第1話 深く潜らない冒険者
グラード大迷宮の入口を抜けると、湿った空気が頬にまとわりついた。
壁の魔石灯が、広間の中央にある転移魔法陣を淡く照らしている。
朝から冒険者の姿は多かったが、レオンは誰とも言葉を交わさず、広間を進んだ。
ダンジョンでの主な収入源は、魔物から回収する魔石だ。
大きさや質で値段は変わるが、需要は安定している。
そこへ価値の高い部位や採取素材を上乗せするのが、レオンの普段の稼ぎ方だった。
今日は青キノコ、アシッドウルフの酸袋、赤苔を狙っている。
いずれも、最近の相場が悪くない。
余計な戦闘を避けながら、必要な分だけ持ち帰れば十分だった。
「行くか」
転移陣へ進み、冒険者証をかざす。
登録済みの最深部は第七層だが、第六層にも狙いの素材がある。
第一層から歩く必要はない。
レオンは第六層を選んだ。
足元から光が立ち上り、視界が白く染まる。
景色が戻ると、そこは第六層の転移陣だった。
石廊下へ出たところで、複数の足音が聞こえてきた。
曲がり角の向こうに、ゴブリンが四体ほどいるらしい。
正面を抜ければ近いが、戦闘は避けられない。
右の細い通路なら遠回りでも、昨日確認した限りでは大きな魔物はいなかった。
二つの道を見比べると、レオンの意識に文字と数字が浮かんだ。
【正面ルート】
【コスパ指数:91】
【右側迂回路】
【コスパ指数:153】
ユニークスキル【コスパ】。
レオンが把握している情報をもとに、利益や損失、手間や危険を比較する能力だ。
基準の百は、レオンにとって標準的な行動効率を示す。
基準はスキル発現時に決まり、その後は一年ごとに更新される。
レオンは古い資料を調べて、その仕組みを知った。
少し前に一度目の更新を迎えたばかりだ。
高ければ割がよく、低ければ他の行動を選ぶ方がいい。
「右だな」
迷わず迂回路を選ぶ。
ゴブリンを倒せば魔石が四個手に入るが、戦う時間や装備の消耗に見合わない。
途中で見つけた白い苔も、採取や運搬の手間を考えて見送った。
安い素材まで何でも拾えば、かえって稼ぎは悪くなる。
薄暗い通路には地下水が流れ、石床の高い場所を選ばなければ靴が濡れる。
足元にも気を配りながら先へ進むと、獣臭が強くなってきた。
小さな空洞には青キノコが何本も生え、その周囲に灰色のファングラットが六匹集まっている。
犬ほどの大きさで、異様に長い前歯を持つ魔物だ。
まとめて倒すこともできるが、キノコだけ採る方法もある。
レオンは二つの選択肢を比較した。
【ファングラット六匹を討伐してから青キノコを採取】
【コスパ指数:126】
【ファングラットを誘導して青キノコを採取】
【コスパ指数:178】
「こっちだな」
レオンは剣ではなく、小袋の干し魚を取り出した。
空洞の脇には、行き止まりになった横穴がある。
そこへ干し魚を投げ込み、さらに小石を放った。
硬い音が響くと、ファングラットたちの耳が一斉に動いた。
一匹が横穴へ走り、残りの五匹もそれを追う。
間もなく、六匹とも空洞から姿を消した。
その隙に空洞へ入り、傷みの少ない青キノコを選ぶ。
一本、二本、三本。
近くにはまだ生えていたが、欲張って魔物に戻られては面倒だ。
三本をカバンへ収め、すぐにその場を離れた。
第六層の奥で、金属がぶつかる音と男の叫び声が聞こえた。
レオンは足を止め、曲がり角の方へ耳を澄ませた。
どうやら誰かが戦っているらしい。
「くそっ、硬すぎる!」
「そっち行ったぞ!」
曲がり角の先では、剣士と槍使いがアイアンビートルに押されていた。
大人の胸ほどもある甲虫型の魔物で、黒い甲殻が剣も槍も弾いている。
狭い通路では後退するにも限度があり、二人はじりじりと押されていた。
魔石も甲殻も売れるが、わざわざ戦いたい相手ではない。
レオンは通路脇の古い石柱に目を留めた。
二人を助けるために、自分まで正面から戦う必要はなさそうだった。
「柱の方へ寄せろ」
「は?」
「横から回れ。そっちへ向けるんだ」
石柱の根元には大きな亀裂があり、崩れた石材が支えになっていた。
レオンがその脇へ移動すると、剣士が魔物の注意を引き、槍使いが反対側から牽制する。
正面から甲殻を叩くだけでは埒が明かない。
だが、巨体の向きを変えさせるだけなら難しくはなかった。
アイアンビートルを石柱へ誘導したところで、魔物が頭を低くした。
突進の前触れだった。
レオンは二人へ短く声をかける。
「退け」
二人が左右へ飛び、突進したアイアンビートルが石柱に激突した。
根元の亀裂が広がり、鈍い音が響く。
レオンは柱を支える石材を蹴り外した。
傾いた石柱が魔物の背に倒れ、六本の脚が床を掻いた。
「今だ」
剣士が甲殻の隙間を斬り、槍使いが腹側を突く。
しばらく暴れたアイアンビートルは、やがて動かなくなった。
レオンは自分の剣を一度も抜いていない。
危険な魔物と正面から戦わずに済み、通路も空いた。
「助かった。あんた、レオンだろ?」
「ああ」
「甲殻、少し持っていけよ」
「いらない。重いからな」
「じゃあ、魔石はどうだ?」
「それなら受け取る」
剣士から魔石を受け取り、小袋へ入れる。
甲殻と違って軽く、換金も簡単だ。
二人が礼を言うのを背に、レオンは第七層へ向かった。
階段を下りた先の第七層は、さらに湿り気が強かった。
壁には緑黒い染みが増え、石床には獣の足跡が残っていた。
レオンはしゃがんで跡を確かめる。
三頭のアシッドウルフが近くにいるらしい。
岩陰から覗くと、ちょうど三頭が固まって歩いていた。
アシッドウルフは口内で作った酸液を吐く。
装備を傷め、皮膚に付着したままだと大きな傷痕を残すこともある。
三頭まとめて相手にすれば、勝てても負傷や装備の消耗が増える。
「待つか」
魔石も酸袋も欲しいが、まとめて狩る必要はない。
しばらく待つと、一頭が壁際の臭いを追って群れから離れた。
残りの二頭はそのまま歩き続けている。
今なら相手をするのは一頭だけで済む。
十分な距離が開いたところで回り込み、振り向いた相手へ踏み込む。
薄緑色の液が牙の間から滲んだ。
レオンは酸液を吐かれる前に、首筋へ剣を通した。
周囲を確かめ、小刀で胸部を開いて魔石を取り出す。
続けて腹側へ刃を入れ、酸液を作る袋を傷つけないよう切り取った。
親指より一回り大きい魔石が一個と、売り物になる酸袋が一個。
毛皮も売れるが、酸液で傷んだ部分があり、剥ぐ手間に見合わない。
残りの二頭は追わず、別の水場で単独行動していた一頭を仕留めた。
これで酸袋は二個、魔石はアイアンビートルの分と合わせて三個になった。
「十分だ」
その先の脇道で、小さな金属製の宝箱を見つけた。
表面には錆が浮き、箱の前だけ埃が薄い。
誰かが最近近づいたのかもしれないし、罠があるのかもしれない。
レオンは三歩手前で立ち止まった。
箱の大きさや状態、この階層の宝箱の相場なら分かる。
だが中身や罠の有無までは分からない。
【コスパ】が知らないものを見通してくれるわけではなかった。
それでも、把握している情報から予想できる範囲はある。
レオンは宝箱へ意識を向けた。
【宝箱を開ける】
【予想コスパ指数:38~326】
「幅が広すぎるな」
安物なら開ける手間が無駄になり、希少品なら大きな利益になる。
未知の部分が多すぎて、数字は絞り込めない。
レオンは宝箱へ触れずに通り過ぎた。
残る狙いは赤苔だけだ。
第七層西側の湿地には、赤苔がまとまって生えていた。
だがその手前を、泥を投げつける厄介なマッドゴブリンが三体うろついている。
魔石の値段も高くない相手だ。
レオンは乾燥肉を一枚取り出した。
指先を濡らして風向きを確かめる。
回り込んで風上に出ると、赤苔から離れた通路の奥へ肉を投げた。
肉の臭いがマッドゴブリンたちに届く位置だった。
臭いが流れ、ゴブリンたちは次々に顔を上げた。
三体とも肉の落ちた方へ向かっていく。
その間に赤苔を必要な分だけ剥がし、袋へ詰めた。
まだ残っているが、これ以上採る理由はない。
マッドゴブリンが肉を食べ終えれば、こちらへ戻ってくるかもしれない。
必要な量を確保したところで、湿地を離れた。
カバンの中身を確かめる。
魔石三個、青キノコ三本、酸袋二個、赤苔一袋。
自分で倒した魔物は二頭だけだ。
それでも収入は確保でき、負傷も回復薬の使用もない。
剣もほとんど傷んでいなかった。
魔物を何体も倒した日より、手元に残る利益が多いこともある。
今日はその典型だった。
まだ時間はあるが、追加の獲物を探す必要はなさそうだ。
今日の目標はすべて達成している。
無理に稼ぎを増やす理由もなかった。
「十分だ」
ただし、帰る前に寄る場所が一つある。
第七層の最奥にある、巨大な石扉の前だ。
牛の頭を模した紋章が刻まれた扉の先には、階層主アーマーブルがいる。
これを倒せば、第八層へ進める。
先の階層の転移陣を登録すれば、次回からは第八層へ直接来られる。
それも攻略によって得られる利益の一つだった。
だが、そのためにはアーマーブルを倒さなければならない。
以前、一度だけ扉を開けて姿と突進の威力を確認したことがある。
巨大な牛型の魔物で、頭から肩を金属のように硬い外皮が覆っていた。
準備を整えれば、一人でも勝てる可能性は十分にある。
ただ、勝てることと割に合うことは別だ。
「勝てないわけじゃない」
回復薬を増やし、盾を新調して、予備の武器も用意する。
必要なら戦闘後に一日休むつもりで挑めばいい。
そうすれば勝率は上がるだろう。
だが、それに見合う成果が得られるかは別の問題だった。
突進や外皮の硬さは見ているし、ギルドでも情報を集めている。
だが、負傷後に動きが変わるのか、未知の攻撃があるのかは分からない。
その先の第八層にどれほどの価値があるかも、まだ不明だ。
レオンは石扉に手を置いた。
【第八層・階層主を攻略】
【予想コスパ指数:50~70】
「……低いな」
中心はおよそ六十で、上振れしても百には届かない。
情報が足りないため予想の幅は残っているが、今のまま挑む理由は薄い。
討伐すれば大きな魔石や高価な素材が手に入り、第八層の転移陣も登録できる。
それでも、今ある情報では普段の探索を続ける方が効率はよかった。
レオンは扉から手を離し、転移陣へ引き返した。
地上へ戻ると、空は赤くなり始めていた。
冒険者ギルドの査定所には、帰還した冒険者たちが列を作っている。
レオンも順番を待ち、魔石三個と採取素材を並べた。
職員が一つずつ確認し、その日の相場で金額を出す。
今日の稼ぎはおおむね見込みどおりだった。
隣では四人組が、第九層で得た大量の戦利品を広げている。
「あいつ、また七層までか?」
「その割には、今日も稼いでるぞ」
「何かコツでもあるんだろうな」
レオンは会話に加わらず、代金を受け取った。
四人組の総売上は、自分の三倍近い。
大型魔物の魔石や角を並べた査定台は、レオンのものよりずっと賑やかだった。
だが四人で分ければ一人分は下回り、回復薬や装備の修理代もかかる。
こちらが消費したのは、魔物を誘導するための干し魚と乾燥肉くらいだ。
防具に目立つ傷はなく、剣も軽く手入れするだけで済む。
明日も同じように潜れることまで考えれば、十分な結果だった。
「悪くない」
硬貨をしまい、ギルドを出る。
明日も同じように潜れるし、第八層へ進めないわけでもない。
アーマーブルだって、倒せない相手ではない。
ただ、今の予想は五十から七十。
その中心は、わずか六十だった。




