冬の嵐
冬の嵐
「寒くなるとめっきり来ませんね、お猫様」
花音は縁側の硝子戸越しに庭を眺めながら溜息をついた。木枯らしが吹くようになると猫はさっぱり寄り付かなくなった。猫好きの花音は毎回猫のために竹輪やら鰹節やら手土産を持ってやってくるのだが、当の猫がちっとも姿を見せなかったのでその手土産はいつもお持ち帰りとなってしまう。
「寒いからね。猫はコタツで丸くなるって言うじゃない」
紗枝は花音に蜜柑を一つ手渡した。
「あの猫、首輪してるからどっかの飼い猫でしょ。今頃自分んチのコタツで丸くなってるって」
「そうかなぁ……」
花音はまだ名残惜しそうに庭を見ている。
紗枝の家の庭もすっかり色を失い、寒々しい風景になっていた。唯一の彩りは庭の隅に植えてある山茶花のピンクの花だけだ。
「もうすぐクリスマスね、早いなぁ」
紗枝は蜜柑の皮を剥き房を分けた。甘酸っぱい匂いが鼻をくすぐる。
「紗枝さん、皮を剥かずに中の袋の数を数える方法知ってます?」
花音がふいに嬉しそうに声を上げながら振り向く。
「知らない。どうやるの?」
「おへそ、蜜柑のオヘソを見るの。ほら、これ」
花音は這いながら紗枝の隣に来ると手にした蜜柑を紗枝に見せる。どれどれ? と覗き込む紗枝に熱心に説明をし始めた。
女二人なんとも平和な風景なのである。
猫が姿を現したのはそのしばらく後だった。そろそろ帰らなくてはと腰を上げた花音がもう一度庭を眺めた時、
「あ、お猫様!」
花音は声を上げて振り向いた。紗枝も思わず腰を上げる。
そっと硝子戸を開けると、コンクリートの指定席に座っていた猫がじろりと横目でこちらを見た。
「久しぶりです、お猫様。……あれ?」
花音が緊張したような声を上げる。
「お猫様、怪我してる」
見ると確かに猫の銀色の毛並みには黒く固まった血がこびりついていた。右の耳の付け根辺りに傷があり、そこからの血のようだ。怪我をしてからしばらく経っているようで、出血自体は止まっているようだったが、黒い傷口の奥には生々しい赤い部分が見えていた。
「わあ……痛そう。あ、ここにも傷が」
花音は猫を驚かさないようにそっと縁側から降りると履物も履かずにそろりと猫に近づきしゃがみこんだ。猫は煩そうにじろりと一瞥したものの逃げる気配はなく、そのまま目をつぶった。そろりそろりと猫の身体の毛を掻き分け傷を探す。
「三箇所かなぁ。喧嘩したんですか、お猫様」
後ろで見ている紗枝は気が気でない。手負いの動物というのは気が荒いらしい。いくら気心が知れていると言っても怒った猫に噛み付かれるのではないかとドキドキする。
「痛くない? 大丈夫?」
花音は黒い血でこってり固まった首筋を優しく撫でた。猫はぶにゅう……といつものふてぶてしい声で返事をした。
花音はしばらくそうしていたが、「あ、早く帰らないと怒られる」と叫び、名残惜しそうにしながらも慌てて帰っていた。
紗枝は花音から託った竹輪を猫の前に置いた。猫はしばらく不審そうに竹輪を臭っていたが、やがてばくりと噛み付いた。
「花音ちゃんはすごいねぇ。アンタみたいな可愛くない猫でも怖くないんだねぇ」
紗枝はそおっと手を伸ばし猫の頭を撫でようとしたが、ぎろりと睨みつけられ思わず手を引っ込めた。
「……やっぱり怖いって、アンタ」
数日後の日曜日の昼過ぎ、石田が浜本家を訪れた。近くのシネマ・コンプレックスに映画を見に行く予定になっているのだ。串カツ屋デートからもう三回ほど逢瀬を重ねていたが、これといって大きな進展はない。それでもいいと石田は思ってくれているようだから、紗枝も少しは気が楽だった。
玄関まで出迎えて紗枝は目が点になった。石田は一抱えもあるような大きなシクラメンの鉢を抱えていた。
「店先であんまり綺麗に咲いていたから」
かなり大きな鉢にはピンクのシクラメンが見事に咲き誇っている。
「この時期はシクラメンかポインセチアばっかりなんですね。知らなかった」
石田はにこにこしながら鉢を紗枝に差し出す。紗枝はあっけに取られながらその鉢を受け取った。鉢は思った以上にずしりと重い。思わず「おおっと」と持ち直した。石田も慌てて手を添える。
普通女性に渡す花というのは花束かアレンジではないだろうか。鉢植えで、それもこんなにずっしりと重量感のある鉢植えの花を貰うというのはあまり聞いた事がない。
「あ、ありがとう」
それでも目の前でゆらゆらと揺れるピンク色の花はとても可愛らしい。恥ずかしそうに下を向いた花は可憐ながらも、力強い生命力を感じさせる。
どんな顔をして石田がこの鉢を買ったのか、ふとそんな想像をしてくすっと笑った。
石田は紗枝に促され中に入ると居間のコタツに座った。
「今日はお母さんはどちらに?」
「朝からボランティアに行くって」
近くの老人ホームで入居者さんとのお話会があるそうだ。もうじき自分もお世話になるかもしれないから今のうちに繋ぎをつけておくのだと冗談とも本気ともつかぬことを言いながら続けているボランティアだった。
「いかにも言いそうだなぁ」
石田は面白そうに笑いながらコタツの中に納まっている。妙に和室とコタツの似合う男だ。
紗枝は縁側の日当たりのいい場所にシクラメンを置いた。日の光に照らされてピンクの花がきらきらと輝いて見えた。
紗枝はお茶を入れながら先日の怪我をした猫の話をした。
「手負いと食べてる最中の動物に手を触れてはいけません」
石田はその話を聞くときっぱりとそう言った。
「昔飼っていた犬に噛まれたことがある。餌を食べてる時に入れ物を取ろうとしたら、バクッて」
石田は自分の右手の甲を左手の指先で掴んだ。
「取られると思ったんだろうな。そんなつもりじゃなかったんだけど」
紗枝は顔をしかめて身震いする。そういう状況は想像するとお尻の辺りがムズムズする。
「猫は皮膚が厚いから傷が中の方で膿むことがあるらしい。本当はほっておいたら駄目らしいけど、よその子は迂闊に触れないね」
「どこかの飼い猫みたいだから……」
そのうち飼い主が手当てをしてくれるだろうが、あのふてぶてしい猫である。飼い主も寄せ付けないかもしれないと紗枝はふと思った。
「でもその猫、花音ちゃんには大丈夫なんだね。よっぽど優しい子なんだろうね。癒し系かぁ」
紗枝は頷いた。
しばらく話していたが、ふと時計に目をやった紗枝は思わず声を上げる。
「あ、もうこんな時間。そろそろ行かなきゃ」
「本当だ」
二人して腰を上げ、玄関に向かう。
石田が先に表に出て、そこで立ち止まった。
玄関の扉の前には花音が立っていた。
「あ、あの……」
見知らぬ大柄な男がいきなり出てきたので花音はびっくりしたのか、言葉もなく立ち尽くしている。
「あ、ごめんなさい。びっくりさせちゃったね。ええっと、もしかして……、花音ちゃん?」
石田が少し身をかがめて花音に聞く。花音は無言で頷く。
「紗枝さん、花音ちゃんのお越しですよ」
石田の言葉が終わらぬうちに花音は慌てて遮る。
「いいんです! お出かけなんですよね、すみませんでした。いいんです。帰ります」
「でも、あんまりいいんですって格好でもなさそうな……」
石田は花音を玄関の内側へと招きいれた。花音は薄いトレーナーだけでコートも着ないで、紫色の唇を震わせている。紗枝は石田を見る。石田は小さく頷いてくれた。
「いいのよ、入って」
花音の肩に手をやると随分と冷え切っているようだった。小刻みに身体が震えているのが伝わってくる。
花音を中にいれ、コタツの電源を再び入れた。花音は俯いたまま震えていたが、やがて堰を切ったように泣きじゃくり始めた。
「ど、どうしたの?」
紗枝は慌てて花音の横に座り、覗き込む。そして背中を恐る恐る撫でてやった。花音はしゃっくり上げながら泣き続ける。紗枝はおろおろしながら背中を撫で続けることしか出来なかった。
「はい、お茶でもどうぞ」
紗枝はお茶を入れて花音と石田の前に置いた。花音はトレーナーの袖で涙でぐちゃぐちゃになった顔を拭くと湯のみに手を添えた。
「……熱い」
そしてそっと啜る。
「……熱い」
もう一度呟くとほうっと息を吐き出した。
「……すみません。お出かけするところだったんですよね」
花音は上目遣いで消え入るような声で目の前の石田を見た。
「ううん。別にどこも行かないですよ。ねえ、紗枝さん」
石田はとぼけた顔で紗枝に振る。紗枝はうんうんと頷いた。
「……あのね、ママと喧嘩したの」
花音は唐突に語りだした。石田が自分の湯飲みを持って、縁側に移動する。気を利かせてくれたのだろう。縁側に胡坐をかき、硝子越しに庭を眺め始めた。
「この前、再婚するかもって言ってたでしょ。その人とね、再婚するんだって、やっぱり」
「……そう」
「引っ越すって言うの」
「……引っ越す、の」
紗枝は小さく息を呑む。
「その人がね、春から転勤なんだって。だからママと私も一緒に行くって言うの」
花音の両手がぎゅっと湯飲みを握り締めた。
「でもね、花音、来年六年生なんだよ。小学校、最後の年なんだよ。なのに引っ越すんだよ?」
「……」
紗枝はうんうんと頷いた。
「最後の年なのに、修学旅行だってあるのに……」
紗枝はうんうんとまた頷いた。
「全部ママの都合じゃない。離婚したのもママの勝手だし、再婚するのもママの勝手だし、引っ越すのもママの勝手だし。どこにも花音の気持ちなんて入る場所がない」
花音は抑えた声で、しかし一気に吐き出した。紗枝はうんうんと頷いた。
「で、それを言っちゃったんだ?」
「うん。喧嘩になった」
てへっと花音が照れ笑いした。
「で、飛び出しちゃったんだ?」
「うん。だって、まだ何も花音は決めてないのに。夜、その人と一緒に三人で食事に行くって言うから。そんなの、大人二人で色々言われたら、花音の言いたい事なんてどっかに行ってしまうに決まってるし」
「そう、か……」
心の中でなんとか抑えてきたざわめきが一気に爆発してしまったのだろう。自分でもどうしたらいいのか、どうしたいのかまだわからないのだ。その気持ちはわかりすぎるくらいにわかる。
しかし家でも心配しているだろう。喧嘩の原因が原因である。花音の母も心配でたまらないに違いない。
「でも、花音ちゃん」
紗枝は恐る恐る聞いてみた。
「おうちには連絡しなきゃ駄目よ。ママがきっと心配してるし。うちは大丈夫だけど……」
そう言いながらちらっと石田を見ると、石田は小さく肩をすくめて見せた。
「しばらくココにいてもいいけど、ちゃんと連絡だけはしないと」
「……うん」
花音はまた下を向く。なんと声をかけてやればいいのか。紗枝は困り果てながら花音を見つめた。気まずい重苦しい空気が流れた。
「お?」
縁側で石田がふいに声を上げた。
「お猫様ってあの猫?」
花音はぱっと顔を上げると、縁側まで四つ這いで移動し硝子におでこをくっつけるようにして外を見た。
「あ、そうそう。あれがお猫様! よくわかりますね」
「わかるよ。ふてぶてしい悪代官みたいな猫なんでしょ?」
「紗枝さんたら、お猫様の事、そんな風に言ってるんですかぁ? ひどいなぁ、もう」
「いや、確かにふてぶてしい。悪代官顔だなぁ。でも君にはナツいてるんだって?」
「そうなんですよぉ」
花音はそろりと硝子戸を開ける。
「お猫様~。お邪魔してますぅ」
「お猫様。初めまして。石田です」
猫は塀の上から不審そうな表情で石田を見つめていたが、例のふてぶてしい声で一声唸るとひらりと身を翻して塀の向こう側へと消えていった。
「あらら、やっぱり知らない人間がいると駄目だなぁ」
「お猫様は男だから、やっぱり男は嫌いなんですね、きっと。それとも紗枝さんと仲良しだから嫌われてるのかも」
「そうかなぁ」
石田が笑い出し、紗枝は持っていた湯飲みを落としかけた。
花音の母が迎えに来たのは暗くなってからだった。花音の母親に会うのは二回目である。花音の母親は少し疲れた顔をしていた。花音は堅い表情のまま母親からコートを受け取る。
「表で香川さんが待ってるから」
小さい声で言うと花音はくるっと振り返り、一つ頭を下げると玄関の外へと飛び出した。いつもなら必ず丁寧に挨拶して出ていくのに、今日は無言だ。
足音が遠ざかり、勢いよく開閉する車の扉の音が響いた。
「すみません、ご迷惑をおかけしまして」
「いえ、とんでもない」
深々と頭を下げる母親に紗枝は慌てて礼を返した。
「花音、なんか言ってましたか?」
「え、まあ。……引越しするのが嫌だって」
「そうですよね……。私達もだいぶ悩んで、悩んだ末の結論だったんですが。中学に行く事も考えたら、六年で引っ越した方がいいかなって思って……。どっちにしても花音にとったら辛い選択なのはわかってるんですが……」
花音の母親は深い溜息をついた。紗枝よりも一つ若いはずだが、今日の彼女は随分と疲れて老けて見える。
「あの子、あんまり普段何も言わないものだから……。ついついこっちが勝手に決めてしまって……。今日、初めてあんなに怒ったのを見たら、私もどうしたらいいのか、わからなくなってしまって」
グロスで光る唇が細かく震えている。
紗枝はやはり頷くしかできない。
「あの子がいつもこちらにお邪魔してるのは知ってたんですが、ついつい私も仕事にかまけてしまって。不義理ばかりで、ご挨拶もしないで、本当にすみませんでした」
「とんでもない。私の方こそ、いつも花音ちゃんには助けられてて。あの……さしでがましいようですが、花音ちゃんの事、怒らないであげてくださいね」
恐る恐る紗枝は言った。花音の母親は小さく笑って頷いた。その薄い笑いは、子育ての経験もないくせに口を出すなと紗枝を拒絶しているような、少し莫迦にされているような気がした。思い過ごしだと紗枝は自分に言い聞かせる。
「では、失礼します」
花音の母親は頭を下げると表に出た。赤い車がハザードランプを点滅させて止まっている。それに乗り込むと、車はゆっくりと走り去った。
紗枝はなんとなく重たい気分でその車を見送った。
「……色々と大変だ。花音ちゃんも」
石田がいつの間にか背後に立っていた。
「大人しいから口には出さないけど、色々抱えてる。それを素直に出せるのは紗枝さんとお猫様の前だけってことですか」
「……私では駄目なんです。それはわかってるんだけど」
紗枝は呟く。人生の先輩として何かためになる言葉の一つもかけてあげられれば、どれほど心強いだろうか。しかし紗枝の中には何一つ気の利いた言葉は浮かばないのだ。花音よりも四倍近くも長く生きているはずなのに、少しも先輩であるという実感はない。むしろ自分を見ているようで、時々苦しささえ感じるくらいだった。
「支えてあげたいって思うんですけど……。本当に力不足で」
「いいんじゃないですか。聞いてあげるだけで。それで楽になることもある」
「……そんなものでしょうか」
「多分。人を支えるなんて、なかなか出来ないですよ。支えられるって思う方がおこがましいのかもしれません」
石田は目を細めて車の去った方を見ている。
「……大切なのは、同じ方向を見るって事じゃないですかね」
「……同じ方向を、見る、ですか」
ふと石田と花音が並んで庭を見ていた光景を思い出した。
「……同じ方向を見る……」
紗枝は言葉を口の中で繰り返した。石田がぽんと紗枝の肩に手を置いた。
「さ、入りましょう。風邪ひきますよ」
電柱の外灯がぽつりぽつりと点り始めた。
続く