間のテーブルの上にあったティッシュを取り、涙を拭いて鼻をかんだ。

「ああもう、恥ずかしい。花音ちゃんの方が私よりもよっぽどしっかりしてるわ。ちょっと気合入れなきゃ駄目だよね、私」

 花音がクスクスと笑っている。大人が思っているよりも、子供は逞しいのかもしれない。

 花音は庭に目をやった。

「紗枝さんと石田さんを見てて、これがママと香川さんだとどんな感じなんだろうって想像したりした」

「……」

「花音はまだ子供だからあんまりピンとこないけど、隣にいる人って大事なんだろうなって」

「……」

 完敗だ。なんと言葉を返したらいいのだろう。

 冬の日差しを浴びて輝く花音の横顔は美しかった。この子はきっと素敵な大人になるだろう。穏やかで大きな大輪の花をきっと咲かせるに違いない。遅咲きかもしれないけれど、必ず。

 紗枝はまた涙が出そうになった。

「あ、お猫様!」

 花音がピョンと飛び上がる。

 塀の上にいつの間にかいつもの猫が座っていた。花音と目が合うと、のたのたと立ち上がり、どたりと庭に下りてくる。

「お猫様、明けましておめでとうございます」

 花音は持ってきたポシェットから小さなポリ袋を出すと、その口を開けた。

「お猫様にお年玉です。はい、どうぞ」

 茶色いふわふわの鰹節をつまんで猫の鼻先に出すと、猫は面倒くさそうに鼻を近づけフガフガと匂いを嗅いだ。そしておもむろにぱくっと指先の鰹節を食べた。

 花音は嬉しそうにポリ袋の中身をコンクリートの上に出した。

「たくさん食べてね。あ、風が吹く! 飛んじゃう~」

 慌てて地面にしゃがみ込み、自分の身体を風除けにした。その様子があまりにも無邪気なので、紗枝はまた泣きそうになる。

 猫はあっという間に鰹節を平らげ、そのままコンクリート上にどたんと寝転がった。

 紗枝は猫の耳の付け根や顎を指先でこちょこちょといじった。猫は気持ち良さそうに目を細め、顎を上げるとゴロゴロと喉を鳴らしている。

「お猫様の飼い主さんって、どんな人なんですか? 優しい人ですか? 一回会ってみたかったなぁ」

 花音は猫を愛おしそうに撫でる。猫もすっかりくつろいで情けないくらいに無防備だ。

「三学期が終わったら花音引っ越すの。寂しくなりますよ」

「そうなの? やっぱり引っ越すの?」

 花音は振り向いて頷いた。

「中学に入って全く知ってる人がいないってのは、やっぱりキツイよね。それだったら一年だけでも友達作っておく方がいいよってママが言うから。……まあ、その通りかなって思うし」

 花音の母親の意見が通ったという訳だ。紗枝は花音の母親の表情を思い出す。彼女もまた苦悩しているようだったが、最終的には全てを手にし、それと引き換えのように花音が振り回されているのではないかと思うと、手離しで祝福する気にはなれそうになかった。よく花音が納得したのだと改めて思った。

「今度のおうちね、庭があるんだって。一戸建てだから動物飼ってもいいって。香川さん、ママと違って結構動物好きみたい。で、近くに緑地公園みたいなところもあって、ビオトープとかもあるって」

「そうなんだ……」

 紗枝は小さな溜息をつく。こうして花音が遊びにくるのも三月くらいまでという事だ。寂しくなるなぁ……と言いかけて、その言葉を飲み込んだ。そんな言葉を自分が花音に向かってかけてはいけない。それは花音に対してとても失礼な事のような気がした。

 日差しは少し傾いて、コンクリートの上の影がさっきより長くなったようだった。


続く

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