銀紙星
銀紙星
師走の忙しさは毎年の事ながら尋常ではない。紗枝の勤めるスーパーでも年末商戦の真っ只中で、毎日残業の日々である。明日はクリスマスイブだというのにまた残業だった。
「浜本さん、今年のクリスマスイブはデートでしょ~?」
隣のデスクで伝票整理をしていた後輩の木下が急に椅子を転がしながら紗枝の横に滑り込んできた。
「な、なに、急に」
目を白黒させる紗枝に木下はにやにやと笑いながら突っ込んでくる。
「最近なんか綺麗になったって、結構評判になってますよぉ」
「はああ?」
三十歳になったばかりの彼女は余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)といった風情で遊びまくっているらしい。小悪魔を気取ったメイクと私服は実際の歳よりも遥かに若く見えたし、性格的にも華やかで、おばさんが多い職場の中ではずば抜けて目立っている。当然男性社員からのアプローチも多いようで、社内にも関わらず複数の男性と浮名を流しているという噂が囁かれていた。社内恋愛はあまり派手にするとそのうちクビになるかもしれないというのに、その辺は相当上手くやっているようだ。仕事の方はというとまったく熱心ではないが、要領がいいので押えるべきツボはしっかりと押さえていて、そつなくこなしていた。全てにおいて上手く立ち回れる、紗枝とはまったく種類の違う、言ってみれば正反対の女性だ。
こういうタイプと一緒にいると引き立て役にされるのがオチだというのは今までに何度も経験しているので、個人的な付き合いは皆無だったし、あえて付き合いたいとも思わなかった。彼女にしても自分の事を莫迦にこそすれ、気にかけるような対象ではないはずなのだが。
紗枝の戸惑いをよそに木下は怒涛の勢いで話しかけてくる。
「確かに、最近の浜本さん、なんか変わりましたよねぇ」
「そんな事ないと思うけど」
「いいえ!」
彼女はびしっと人差し指を紗枝に突きつけた。
「私の観察眼と勘を舐めちゃいけません。ねぇ、ねぇ」
彼女は嬉しそうに顔を近付け、声を潜めた。
「どんな人ですか? 浜本さんの彼氏!」
「……」
「だいたい男で変わるんですよ、女は」
彼女は訳知り顔でうんうんと頷いた。
「浜本さんを変える男ってどんな男かって、そりゃもう、気にならないはずがないじゃないですかぁ」
どういう意味だ? 紗枝のこめかみがぴくっとする。彼女の言葉の端っこには心を引っ掻くような小さな棘がある。悪ふざけなのか、嫌味なのか、どちらにしても性質が悪い。
「ねぇねぇ、婚活してたんですか? あんまりそんな風にも見えなかったけど」
「……」
甘ったるい声で身をくねらせる。
「いいなぁ。私も真面目に婚活しようかなぁ。ちゃんと結婚を前提に付き合うって真面目なお付き合いって大切ですよねぇ」
「……あのねぇ」
「やっぱ、アレですか? 結婚相談所とかそういうので紹介してもらうんですか? その方が確実ですよねぇ」
ぶちっと頭の中で何かが切れる。
紗枝は声を荒げた。
「そんな、もう、どうでもいいじゃない!」
木下が驚いたように目を丸くした。まさか紗枝が怒るとは思わなかったのだろう。
紗枝はふうっと息を吐いた。落ち着け落ち着け、そんなに怒らなくてもいいんだから。自分に繰り返し言い聞かせる。
「つまんない事ばっかり言ってたら、いつになっても片付かないよ」
なんとか冷静を装ってそれだけ言うと、まだにやにやしながら食らい付きにきそうな木下の椅子を両手で押して元の場所へと追いやった。そして自分の席に戻り、もう一度大きな息を吐き出した。
「出し惜しみしちゃって、も~。浜本さんも隅に置けないんだからぁ」
木下は名残惜しそうにぶつぶつ言いながらパソコンに向かい直した。
後輩のくせに完全に紗枝のことをおちょくっている。だいたい陰で紗枝の事を「ダサい」だの「古い」だの「お局さま」だの言いたい放題に決まっているのだ。石田と一緒にいるところを誰かに見られたのかもしれないが、それをまたことさら騒ぎ立てるというのは莫迦にしている証拠だ。いい歳をした女が男連れだからって何が可笑しいのか。私だって彼氏の一人くらいいたっていいじゃないの……。
傍から見たら些細な事かも知れないが、自分でも不思議なくらいに癪に障る。こんなに腹が立ったのは久しぶりだった。
ようやく仕事を終え、職場を離れても胸の中のささくれは治っていなかった。
駐輪場から自転車を出す。外は凍てつくような寒さだった。空には砕いた氷の欠片のような星が貼り付いている。
紗枝は思い切り自転車のペダルを踏み込んだ。顔に当たる空気は半端でない冷たさで、見る間に耳が痛くなってくる。手袋越しに指先が凍りついてくるのがわかる。それにもかまわずひたすら自転車を走らせる。
莫迦にして。
莫迦にして。
莫迦にして。
莫迦にして。
莫迦にして。
息が苦しくなってきたが、紗枝はスピードを緩めなかった。このまま気絶するくらい走らせたら、この苛立ちも消えてなくなるだろうか。
家まではまだしばらくかかりそうだった。
朝になり紗枝は洗面所の鏡の前に立ち、まじまじと自分の顔を眺めていた。
昨日は自転車をぶっとばして帰ったせいですっかり疲れてしまい、早々に布団に入った。しかし、暗い天井を見つめていると木下との会話がエンドレスで再生され、イライラして寝つきが悪かった。どこまでも腹立たしい後輩である。お陰で今朝の顔はどうもすっきりしないような気がする。
こめかみや頬骨の辺りをキュウキュウと押してみる。どうもむくんでいるように思えて仕方ない。肌は乾燥気味だし、なんとも冴えない。
今夜は石田と会う。クリスマスだからと言って特別なデートをするつもりはないが、それでもクリスマスイブである。一応付き合っているのだから、会って食事の一つもするのが筋というものだ。
紗枝は顔を洗いながらいつもよりも丁寧に顔のマッサージをしてみた。夜にはむくみも取れるだろう。
下地を塗って、薄くファンデーションを重ねる。わざとらしく見えないだろうか。クリスマスだからって念入りに化粧をしているなどと木下に面白可笑しく陰口を叩かれるのは癪だった。しかし、せっかくのクリスマスイブなのだ。いつもよりは綺麗に見えるようにしておいた方がいいかもしれない。心の中で妙な言い訳がミルフィーユのように重なって積もっていく。
家を出ると空はよく晴れていた。世の中のカップルはきっとホワイトクリスマスを夢見ているだろうが、これでは雪は降りそうにない。もっとも自転車通勤の紗枝には雪は大迷惑なのでこれでいいのである。紗枝は自転車の前かごにバックを入れると走り出した。
鞄の中には石田に渡すプレゼントが入っている。職場の紳士服売り場で済ますのはあまりにもひどいような気がして、インターネットでかなり時間をかけて頭を悩ませながら選んだのだ。銀細工のキーホルダーだった。イタリア製でレトロな細工が施された小さな飾りが五つほど輪にぶら下がっていた。何が一番の決め手かと言うと、その飾りが全て海の生き物だというところだった。魚やヒトデ、イルカ、貝にタコ。子供っぽくなくてお洒落な細工だった。石田の趣味は釣りだと言っていたから、きっと海の生き物は好きだろう。気に入ってくれたらいいけれど……。
キーホルダーなんて芸が無いとは思ったが、本当に思いつかなかったのだ。ネクタイとかタイピンなどは定番かと思うのだが、仕事が病院勤めという事もあり、日中のほとんどは白衣で過ごしているらしい。そのせいでスーツなどと言うものはほとんど袖を通すことがないという事だった。そう言われれば、紗枝もまだ石田のスーツ姿を一度も見た事がなかった。それにどうみても体育会系の石田ははっきり言って伊達男という感じではなく、普段身につけている物もブランド物は皆無で、実用重視といった物が多かった。
思えば男の人のためにこれほど頭を悩ませたことなど今までなかったような気がする。だいたい、クリスマスに彼氏がいたことがなかった……。
そんな事を考えれば、いくら奥手で引っ込み思案な紗枝でも多少は気合が入るというものだ。
職場について席についた途端に携帯がメール着信を知らせた。慌てて鞄から携帯を出す。石田からのメールだった。
『おはようございます。インフルエンザにかかってしまいました。せっかくのクリスマスなのに今日は会えません。申し訳ない』
紗枝は十秒ほど固まってしまった。
「インフルエンザ……」
ふううぅぅぅぅ。
長い溜息をつきながら紗枝は自分の席に腰を下ろした。携帯を手にしたまま、机の上にゴンッと頭を置く。朝からの気合がしゅるしゅると音を立てて抜けていくようだ。
「インフルエンザ……」
せっかくのクリスマスだというのに、神様は意地悪だ。
『大丈夫ですか? 熱は高いのですか? お医者さんには行きましたか? 気にしないでゆっくり休んで下さい。』
メールを返したのは昼休みだった。あの煩わしい木下は煙草を吸いに席を外している。他の同僚達も外に食事に行ったり喫煙に行ったりでオフィスの中は閑散としていた。石田に連絡を取るのは今のうちだ。
石田からの返信はすぐに来た。仕事も休んでいるだろうし、布団の中なのだろう。
『大丈夫と言いたいところですが、しんどいです。かなり。八度七分。受診してタミフルもらったからすぐに下がるとは思うけど。一応予防接種もしたんですけどね。ついてないです。これじゃクリスマスじゃなくて、クルシミマス』
思わず吹き出した。身体がつらいという割には長いメールだった。おまけにダジャレ付きである。布団にくるまってウンウン言いながらメールを打っているのだろう。まったく律儀な男だ。
『ダジャレを言う元気があるなら大丈夫かな。返信はいいから、しっかり休んでくださいね。また連絡します』
紗枝は送信ボタンを押すとパタンと携帯を閉じた。気の毒に……と思いながら、何故か頬が緩んでしまう。
最初のメールをもらった時の落ち込みはもうどこかに行ってしまっていた。
夕方になり木下が真っ先にオフィスを飛び出して行った。彼女も誰かとデートなのだろう。帰る直前に「彼氏によろしく~」と、紗枝の耳元で囁くのは忘れなかった。本当に煩わしい女だと思いながらも、昨日ほどは腹が立たなかった。
デートは流れてしまったが、残業はほどほどにして今夜は早く帰ろう。そうだ、帰りにケーキを買って帰ろう。母と二人でささやかにクリスマスイブを過ごそう。そんな事を考えながら、自分でも不思議なくらい平穏な気分で仕事を片付けていく。
七時時前にオフィスを出た。自転車置き場に向かいながら空を見上げると朝はあれほど晴れていたのにどんよりと曇っている。
「雪、降るかなぁ……」
暗闇の中でうっすらと浮かび上がる雲の輪郭は雪雲ではなさそうだ。
「雪が降らないなら星が見える方がいいのに」
紗枝はひとりごちた。そうだ、そもそもクリスマスは星の方がいいに違いない。だってキリスト様が生まれたのを知らせる星が輝いていたはずなのだから。
今日は自転車をゆっくりと走らせた。曇っているせいか昨日ほどは寒くない。
帰り道の途中に小さなケーキ屋があった。猫をモチーフにした看板が下がっていて、猫のケーキ屋さんとして人気がある。落ち着いた木の扉の前には大きなクリスマスツリーが飾ってあった。ちかちかと静かに電飾が瞬き、テッペンには銀紙を貼り付けたような星が鎮座している。子供の頃暗い部屋の中で見たクリスマスツリーをふと思い出す。暗闇の中で見たクリスマスツリーは、温かで美しかった。まるで童話の中のワンシーンのような気さえしたものだ。あの頃は何も余計な事を考えずに、ただ嬉しかった。
紗枝は自転車から降り、携帯でそのツリーの写真を撮った。フラッシュの光が反射して、ツリーの銀色の作り物の星が煌いて写っている。ああ、クリスマスの星だ……と思った。
窓越しに店内を見ると、まだクリスマスケーキが幾つか残っているようだ。
紗枝は店内に入った。甘い匂いと温かい空気に包み込まれ、思わずふうっと身体が緩む。
ショーケースの中には何種類かのケーキが並んでいた。丸いケーキもあれば、木の形のケーキもある。ショートケーキやムースのケーキなどもあった。
「丸のケーキも少しお時間頂ければまだお作りできますが」
パティシエだろうか、白衣の女の子が声をかける。
「家族の人数が少ないから、小さいのでいいんです」
紗枝は申し訳なさそうに答えた。
「お一人様用のこちらのケーキとか……。ショートケーキにサンタさんの飾りをお付けすることもできますよ」
「ありがとう」
紗枝は身をかがめしばらくケーキの列を眺めていたが、サンタクロースを模った小さな陶器に入ったケーキを二つ買うことにした。
若い女性の店員が白い箱を渡しながらにこやかに言った。
「ありがとうございました。メリークリスマス!」
「……メリークリスマス」
紗枝は自転車のカゴにそっとケーキの箱を乗せた。中のケーキがひっくり返らないように気をつけながら、ゆっくりと自転車を走らせる。
いつもの見慣れた帰り道。玄関先を電飾で飾っている家が数件ある。きっと家族総出で一生懸命飾りつけたに違いない。道行く人々とクリスマスを祝うために。普段はあまり気にも留めないが、今日はゆっくりと眺めていこう。
だって今日はクリスマスイブなんだから。
そして家に帰ったら石田にメールを送ろう。そう、クリスマスツリーとサンタクロースのケーキの写メを添付して。
『メリークリスマス』
続く