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猫日和  作者: 高遠響
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たんぽぽ

     たんぽぽ


 紗枝は憂鬱だった。もうすぐ誕生日が来るのだ。そしてついに四十歳の大台に乗ってしまう。いわゆる不惑というヤツだ。にも関わらず、日々迷ってばかりの自分がつくづく嫌になってしまう。母親にはさんざん四十歳までに結婚してくれと言われていたが、結局それも叶わないままジャスト・アラフォーだ。まあ、結婚の道筋は付きかけているだけマシだとも思うのだが……。

 石田はそんな紗枝の心中を知ってか知らずか。殊更ことさら焦ることもなければ、情熱的に燃え上がることもなく、相変わらずのんびりマイペースで紗枝と過ごす時間を積み重ねている。勝手なもので、当てもない結婚を母親からせっつかれている時は猪突猛進で話が進んだらどうしようかと不安で仕方なかったのだが、当てが出来た今となっては別の意味で不安になるものだ。本当にこの人は結婚するつもりなのだろうか。もしかしたら今になって「やっぱり辞めよう」とか思っているのではないだろうか。紗枝のマイナス思考は筋金入りである。

 そんな中、石田が一つの提案をしてくれた。

「二月十九日は花音ちゃんも誘ってピクニックでも行く?」

 三学期が終わったら花音が引っ越すことを紗枝は石田に言ったことがあったが、それを覚えていてくれたのだ。

「いいの?」

 紗枝は目を丸くした。

「だって花音ちゃんは紗枝さんの親友だから。そうでしょ?」

 石田がそう言ってくれたことが嬉しかった。紗枝にとって花音は確かに親友だ。同時に自分にとって夢だと最近は感じていた。自分と似たところがあるという共感と、自分にはない強さと逞しさを持っているという憧れ、そして自分にとっては既に過ぎ去ってしまった季節をこれから歩んでいくのだという眩しさと少しの羨みと、きっと彼女は自分の人生をしっかりと歩んで行くだろうという確信。子供の成長を見守る母親の気持ちというのはこういうものなのだろうか。

「花音ちゃんと二人で相談して、どこでも好きなところへ」

 石田はどこまでも穏やかでにこやかだ。

 早速花音と話し合って、近郊の植物園に行くことにした。近郊と言っても、県境の山の中腹にあり、紗枝の家からなら車で小一時間ほどのところにある。椿、バラ、紫陽花、ハーブなど多様なテーマの庭園があり、大温室や日本庭園なども造られている。多目的の広場やバーベキューエリアなどもあり、一年を通じて人気のあるスポットだった。

 当日、紗枝は朝早くから起きて一生懸命弁当を作った。大きなタッパ二つにぎっしりとおかずを詰めていく。正月のおせち料理でもこんなに大量には作らない。紗枝にしてみたら一世一代のお弁当だ。

 最初にやって来たのは花音だった。いつものポシェットとは別にスーパーの白い袋を提げている。

「おやつ、いっぱい持って来ちゃった」

 センベイやらチョコレートやらポテトチップスやら、果たして三人で食べきれるかどうか疑問である。

 花音はテーブルの上に並べられた弁当に目を丸くした。

「すごい~。全部紗枝さんが作ったんですか? 味見したい、味見」

 紗枝が小皿に取り分けてあった余ったおかずを差し出すと花音は指でつまんで口に放り込んだ。

「ん~、美味しい。甘い~。このニンジン、ハンバーグの横についてるヤツだ」

 ニコニコ顔である。まずは合格点といったところか。

 三十分ほどして石田がやってきた。車のクラクションを聞いて、紗枝と花音は弁当とお菓子を持って外に出た。

 車の外で二人を待っていた石田は二人の大荷物を見て、ぷっと吹き出す。

「まさに花より団子だなぁ」

 紗枝と花音は顔を見合わせ、

「女子はそういうモノです」

 と、花音が胸を張って威張った。

 助手席に紗枝、後部座席に花音が座る。花音は時々もぞもぞと座りなおす。

「なんか、へんな感じ~」

「何が?」

「よその車に乗るのってなんか恥ずかしくない?」

 なんとなく落ち着かない様子で動き回っていたが、ふいに身を乗り出して紗枝の耳元で囁く。

「もしかして、花音、お邪魔?」

「何言ってんのよ」

 紗枝が指先で軽く花音の額を突いた。花音は声を立てて笑いながら背もたれに勢いよくもたれた。花音にしては妙にテンションが高い。

 週末で道路はそこそこ混んでいるようだったが、郊外方向はそれほど混むこともなく、スムーズに流れており、予定通りに目的地に着いた。

 入口で地図を受け取り、花音と石田が覗き込む。

「花音ね、ハーブ園と、ふるさとエリアと、大温室は絶対に行きたいんです」

「そうか。じゃあ……大温室行って、ハーブ園行って、ふるさとエリアでお昼……て感じかな。しかし、広いな。迷子になりそうだよ」

 花音が心配そうに石田を覗き込む。

「石田さん、方向音痴?」

「そうでもないとは思ってるけど」

 ふいに声を潜める。

「紗枝さんはかなりひどいな。カーナビ見ててもさっぱり方向がわからないみたい」

 花音が声を出して笑い出し、紗枝は恨めしそうに石田を見た。確かにその通りなのだが、何もこんなところで暴露しなくても……。見ていないようでしっかりチェックしているらしい。

 花音が地図を持って先頭を行き、紗枝と石田がそれに続いた。花音は時々振り返って

「もう、遅い!」

 と、笑いながら駆け寄ってきて、紗枝と石田の手を引っ張る。花音に引っ張られながら紗枝は不思議な感覚に包まれていた。

 これは本当に現実なのだろうか。もしかしたら夢の中にいるのではないだろうか。どうしてこうもふわふわと足元がおぼつかないような気分がするのだろう。

 そう、いつかこうして歩いた事があるような気がする。かつての自分たち家族の姿を重ねてみているのだろうか。いや、そんなセピア色のノスタルジックな思いとは少し違うような気がする。むしろ鮮やかで煌くような色合いの気持ち。自分でも驚くほど明るい優しい煌きで心が満たされているようだ。それは春の日差しに包み込まれているせいなのだろうか。

 紗枝はふと手をかざして日差しを遮った。

「暑い?」

 石田が紗枝を見る。

「ううん。眩しくて」

 そうきっと日差しが眩しくて、目がくらむのだ。


 花音はまるで花から花へと飛び交う蝶のようにあちらこちらへと走っていく。時々携帯で花の写真を撮ったり、花の匂いを嗅いだり、一瞬たりとも止まっていない。

「ほんとに好きなんだなぁ」

 石田が感心する。

「俺、あの歳であんなに好きなものなかったような気がする」

「どんな子供だった?」

 う~んと石田が唸る。

「そうだなぁ。友達と野球しているか、じいさんと一緒に釣掘に行ってるか。あんまり何も考えてなかった」

 あははと笑い出す。

「紗枝さんは、どっちかと言うと花音ちゃんタイプ、でしょ」

「……まあ。でもあの子ほどしっかりはしてなかった」

 自分はぼんやりと毎日過ごしていたに違いない。毎日が平凡で、平凡が当たり前で、毎日が毎日来ることになんの疑問も持たず……。花音のように大人の都合に振り回されて、自分を、母親を、その恋人を正面から見つめるなんて、異世界の事だときっと思っただろう。いや、そんな事が存在するなんて思ってもいなかっただろう。

「俺だって、あんなに健気でしっかりしてなかった。今も負けてるような気がするよ。大の大人が二人して小学生にかなわないというのもどうかと思うけど」

 そう言いながら笑う石田の視線と口調は相変わらず優しい。

 花音が振り返って何事かを叫びながら大きく手を振る。紗枝と石田は同時に手を振り返した。

 ふるさとエリアに辿り着く頃にはさすがの花音も少々お疲れのようで、紗枝の傍で二人の歩調に合わせて歩き出した。

「お腹すいた……。花音、ミイラになってしまいそうです」

「そりゃ大変だ」

 石田が笑いながら指差す。芝生で覆われた、なだらかな日当たりの良い斜面が広がっていた。

「あの辺りでお昼にしようか」

 花音は歓声を上げながら斜面へと駆け出す。

「まるで子犬だよ。おりゃ!」

 石田も花音の後を追いかける。すっかり童心に戻っているのか、それともこの擬似親子体験がすっかり気に入ったのか、なんにせよ石田は随分とこのピクニックを楽しんでいるようだった。

 斜面に大きなピクニックシートを広げ、そこに腰をかける。

「ああ、よく歩いた……」

 靴を脱いで足を伸ばすと、汗ばんだ足の裏がすうすうして気持ちいい。花音は鼻歌でお弁当の歌を歌いながら早速風呂敷を広げている。

「良かった~、一度ここに来てみたかったの」

 花音がお握りを頬張りながら、もごもごと喋る。

「でもね、ママは花とかあんまり興味ないし、虫嫌いだから、こういうピクニックとかってしないの。ママはインドア派だから」

「インドア派ですか」

 思わず笑ってしまう。花音は小学生の割りにはボキャブラリーが豊かだ。時々思ってもいないような単語を口にするのがアンバランスでおかしい。

「あ~、ダンボール持ってきたら良かった」

 いきなり花音が大声をあげた。

「どうするの、ダンボール」

「四角く切って、紐つけて、そりにして滑るの。一年生の時に遠足でこういう斜面を滑ってね、超面白かった」

 石田がお茶を吹き出しかけた。

「君は子供なんだか大人なんだか、よくわからないな」

「子供ですよ。まだまだ若いのに何を失礼なことを」

 花音がぷっと膨れ、それがまた可笑しくて二人とも笑いが止まらなかった。

 大量のお弁当をすっかり平らげ(石田が相当貢献したが)花音はまた活動開始だ。芝生の合間をピョンピョン跳ねるバッタを観察したり、斜面の下にある小川と水車の周りを歩き回っている。時々二人を呼ぶが、大人二人はすっかりお腹が重くなり少しも動こうとしない。

「目の届かないところには行くなよお」

 石田が叫ぶと花音は大きく手を振った。かすかに「はあい」と言う返事が聞こえてくる。

「よく動くなぁ」

「まだまだ若いからってね」

 紗枝は小さく笑う。

 日当たりのいい斜面は周りよりも少し季節が早いようだ。あちらこちらでタンポポが緑の葉を地面に広げ、黄色い花を咲かせている。

「春、ですね……」

 花音と会えるのもあとわずかだ。そう思うと胸の底がかすかに痛む。

「春は別れの季節と言ってしまうと余りにも寂しすぎて……」

 膝を抱えて、ふうっと一つ溜息をつく。

 石田はしばらく黙って紗枝と遠くの花音を交互に見ていたが、ふいにピクニックシートの外側へと手を伸ばした。

 そしてその手を紗枝の前に出した。

「はい」

 黄色いタンポポが紗枝の目の前で揺れている。

「え?」

 紗枝は顔を上げた。

 石田は膝を抱えていた紗枝の手をとり、薬指にくるりとそのタンポポを巻く。

「誕生日プレゼントに指輪買おうかと思ったんだけど、よく考えたらサイズ知らなかった」

 石田は照れくさそうに頭をかく。

「凝った演出が苦手でね、まあ、そういう事です。どう……かな」

 赤くなりながらも石田はまっすぐに紗枝を見ている。紗枝は石田の顔と薬指のタンポポを交互に見比べた。

「……私でいいんですか?」

 紗枝は小さい声で訊ねる。

「歳上だし、マイナス思考だし、しっかりしてないし……。石田さんを支えていけるかどうかわからないけど」

 余計な事を聞かない方がいい。そんな事はわかっているけど、聞かずにはいられない。そういう性格なのだから仕方ない。

「支えるとか、支えられるとか、そんなんじゃなくて……。一緒に歩いて行けばいいんじゃないかと……。ゆっくり。紗枝さんのペースと俺のペースは、かなり近いかなと……」

 石田はそういうともう一度紗枝を覗き込む。

 紗枝は右手の指でタンポポの花びらをなぞった。柔らかい黄色い花びら。陽だまりのような柔らかい色。陽だまりの中を一緒に歩いている人がいるというのはきっと何よりも幸せな事なのだろう。

 紗枝は石田を見た。西郷隆盛みたいな眉の下の瞳はいつも柔らかく優しい。そういうところがいいと思う。

 紗枝は頷いた。

「……よろしくお願いします」

 石田は一瞬目を瞬かせたが、ふうううっと長い息を吐き、ピクニックシートの上に仰向けに転がった。笑いながら叫ぶ。

「ああ、緊張したあ! 照れくさっ!」

 そして勢いよく起き上がると、斜面を走り下りていく。急に石田が走ってくるのを見た花音が慌てて走り出す。いつのまにやらおいかけっこになった。

「これで、いいんだよね……」

 紗枝は呟いた。そしてタンポポの指輪をもう一度眺める。この指輪は帰ったら押し花にしよう。ずっとずっと残るように……。

 

 三月の後半になり、花音が引っ越す日が来た。花音はいつものように庭に立つ。花音の旅立ちを知ってか知らずか、猫がコンクリートの上でごろごろしながら花音を見上げていた。

「お猫様、お元気で。また遊びに来ますね」

 花音は竹輪を猫の鼻先に置く。

「お猫さま。いつもは一袋九十八円だけど、今日は一本百円の高級品でございます」

 猫はふがふが言いながら一心不乱に竹輪を齧り始めた。

 紗枝はその姿をいつものように縁側で眺める。その隣には石田の姿もあった。

 花音は庭の隅々まで見渡しながら咲いている花や草にも挨拶をしていたが、ふいに振り返った。

「紗枝さん、一つおねだりしてもいいですか?」

「なあに」

「去年、ここで咲いてたヒマワリの種、少し分けてください。あっちの庭に植えたいの」

「いいわよ」

 紗枝は立ち上がると、縁側の端っこに置いてある小引き出しの中から小さなビニール袋を出した。

「結構たくさんある。どれくらい持っていく? 半分くらい?」

「そんなにたくさんじゃなくてもいいです。……このくらいで」

 花音は十粒ほど種を袋から出した。

「後はここで植えてください」

「全部植えたら庭がヒマワリ畑になっちゃうかも」

「じゃあ、石田さんのビールのつまみにでも」

 花音が笑いながらそう言うと石田は、

「俺はリスか」

 と笑いながら返してきた。

「そんなごっついリスはいません~」

 花音はケラケラ笑い出した。石田と花音はすっかり仲良しになっていた。

 猫と遊び、お茶を飲み、花音は腰を上げた。

「さあ、そろそろ行きます」

 花音はぴょこんと頭を下げる。

「また、遊びに来ます」

「うん」

「紗枝さん、住所変わったら教えてくださいね」

「うん」

 花音は表へと向かう。二人はいつものように走って帰る花音の後姿を見つめていた。

 紗枝はふと気がついた。そう言えば一言もさよならと言わなかった。

「そうだよね……」

 花音の姿が見えなくなる。紗枝は空を仰いだ。少し霞がかったような青い空は春の光で満ち溢れている。新しい季節が生まれることを祝福するように、鳥達が歌っている。

そう、別れではない。これは始まり。それぞれの道をそれぞれが歩みだす、始まりのセレモニーだから……。


続く

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