逢魔ヶ刻
逢魔ヶ刻
日中のじりじりするような日差しが弱まり、薄紫の夕暮れの光の中を紗枝は自転車を走らせていた。この時間帯は全てのものが薄紫色に染まり、町並も車も人も風景に溶け込んでしまう。全ての輪郭がぼやけ、その存在感や現実感をあやふやにしてしまう。逢魔ヶ刻という言葉がぴったりだ。
「きゃ!」
ふいに細い路地から人影が出てきて、紗枝の自転車の前に現れた。紗枝は慌ててブレーキを握ったが、止まりきれずに思わずハンドルを大きく切って避けた。
「わあ!」
結局紗枝は自転車ごと横にひょろひょろと倒れてしまった。
がしゃーんという派手な音。紗枝は道路にひっくり返っていた。
「い……ったぁ……」
自転車を跨いだままの姿で横倒しになったので、片足を地面と自転車に挟まれてしまっている。ついでに下向きになっている腕もしたたかにアスファルトにぶっつけた。
「ごめんなさい! 大丈夫ですか?」
甲高い悲鳴のような声がした。紗枝は顔を歪めながら声の方を見た。
小振りなスニーカーを履いたひょろりと細い足が目の前に立っている。足から順に視線で辿っていくと、レギンスに超ミニのスカート、なにやらキラキラと光物のたくさんついたカットソー、無造作に下ろしてある長い黒髪が見えた。
「大丈夫ですか?」
声の主はしゃがみこんで紗枝を覗き込んだ。若い女性……というよりは少女と言った方がいいかもしれない。化粧っ気のない浅黒い顔は小学生高学年と言ったところだった。
女の子は手にした荷物を地面に置き、慌てて自転車のハンドルに手をかけた。不自然な格好でなんとか起こそうとするが、紗枝の足が自転車を跨いでいるのでなかなか成功しなかった。
「ちょっと、ちょっと、待って。足、足抜かないと……」
紗枝はもがきながらようやく自転車の下から足を抜いた。女の子はふらつきながら自転車を起こし、スタンドを立てた。
「いった~……」
紗枝は地べたに座ったまま自分の足を見た。ジーンズがこすれて毛羽立っている。裾を捲り上げてみると、出血は無いが赤くなっている部分が結構広い範囲であった。時間が経てば間違いなく紫色に変色してひどく見苦しいことになりそうだ。
肘を見ると、こちらは見事にすりむいている。ずるりと剥けた皮膚とアスファルトの細かい砂塵がまみれた赤い部分に思わずくらくらした。子供の頃ならツバでもつけておけば治るくらいの傷だろうが、すっかりオバサンと化してしまっている身体には結構なダメージだ。それよりもなによりも、咄嗟に体勢を立て直せずに見事に転んだ事がショックだった。
「立てますか?」
泣きそうな声で少女が覗き込んでくる。
「あなたねぇ……」
急に飛び出してこないでよと、文句を言ってやろうと思ったのだが、少女の顔が今にも泣きそうに歪んでいるのを見るとすっかり怒る気力も失せてしまう。
「……立てると思うけど」
紗枝はどっこいしょ……と立ち上がった。が、下敷きになった方の足首に鋭い痛みが走り、思わず声を上げた。
「……捻挫したかな」
手近な壁に手をついて、そっと体重をかける。と、やはりひどく痛む。
「どうしよう……。ごめんなさい、ごめんなさい」
女の子はおろおろしながら足と紗枝を見比べている。
「あ~、もう、いいから。大丈夫よ、多分」
紗枝は足を引きずりながら自転車に近寄ると、ハンドルを握った。乗るのは無理そうだが、自転車を押すのはなんとか出来るだろう。家まで後五分ほどだ。
「家近いから、なんとかなるでしょ」
「あの、お医者さんとか、救急車とか」
女の子は必死の形相で食い下がってくる。
「救急車なんて要らない要らない。かえって怒られるって。どっちにしたって帰らないと保険証も持ってないし……。気をつけてよね、本当に。自転車で良かったんだよ。これがバイクだったらあなただって怪我してたんだから」
ぶつぶつと負け惜しみのような説教をひとしきり垂れてから、紗枝はひょこひょこと足を引きずりながら自転車を押し始めた。思った以上に重労働になりそうだった。
「家まで送ります! 送らせてください!」
女の子が叫びながら自転車のハンドルに横から手を伸ばす。少しむっとしながら、紗枝はハンドルと女の子の顔を何度か見比べた。
女の子の目には涙が大盛りになっている。今にもこぼれそうだ。これじゃまるで私が悪いみたいじゃない……と紗枝は怒る気力を無くしてしまう。それどころか、その涙を見ると、なんだか可哀想に思えてくる。我ながらお人好しだと思いながら、いつの間にか紗枝は苦笑いを浮かべていた。
「じゃ、頼もうかな。家、すぐそこなんだけど」
二人はゆっくりと歩き始めた。
しばらくすると自転車を押してもらっていることを密かに感謝した。思った以上に足が痛くなってきた。これはもしかしたら捻挫ですんでないかも知れない。一応彼女の連絡先くらいは聞いておいた方がいいのかも。でも小学生相手に治療代を請求すると言うのはどんなものだろうか。
時々紗枝の様子を伺うように女の子が視線を投げかけてくるのがわかったが、あえて視線は合わせないようにした。視線が合ってしまって、にっこり微笑むというのも少し場違いな気がする。それよりは歩くのに専念した方がましだろう。
急な坂を上り切り、右に折れたすぐのところが紗枝のうちである。
「ここがうち。ちょっと待って」
紗枝は古びた門扉を開けるとその奥を指差した。
「そこの物置の前に自転車置いてくれる?」
「はい」
女の子は神妙な顔のまま素直に頷き、自転車を言われた場所に置いた。
「ありがとう」
一応礼を言っておく。
「あの、本当にすみませんでした」
女の子はもう一度頭を深く下げた。そして恐る恐る申し出る。
「あの、メモかなんか貸してもらえますか。名前と住所、書きますから」
どうやって切り出そうかと思っていたところの申し出だったので紗枝はほっとした。こういうのを自分から言い出すのはとても苦手なのだ。
「ちょっと待ってて」
片足でけんけんしながら玄関先に向かう。玄関のすぐ横が居間で、その入口に電話を乗せた電話台があるのだ。そこの引き出しからメモとボールペンを出すと外にいる女の子に声をかけた。
「取りに来てくれる?」
女の子がおずおずと顔を覗かせた。紗枝からメモとボールペンを受け取り、ぎこちない手つきで自分の名前と電話番号を記す。メモには松田花音と書いてあった。
「……なんて読むの?」
「かのん」
今時の子供の名前は難しい。カナを振ってもらわないと読めそうにない。
「あの、お母さんに言って、また改めて謝りにきます……。本当にすみませんでした」
女の子、花音はもう一度頭を下げ、そしてとぼとぼと玄関を出て行った。
「あ、ありがとう」
紗枝はそう声をかけながらしょんぼりした後姿を見送った。被害者は自分なのだが、なんだか妙な後ろめたさを感じていた。もっと優しい接し方をしてあげれば良かった……。あんな子供相手にあまりにも愛想のない態度だった。かわいそうな事をしてしまった。怪我の痛みよりもそんな胸の苦さが少し勝っていた。
花音が母親と一緒に訪れたのはその翌日の夜だった。玄関で応対に出た母親に呼ばれ紗枝が玄関に出て行く。
「……骨折だったんですか?」
花音の母親は顔中に「しまった」という表情を浮かべ口元を押さえた。上がりかまちに立っている紗枝の左足首には無粋なギプスがはまっていた。
母親らしき女性の後ろに決まり悪そうに立っていた花音の目が紗枝の足に釘付けになっている。
「いえ、捻挫だったんですけど痛みが強かったので、お医者さんが一週間ほど固定した方がいいって言うもんだから。骨折じゃないんです。ちょっと大げさですよね」
慌てて紗枝は言葉をつなげた。なんで自分がこんなに弁解がましいことを言っているのかと少し思ったが、花音の目にみるみる涙がたまるのを見るとこう言うしかなかったのだ。
「本当にうちの娘が不注意で……。ご迷惑をおかけいたしまして、本当に申し訳ございませんでした」
花音の母親は深々と頭を下げた。娘とよく似ていて、ほっそりとした綺麗な面立ちの、しかしどこか神経質そうな女性だった。
「普段からぼーっとしているもんだから、道を歩く時も気をつけるようにずっと言ってたんですけど、本当にこの子はぼんやりしているもんだから……」
まくしたてるように我が娘のぼんやりぶりを詫びる。それを聞いている花音がどんどん小さく縮んでいくようだ。
「いえ、私も不注意だったので。ちゃんと一旦停止しなきゃ駄目だったんだよね」
花音の母親の言葉を遮るように紗枝は口を挟んだ。それでもまだ母親は口の中で「ぼんやりだから、ぼんやりだから」と繰り返してた。これでは花音も立つ瀬がないだろう。
ひとしきり愚痴っぽい謝罪をした後、花音の母親は唐突に事務的な口調に変わり、治療費の話を切り出した。紗枝の母親が紗枝にすばやく目配せをした。私にまかせろ、ということだろう。こういう話は紗枝よりも母親の方がしっかりしている。四十にもなろうと言うのに母親に任せるというのも情けない話だが、紗枝にとってはいつもの事だ。自分と違って母は現実的でしっかりしている。紗枝は間違いなく父親似だ。
着々と母親同士で話が進む中、紗枝は足をかばいながらどっこいしょと玄関に下りてミュールを素足に引っ掛けた。
「こっちおいでよ」
花音を庭に誘う。小学生にお金の話を聞かせるのも可哀想というものだ。二人は細い犬走りを通り、家の裏へと回った。
猫の額の庭はそれなりに夏の風情で満ち溢れていた。細長いプランターには朝顔が蔓を伸ばし、手のひらのような葉を茂らせている。コンクリートの壁沿いには地植えの向日葵が三本、ひょろりと薄暗い夕闇の中に佇んでいた。花はまだ咲いていない。どこからかぜんまいを巻くような螻蛄の鳴き声が途切れなく聞こえてくる。
「庭、いいなぁ」
花音がぽつりと呟く。
「狭いけどね」
紗枝は笑いながら縁側に腰をかけた。花音もちょこんとその横に座る。
「うちはマンションだから」
「そっか……」
花音は細い足をプラプラさせた。なんとなく黙ったまま二人で庭を見つめる。
玄関先の二人の母親の声がかすかに聞こえてくる。内容はわからないが時々笑い声が混じっているようだ。和やかに交渉は進んでいるらしい。
「ママ、声がでかいから……」
花音がかすかに笑いを含んだ声で呟く。確かに聞こえてくるのは花音の母親の声だけだ。
「うちのはもうオバアサンだから、声が低いのよね」
紗枝がそう答えると花音は小さく吹き出した。
「オバアサンって……」
「そうよ~、だって、もう七十前だもん」
「花音のおばあちゃんと一緒くらい?」
一瞬二人は顔を見合わせた。
「……花音ちゃんのお母さんってお幾つ?」
「三十八歳」
「……」
聞かなければ良かったと紗枝は密かに後悔した。自分よりもまだ二つほど若いではないか。歳を重ねる毎にこういう小さな衝撃によく遭遇するようになったが、何度体験しても慣れないものだ。
一人くらくらしていると、花音が小さな叫び声を上げた。
「あ、猫!」
塀の上に例のふてぶてしい猫がひらりと飛び乗り、のしのしと歩いてきた。花音の姿を見つけると立ち止まり、これまたふてぶてしい声でぶにゃあと鳴いた。
「猫飼ってるんですか?」
「ううん、よその猫。なんだか知らないけどいっつも遊びに来るの。我が物顔でくつろいでる。厚かましいオッサン猫」
猫は大きなお世話だとでも言いたげにまた鳴いた。そしてそのまま塀の上で寝そべる。
「お客さんがいるから一応遠慮してるらしいわ」
紗枝は笑い出した。一番最初にこの塀の上に来た時もこんな顔をしていたっけ……などと考える。
「いいなあ。このおうち、ほんと、いいなあ」
花音は小さく繰り返した。マンション住まいだと猫も飼えないだろう。
二人は黙ったまま徐々に色を失っていく庭の風景をじっと見つめていた。
しばらくして玄関から花音を呼ぶ声がした。花音はゆっくり立ち上がった。そして二三歩歩いてから、ふと振り向く。
「あの……」
一瞬言いよどみ、それから恐る恐る口を開きなおした。
「また猫に会いに来てもいい?」
紗枝はきょとんとしたが、小さく頷いた。
「どうぞ。いつでも遊びにおいでよ。なにも面白いものはないけど」
いつの間にか紗枝の頬には微笑が浮かんでいた。
その日から花音は時々遊びに来るようになった。花音は礼儀正しく大人しい子だったので、紗枝も紗枝の母もすっかりこの小さな客人を気に入ってしまい、ほとんどフリーパスで庭に入ることを許した。花音も最初は遠慮がちでおずおずしていたが、本来ののんびりした表情を見せるのに、それほど時間はかからなかった。
花音は本当に手のかからない子で、夏休みに入るとわざわざ水筒とおやつを持参してやってきた。
「他所のおうちに行く時は食べ物や飲み物を絶対に頂いたりしたら駄目なの」
紗枝がジュースを勧めた時、花音は小さな声でそう言い手にした水筒をぶら下げて見せた。花音の母親は自分よりも若いがそういうところは相当厳しそうだ。それに比べると自分は甘いなぁ……と紗枝は感心するやら少し可哀想に思えるやら、複雑な思いにかられた。
花音は玄関のインターホンを鳴らし、紗枝か紗枝の母が応対に出るとウキウキと犬走りを通って庭に行く。そして誰に構われるでもなく一人で機嫌良く庭で過ごすのだ。機嫌良く、と言っても特に何をするでもなく、庭の隅っこにしゃがみこんで行列を作る蟻を眺めたり、雑草を抜いたりするくらいで、傍から見ていると何が楽しいのかよくわからないのだが、本人はいたってリラックスしているようで、紗枝に呼ばれて振り向く時の顔には大概明るく輝いていた。
猫の方はやっぱりふらりとやって来ては飼い猫面でコンクリートの上で寝そべっている。花音はある程度信頼しうる人間であると評価されたらしい。なぜなら花音は時々猫用の土産に竹輪なんかを持ってくるのだ。
「お猫様、本日のお土産でございます」
花音は猫の鼻先でちらちらと竹輪を揺らす。猫はのっそりと身体を起こし、しばらく匂いを嗅いでからおもむろにばくっと竹輪の端っこに噛み付くのだ。それが楽しいのか、花音は声を立てて笑い出す。
なんだか不思議な光景だった。自分の家の庭で、家族でもない猫と子供がまるで風景に溶け込むように過ごしている。花音と猫の姿に自分の子供の頃がふと思い起こされることがあった。こうして庭で遊んでいる自分を家の中から両親がにこにこ笑いながら眺めていた記憶が甦る。父は紗枝がまだ学生のうちに他界してしまった。大工をしていたが、仕事中に足場から落下したのだ。なんともあっけない最期だった。
そう言えば父がいなくなった頃から自分は家にこだわっているような気がする。いや、この家で過ごした父との想い出に、柔らかで優しい記憶にこだわっているのかもしれない。父がいなくなって二十年以上も過ぎたというのに、色褪せた想い出は柔らかく、でもしっかりと自分の心をとらえているのかもしれない。まるで、壁を伝っている蔓草のように……。
そんな事を思いながら眺める庭の情景は懐かしくもあり、でも何故か少し物悲しく見えた。
猫に指先を齧られた花音の笑い声が日の溢れる庭に弾けている……。
続く