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猫日和  作者: 高遠響
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薄紅葉

     薄紅葉


 花音が遊びに来た時、彼女の手には紅葉の枝が握られていた。少し黄ばんだ緑の葉のふちがほんのり赤く色づいている。花音の近所の家から貰ってきたらしい。

「枝が道に張り出してて、邪魔だからそこだけ切ったんだって。なんだか可哀想だから貰ってきた」

 花音は愛おしそうに枝を見る。

「まだちょっと早いね」

 紗枝も一緒に覗き込む。

「でも真っ赤だとすぐに散ってしまうでしょ。これだと赤くなるのを楽しめると思うんだけど……花瓶に挿しても無理かな」

 二人で顔を見合わせながら首をかしげる。しばらく二人で悩んでいたが、結局紗枝の家の玄関で飾ってみようという話になった。

 紗枝は物置にしまいこんでいた大きめの備前焼の花瓶を出してきた。

「なんか大層な花瓶だなあ」

 紗枝は花瓶の中でこそこそと動き回る枝を見ながら苦笑いしたが、花音はいたく気に入ったようである。

「もっとたくさん挿せそうですね。あそこのおうち、まだ枝捨ててないかな」

 花音は嬉しそうに駆け出していく。

 その後ろ姿を見送りながら思わず笑ってしまった。花音は来年六年生らしいが、なんとも無邪気なものである。テレビなんかでは今時の小学生、それも高学年ともなればミニチュアの「女」のような子供達がうじゃうじゃしているが、それに比べると花音の純粋で幼いこと。彼女を見ているといつの間にかほっこりした気分になっている。

 しばらくすると花音は右手に紅葉、左手には数本の菊の花を持って帰ってきた。

「どうしたの、オマケつきだ」

「枝を花瓶に飾るって言ったら、おうちの人がオマケにくれたんです。得しちゃったぁ」

 庭先の花を分けてもらって、花音はすっかり上機嫌である。

 すっかり賑やかになった備前焼の花瓶を縁側に置き、二人でそれを挟むように座った。

 庭には金色の硝子のような黄昏の光が斜めに差し込んでくる。夏にはまだまだ昼間だった時間帯だが、今はもうすっかり夕方だ。まもなく暗くなってくる。

「日が傾くとなんだか寒くなってくるね」

 紗枝は肩をすくめてぷるるっと震えた。

「なんか寂しいなぁ」

 花音がぽそりと呟く。

「秋だから?」

 紗枝の言葉に花音は小さく笑った。そのままふうっと小さな溜息をついて視線を遠くに飛ばした。その仕草が妙に大人っぽく見えて、紗枝は妙な違和感を覚えた。

 しばらく二人は黙っていたが、花音がぽつりと言った。

「……あのね、ママが再婚するかも」

「再婚?」

 唐突な言葉に紗枝は戸惑い、花音を見つめた。花音は花瓶に活けられた紅葉の葉を一枚引きちぎり、それを手の中でちまちまと細かく裂いている。

「ママの会社の人。最近、よく一緒にご飯食べたり、遊びに連れて行ってくれる」

「……そう」

 なんと返したらいいのか。紗枝は頷くしかできない。

「昨日の晩、ママに『ママが再婚するって言ったらどうする』って聞かれた」

「……で、なんて?」

「べつに……って答えた」

「べつに……かあ」

 全然『べつに』ではないはずだ。きっと花音の心の中には野分が駆け抜けているに違いない。それを口に出来ないのだ。

「聞いてもいい? その人の事、どうなの?」

「……べつに。まあ、嫌い、ではない、かも、知れない」

 考え考え、ようやく出てくる言葉は花音の心の中の戸惑いそのものだった。

 紗枝は年上の友人として何か気の利いた言葉をかけてやりたいと思ったが、実際のところ何も出てこなかった。

 花音の母親は自分よりもまだ年下で、しかし結婚して、花音を産んで、離婚して、女手一つの子育てをしているのだ。四十の大台に乗りながら、独身でもんもんと過ごしている自分は余りにも世間知らずで半人前のような気がした。

 静かな沈黙が流れる。コオロギのキリキリと囁く声が耳に沁みてくる。

「紗枝さん」

 花音が口を開いた。

「結婚するって、どんな感じですか? やっぱり楽しいというか、幸せだと思うものですか?」

「え……」

 紗枝は口ごもる。結婚と言われても、自分はまだそこに至っていないのだ。

「紗枝さんも結婚するんでしょ? 石田さんと」

 紗枝の心の中にも野分が渡る。

 確かに夏に見合いをした石田とは十日に一回のペースで会っている。しかしまだ紗枝には石田と一緒に生活する自分の姿が頭の中で思い描くことが出来ていなかった。

 石田が真面目で誠実な人柄であるという事は間違いない。母親も、夫にするには最高の男だと大満足なのである。それはわかっている。でもなにかまだ紗枝の心の中には石田の居場所がないような気がするのだ。何が不足なのか、何が気に入らないのか、自分でもわからなかった。

「それは……よくわからない、私も。ごめんね」

 謝ることでもないと思うのだが、紗枝は謝罪の言葉を口にした。それは花音への言葉でもあり、煮え切らない態度で振り回してしまっている石田への謝罪であったのかもしれない。

 黄金色だった庭はすっかり色を失って、虫の声が一際高く響いてきた。


 それから数日後、昼休みに紗枝の携帯に石田からメールが入った。

『今夜、お時間ありますか? 夕食を一緒にどうですか。いい店があるのでぜひご一緒したいのですが。』

 ふいに「結婚するんでしょ、石田さんと」という花音の言葉が甦る。

 メールが来たからと言って特別ドキドキすることもない。こんな自分がこのままずるずるとこの人と付き合っていていいのだろうか。そんな不安とも疑問とも言えるような思いが心の底の方でゆらゆらと揺れている。

 しばらく考えてから、紗枝は慎重に返信した。

『時間が大丈夫ですが、自転車で出社しているので一回家に帰らなくては駄目なんです。遅くなるけどいいですか』

 消極的な拒否とも取れるかもしれない。石田がどう言ってくるだろうか。

 三分ほどしてから再びメールが届いた。

『家まで迎えに行きます。会社を出る時に連絡してください』

 了解のメールを返信しながら紗枝はいつの間にか困ったような表情を浮かべていた。

 お互いに業務連絡のような要点だけが書かれたメールだ。どう見ても付き合っている男女の交わす文面には見えない。丁寧な言葉で綴られた文章は、二人の間に横たわっている距離に違いない。と言って、絵文字と甘ったるい言葉でちりばめられたメールを貰っても困るのだが……。

 紗枝は携帯をポケットにねじ込むと、小さな溜息をついた。


 紗枝は会社を出ると、いつもよりも三割増しの勢いで自転車を走らせていた。定時で仕事を終え、今まさに帰宅しようとした瞬間、取引先から電話が入ったのだ。これがまた思った以上に時間を取ってしまったのだ。

 家の表には見慣れない車が止まっていた。石田がもう到着しているようだった。

 慌てて自転車を止め、玄関に駆け込む。途端に台所の方から母親の大笑いする声が飛び出してきた。足元を見ると普段は見ることのない大きな革靴がきちんと並べて置かれていた。こんな大きな靴が玄関に並んでいるのを見るのは久しぶりだ。

「お帰りなさい」

 ふいに石田が顔を覗かせたので、紗枝は慌てた。

「遅くなってごめんなさい。出ようとした時に電話が入っちゃって。着替えてきますね!」

 あたふたしながら上がろうとすると石田がのんびりした口調で遮った。

「そのままでいいですよ。そんな気の張るところじゃないんです。そのままで充分だから」

 そしてゆっくりと上がりかまちに腰を下ろし、靴を履く。

「じゃ、行きましょうか」

 すっと立ち上がると、僅かに肩と腕が触れ合った。これほど間近に立たれるのは初めてだった。微かな体臭がふわりと鼻先をくすぐり、紗枝の心臓が一つしゃっくりをした。


 石田に連れて行かれたのはカウンターだけの小さな串カツの店だった。串カツ屋とは言いながら綺麗に手入れされていて、会社帰りのサラリーマンがクダを巻くというようなオッサン臭いイメージはなく、ヨーロッパの街角にありそうな、ちょっとお洒落な老舗洋食屋さんと言うような風情があった。壁には可愛らしい水彩の絵がいくつか飾られている。絵本のような柔らかい素朴な作品だ。喫茶店と言われてもすんなり信じるだろう。

「色んなところ、知っているんですね」

 最初のレストランといい、見かけによらずお洒落なスポットを良く知っている人だ。

 石田はにやっと笑う。

「こんな場所、知ってるとは思えない。でしょ?」

 紗枝は図星を指されて大慌てした。

「いえ、そんな、雑誌とか見て調べてるのかなと思って」

「まさか僕がそんな事しそうに見えますか? それこそ似合わない」

 石田は可笑しそうに笑いながらカウンターの空いている席に座った。

「幼馴染みが経営しているんです。売り上げ協力もあって、何かある時は使わせてもらってるんです」

「そうだったんですか」

 紗枝は恐縮しながら隣に座った。

「いらっしゃい。お、新、今日はデート? 食い気ばっかりの男が、珍しい」

 カウンターの中の主が声をかけてきた。熱いお手拭を二つ石田に手渡す。

「うるさい」

 それを受け取りながら、石田は砕けた口調でやり返した。

「こいつ、男のくせに喋りなんです。あんまりマトモに聞かないように」

 笑いながら紗枝にお手拭を渡す。

「なんせ女性の前では舌の回りが悪い男ですからね、油物でも食べないとスムーズに喋れないんだよな」

「だから、うるさいっ。いらん事ばっかり言うな」

 石田は怒った顔をして主を睨んだ。が、目が笑っている。よほど気の置けない友人なのだろう。

 紗枝はお手拭で手を拭きながら、あっけに取られて石田とその友人を交互に見比べた。

「新、いつもの?」

「いや、今日はコレだから。ウーロン茶で」

 石田はハンドルを握る真似をした。店主は意味ありげな視線を紗枝に投げかけ、にんまりする。

「ははあ、アッシーですな」

「アッシーなんてそんな」

 紗枝は慌てた。傍から見れば確かにアッシーなのだが、言われて初めて気がついた。石田が口を挟む。

「紗枝さん、飲めるんですか?」

「え、いえ、私もウーロン茶で」

「それが賢いですよ。うっかり酔っ払って新に襲われたら大変だから」

「するか! そんな事」

 店主の軽口に笑いながら言い返し、ちらっと紗枝を見た。

「……そうか、その手があったか」

 石田の目が笑っている。紗枝はあたふたしながらお冷を飲み、水滴を膝の上にこぼしてまた慌てた。

 石田が声を出して笑い出す。

「からかい甲斐があるなぁ、紗枝さんは」

「もう、やめてください」

 紗枝はハンカチで膝を拭きながら小さく膨れた。年下の男性にからかわれるというのが癪に障る。

 二人の前にウーロン茶が出てくる。

「じゃ、ま、とりあえず、お仕事お疲れさまでした」

 石田が乾杯を促す。紗枝は仕方なくグラスを手に持って石田のグラスに軽くぶつけた。

 その夜の石田は饒舌だった。今まで紗枝と会っている時は言葉を探り探り、慎重に選んでいるようだったが、今日はびっくりするくらい無防備で、よく喋った。時々茶々を入れてくる店主に口を尖らせながら言い返す姿は、妙に子供じみていて可笑しい。紗枝はかわるがわる二人の顔を見ながらその会話を聞いていた。

 ふと父が昔、職人仲間と一緒に家で飲んでいた風景を思い出す。父は酒にはあまり強くないらしくすぐに赤くなっていた。普段から無口だったが、酒が入るとますます喋らない。しかし、仲間達の口からポンポン飛び出す会話に声を上げて笑っていた。その時の笑顔は心の底からくつろいでいて楽しそうだった。男同士というのは良いモノだな……と、紗枝は心の中で呟いた。


 店を出たのは十時を回っていた。随分と長居をしてしまった。

「さっさと帰れ。営業妨害じゃ」

「また来てやるから覚悟しとけ」

「来るな来るな。いや、彼女の方はまたお越しくださいね。今度は違う彼氏と一緒にぜひどうぞ」

「やかましいわ」

 最後の最後まで漫才のようなやりとりである。紗枝はたまらず吹き出した。

 駐車場に停めてある車に乗り込むと、紗枝ははああっと大きな息を吐いた。

「食べすぎちゃった」

「確かに、よく食べてましたね」

「言わないでください~」

 思わず情けない声を出してしまう。出されてくる串カツはどれも揚げたてで、本当に美味しかったのだ。具もバラエティーに富んでいて飽きることもなく、ひたすら食べてしまった。体重計に乗るのが恐ろしい。

「いやいや、しっかり食べる方がいい。それに今日は紗枝さんの大笑いする顔も見られたし、良かった良かった」

「え? そんな大笑いしてました? 私」

「そりゃ、もう。大きな口開けて。串カツ食う時も結構ばっくりと。案外口デカイな……とか思ったりして」

「うそぉ」

 紗枝は思わず口を覆う。石田は笑いながらキーを回した。

 エンジンの音が車内に響く。

「なんかようやく普通に喋れそうだなぁ」

 石田はゆっくりと車を走らせながら言った。

「今までお互い、なんか緊張してたし。俺もなんか、どうしたらいいかよくわからなかったし。でも今日は楽しかった」

「……はい」

 紗枝は頷いた。すんなりと石田の言葉が入ってくる。

 石田の指がカーラジオのスイッチを入れた。民放なのかナイター中継が流れてくる。

「FMにしようか?」

「いえ、このままでも。野球、好きですか?」

「うん、結構。紗枝さんは?」

「……あんまり見ないけど、きらいではないかなぁ。WBCくらいは見る。イチローは格好いいと思う」

 石田が笑った。

「アイツは格好良すぎるから俺は嫌い。……イチローと比べられそうだからやっぱりFMにしよう」

 コンソールのボタンを何回か押すと、知らない英語の歌が流れてくる。ボリュームを落として、小さな音にした。

 夜道を走らせながら二人は話をした。会話は時々途切れることもあったが、訪れる沈黙は居心地の悪いものではなかった。

 帰りの道程は随分と短く感じられた。家の前に着くと、石田の手がサイドブレーキを強く引く。ぎゅっと軋む音がやけに大きく響いた。

「改まって言うのもなんだけど……」

 石田が前を見たまま口を開いた。

「……前向きに考えてもらってると思って、いいですか」

 くつろいでいた心臓がきゅっと身震いする。どう答えたらいいのだろうか。手のひらに汗がにじんでくる。

「俺としては、結構前向きなんですけどね」

 心臓がばくばくしてくるのがわかる。頬が酔っ払ったように暑かった。車内が暗いことを感謝する。きっとものすごくみっともない顔をしているだろう。

「……まったく脈がないって言うことは、ない?」

 紗枝は両手を握り締めて、小さく頷いた。

「良かった……」

 石田はふうぅっと大きな溜息をつく。溜めていた不安を一気に吐き出したようだった。

「でも、私、まだ、ぴんとこなくて……」

 紗枝はしどろもどろになりながら口を開いた。このまま一気に話が進んだりしたら、きっと自分は石田の気持ちについていけない。石田との距離は今日でようやく少し近づいたような気はするが、だからと言って結婚という結論にはあまりにも飛躍がありすぎる。このまま自分の気持ちを自分でもよくわからないまま突き進む事は出来ない。

「私、ごめんなさい。トロいというか、鈍いというか。なかなか自分でも自分がわかってないところがあって……。石田さんはとてもいい人だと思ってます。でもまだ、具体的に結婚となると……。ごめんなさい、ぴんとこないんです。嫌いとか、絶対イヤとか、そういうのではないんだけど……」

 言葉を重ねる毎に混乱していく自分がいる。自分の優柔不断さにはつくづく嫌になる。好きなら好き、嫌いなら嫌いとはっきり言えばいいのに。いや、それ以前の問題で、自分の中でもまだ好きとも嫌いとも判断が出来ていない。こんな事で大丈夫なのだろうか。喋れば喋るほど、胸の中が詰まってくる感じがして、だんだん言葉が出てこなくなってきた。

「……本当に、自分が嫌になる。なんでいつもこんな駄目駄目なんだろう」

 紗枝は俯いた。石田は黙ってうんうんと頷いていたが、ぽんっと左手を紗枝の頭においた。

「ごめん、焦らせた。紗枝さんが悪い訳じゃない。人生の一大事だもの、迷って当然です」

「……すみません」

「俺の事、嫌いじゃないってわかったから、今日は満足。ゆっくりでいい、ゆっくりで」

「……すみません」

「謝らない。……また誘うけど、いいですか?」

 紗枝は「すみません」という言葉を飲み込むと、小さく頷いた。


 石田の車を見送り、玄関に入る。なんだか無性に疲れていた。このまま布団にもぐりこみたい。一晩寝たら、少しは自分の気持ちの整理が出来るだろうか。

黄色い光に包まれた下駄箱の上の薄紅葉が目に入った。色づくまでにはまだもう少しかかりそうだった……。


続く

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