第1話 『サマータイムラブ』
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その重低音に、心を掴まれた。
初めて聴く路上ライブ。腹に響く低音はどの楽器の音よりもかっこよく聞こえた。
「あのビョンビョンって低い音、なんていう楽器なの!?」
路上ライブが終わった後、ここに連れてきてくれた親戚の針ちゃんに興奮気味に聞く。
「ビョンビョン……? ああ……ベースだよ。私も昔弾いてたんだ。良かったら教えてやろうか? こより」
「うん!」
それが始まり。私という人間が形作られた瞬間だった。
◇2017/7/21
ベースと出会ってから一年。
「五-二」の札が指す教室の中。
「夏休みの宿題を忘れないように。そして、怪我なく健康に過ごすように。それじゃあ、二学期に元気よく会いましょう」
教卓に立つ先生が帰りの会を終えると同時、私は荷物を詰め込んだランドセルを背負い、すぐに教室を出る。
「あ、お~い!」
教室から誰かが呼ぶ声が聞こえたけど、構わず走る。下駄箱にはまだ誰もいない。一番乗りだった。
真夏の日差しを受けながら走る。誰より早く。汗が滲むのなんて気にならなかった。全てはベースを弾くために。
家に着き、玄関に靴を放り出す。階段を駆け上がり、部屋に入る。そして、ベースを持つ。
夏休みが始まる。これから毎日ベースを弾ける。わくわくが止まらなかった。
しばらくベースを弾いていると、家の外から賑やかな声が聞こえてきた。気になって見てみると、同じ小学校の子たちが仲良く話しながら下校していた。
あの子たちは夏休みもああやって仲良く遊びながら過ごすんだろうな。そんなことを考えながら、ベースを弾く。
その子たちが通り過ぎ、あとは真夏のセミの甲高い声だけになった。
でも、ベースの音色はそれとは交わらず、うんと声を張り上げていた。
◇
夏休みが始まってから数日が過ぎた。宿題には一切手を付けていない。つける気すらない。ベースを弾いていたら、時間なんてあっという間に過ぎるから仕方ない。
お母さんは最初、宿題をやれとうるさかったけど、諦めたのか最近は何も言ってこなくなった。
しめしめと口に手を当てる。私に勉強なんて必要ない。ベースがあればそれでいいのだ。
そうしていつも通り部屋でベースを弾く。今日はお母さんとお父さんも、妹のひよりもいない。だからヘッドホンをせずにアンプから音を出していた。
周りの迷惑も考えないで演奏できるなんて普段はできない。少しでもこの時間で多く弾きたいから、いつもより熱が入る。
「ごめんください!」
そのとき、外から大きな声が聞こえた。びっくりしてベースを弾く手が止まる。
女の子の声だった。チャイムも押さずになんの用だろう? そう思いながら無視を決め込む。いつもお母さんかお父さんが対応してくれるけど……そういえば今日はいなかったんだった。
よし、居留守しよう。知らない人と話すなんて苦手だし、恥ずかしいし。
そのまま構わずアンプの音を絞って、ベースを弾く。でも、女の子の声はいつまでも聞こえる。早く諦めればいいのに何度も「ごめんくださ~い!」と言っている。それにどんどん声が大きくなっている。流石に迷惑だった。
はあ仕方ない。私は一階に降りて、インターホン越しに対応する。
そこには私と同じくらいの歳の、黒髪ロングのデコ出しの女の子が立っていた。とても可愛い子だった。うちの学校では見たことが無く、学校で可愛いと言われる子たちよりもずっと可愛い。
そして、私とは相容れない存在だと思った。すごく元気な子だから。というか、何度も大声で家を尋ねる度胸を私は理解できない。
しばらく考えたあと、声をかける。
「あの……なんでしょうか?」
来客対応なんてしたことないから、どう答えればいいのかわからない。なんとかそれっぽい言葉を振り絞る。
女の子はインターホンから声が出てくるのに驚いていた。
インターホンを知らない? まるでタイムスリップしたかのような反応に疑問を持ってしまう。
「ねえ! 外からすっごく変な音が聞こえてて!」
もしかしてクレーム? そう思い、冷や汗が伝う。どうしよう……ぶつ切りしようかな。
通話終了のボタンに手をかけながら、後ずさる。
「もしかして楽器弾いているの!? なんていう楽器?」
でもその瞬間、手が止まる。
「えっと、ベースっていうんだけど……。良かったら見る?」
「うん!」
私はその子を部屋まで招いて、ベースを見せた。その子は「お~!」と声が上げながらまじまじとベースを見つめる。
普段ならこんな大胆なことできない。でも、なぜかこのときだけは恥ずかしさは微塵もやって来なかった。
座布団を二つ、床に敷いて対面するように座る。アンプのボリュームのつまみを回して、絞っていた音量を上げる。そして、ベースを弾いて見せる。ちょうど耳コピしていた曲のサビを。
その子は、家族を除いた初めての観客だった。
(じゃあ、精一杯やりたいな)
短いベース歴だけど、それまでの全部を注ぎ込むように一生懸命弾いた。緊張と経験不足に、たくさんミスったけど、なんとか通しで弾けた。サビだけ弾こうと思っていたけど、つい最後まで弾いてしまった。
その子のほうに視線を向けると、口をぽかんと開けながら、微動だにせず座り込んでいた。
(え、ど……どういう反応なの、これ……)
急に顔がかっと熱くなる。きっとこの子はベースに興味を持ってくれたんだと思っていたけれど、実はそんなことなかったんじゃ? と今更思う。
言い訳をしようと口を開けた瞬間、その子は目をキラキラと輝かせながら、ぎゅっと両手を握って来た。
「すっげー!!!」
「う……」
とんでもない声量を間近で聞かされて、鼓膜がイカれそうになる。
「そのベースっていうの!? めっちゃお腹に響いてさ! 思わず体が動いちゃいそうでさ!」
その子はお腹に手を当てながら、嬉しそうに話し出す。
「それに――あなた! すっごいかっこよかった! その楽器のこと、本当に好きなんだってよくわかった!」
膝と膝が付くくらい、ぐいぐいとその子が近づいてくる。後ろに仰け反って避けようとしてもお構い無しだった。
「ねぇねぇねえ! 名前、なんて言うの?」
「……黒木 こよりです……」
「こよりちゃんね! よろしくね!」
握られた両手を上下にぶんぶんと振られる。
「私の名前は、あめのうずめ! よろしくね!」
「あめの……うずめ、さん……?」
「漢字で書くとこう!」
と、適当な紙に名前を書いてくれた。けど、難しい漢字ばかりで“あめの うずめ”と読めなかった。
「好きなように呼んでいいよ! ほら!」
「……えっとじゃあ……、うずめさん」
すごい変わった名前だなぁと思ったけど、多分“あめの”が名字で、“うずめ”が名前なんだろう。少し勇気を出して名前のほうで呼んでみた。恥ずかしいけど。
「うずめ……かあ。いいね! でもさん付けじゃなくていいよ!」
「う、うずめ」
「うん!」
学校では誰かの名前を呼ぶことなんて無い。いつも「あの……」とか言って呼びかけているから、名前呼びをすっ飛ばして呼び捨てするなんて緊張する。
でも、嬉しそうに頷くうずめさ――うずめを見ていると、何でも受け入れてくれそうで、すぐに慣れてしまえそうだった。
「こより! 私もベース弾いてみたいんだぁ。いいかなぁ?」
うずめはよだれを垂らしながら、私のベースを見つめる。
「いいけど……あっ、ちょっと待って」
そういえばと思い出し、部屋のクローゼットからギターを引っ張り出す。
「おお、二つ持ってるんだ?」
「ううん、これはギター。ベースと違って高音域の音を出せるんだ。もう使わないからって最近もらったんだけど、私もベースしか弾かないから全く使ってなかったんだ」
軽く手入れして、うずめにギターを渡す。
「あ、やっぱりベースのほうがいい?」
「いいよいいよ! むしろこっちがいい! こよりが低音で、私が高音をやれば、一緒に演奏できるってことだよね!」
うずめは声を弾ませながらそう言ってくれた。
確かにそうだ。この組み合わせなら一緒に演奏できる。根が陰キャだから、一緒に弾くっていう発想が無かった。
「こより! これから毎日演奏しようね!」
うずめが明るい笑顔を向けてくれる。
こういう子と関わることなんて無いと思ってた。こういう子はどちらかと言えば、苦手なほう。でも短い時間だけど、うずめとなら友達になれそうだと感じた。
それからうずめは毎日家に来て、ギターを練習しに来た。もちろん思うように演奏できず、苦戦していた。けど、上手くいかないことも含めて楽しんでいた。ギターの全てに無我夢中で、虜になっていた。私もベースを始めたときはあんな感じだったのかなあと思い、しみじみとした。
私も早くうずめと一緒に演奏したいなあ、と思っていたから、できるだけアドバイスをしてあげた。
それから数週間が過ぎた。
毎日練習したおかげか、うずめは基本的なコードを淀みなく弾けるようになった。これで色んな曲を一緒に演奏できる。
そして、この数週間でうずめは歌が上手だということもわかった。ギターボーカルもできるんじゃないの? と思ってお願いしてみると想像以上だった。良いギタボになると思った。
それからはギタボもお願いして色んな曲をコピーした。一緒に演奏するのは初めてで、史上最高に楽しかった。この夏休みがずっと続けばいいのにと思うほど。
一緒に曲を弾いたり、ゲームしたり、歌ったり、ギターとベースを交換して弾いてみたり、色んなことをした。
その日は、一緒にお風呂に入った。風呂上がり、素っ裸のうずめが突然、両手で二つのティッシュ箱を持って、その間に一つのティッシュ箱を挟み込んだ。まるでジャグリングのようにして、大事なところを隠す芸を堂々とやろうとした。
「見ててよ~」
うずめは中腰の姿勢でティッシュ箱を三つに連ねて、集中している。
私はごくりと唾を飲み、行く末を見守る。でも失敗。真ん中のティッシュ箱は床に転がり、うずめのが丸見えになる。
「「ぎゃははははははははははは!」」
「あんたらうるさい!」
騒がしくし過ぎたのか、お母さんに怒られてしまった。うずめはもっと慎みを持ちなさいと言われ、ついで私も説教された。なんで私も……。
◇
それから何日経ったのか。
今日もうずめと一緒に演奏していた。うずめとの演奏が楽しすぎて、いつもあっという間に時間が過ぎる。
うずめは最初よりもギターが格段に上手くなっていた。初心者を脱却して、今は中級者くらいだろうか。これでもっと難しい曲も一緒にできる。そう思いながら、曲を選んでいた。
「……」
ふと、夏休みが始まってからずっと放置していたランドセルに目が行く。そこにはやりたくないと蓋をしていた宿題たちが眠っている。一切手を付けていない。お母さんにはちょっとずつ進めてるよと誤魔化し続けてきたけど、そろそろまずい。
「流石にやりますか……」
今日はうずめとの演奏は無しにして、一緒に宿題をやろう。うずめがどこの小学校に通ってるのか知らないけど、向こうも毎日家に来てギターを弾いてるからほとんど進んでないはず。
覚悟を決めて立ち上がり、ランドセルに近づく。
「こより?」
そのとき、後ろからうずめに声をかけられた。
「どうしたの? もっと一緒に弾こうよ」
「あ~ごめん、今日は宿題やろうと思ってて。そろそろやらないと先生に怒られちゃうし……」
私はそう言いながら、ランドセルを開けようとする。でも、横からうずめに手を掴まれた。
「大丈夫だよ、ほら見て。夏休みは二十七日に終わるんでしょ? 今日はまだ八月一日だよ」
うずめがテレビを付けると、右上には確かに八月一日と書いてあった。
(まだ八月一日?)
体感では一ヶ月経過していると思っていたけど……勘違いだったのかな? 不思議に思って、一階にいるお父さんにも聞いてみる。
「そうだよ? まだ八月一日だけど」
お父さんもそう言った。
「まだまだいっぱい一緒に遊べるね!」
うずめは笑ってそう言った。
そうか、夏休みはまだ全然残ってるのか。楽しい時間はあっという間って言うし、もしかしてうずめとの生活が楽しすぎて時間感覚がバグってしまったんだろう。
「そうだね!」
うずめの言葉に頷いて、一緒に部屋に戻る。
ラッキーだな。もう夏休みが終わると思って焦ってたけど、全然大丈夫だった。それなら今は宿題よりうずめとの演奏が優先だ。
楽しい夏休みはまだまだイントロだ。
◇
あれからどれくらい経った?
流石におかしい。体感では三ヶ月以上経っているのに、夏休みが終わらない。最初は私がおかしいのかと思った。
けど、テレビやパソコンに映る日付が文字化けしていたり、カレンダーの八月二十七日以降が白紙になっていたり、ネットニュースも夏休みが始まった七月二十一日の午前から更新されていなかったり――どう考えても周りがおかしくなっている。
私は気になっていたランドセルをそっと開ける。空っぽだった。宿題も、筆箱も、洗濯に出し忘れていた体操服も。ひっくり返しても出てこない。
ばっと、私は閉じたままにしていたカーテンを開けて、窓の外を見る。目を覚ましたばかりなのに、外は夜のように暗く、しんと静まり返っている。窓を開けようとするけど、鍵が開かない。窓を割るわけにもいかないから、仕方なく玄関に向かう。
この夏休みの間、私は一度も外に出てない。直感的に、この終わらない夏休みを解く鍵が家の外にあるんだと感じた。外に出れば、全部わかるはずだと。
私は玄関のドアに手をかける。
「駄目だよ」
後ろから、うずめの声がした。
「外は危ないよ」
「……大丈夫だよ。もう五年生なんだし」
そう、私がこうして夏休みの終わりを意識していると、いつもうずめが現れる。まるでこの夏休みから逃げ出さないよう監視するみたいに。
いつもはうずめの言う通りにしていた。でも今日の私は違う。振り返らず、そのまま扉を開く――
「やめなさい!」
そのとき、お母さんに手を掴まれた。なぜか手が震えていた。
「こより、やめるんだ」
「お姉ちゃん、今日はお家で遊ぼう……?」
いつの間に玄関まで来ていたんだろう、お父さんと妹のひよりにも止められる。
「…………!」
このままみんなの言う通りにしていたら、多分何もできない。私は無理やり手を振り解いて、扉を開ける。
「お姉ちゃん――!」
そのとき、ひよりが腰にしがみついてきた。泣いていた。
「いやぁ…! だめ! 絶対だめ! 外に行っちゃ、だめ!!!」
しゃくりあげながら、ひよりは大粒の涙を流していた。
「な、なんで? なんで私が悪者みたいなの!? いっつもお母さんもお父さんも外に出なさいって言うくせに、急になんで!?」
ひよりのこんな表情を見せられたら、自分のほうが間違ってるんじゃいないかと思ってしまう。私はひよりの頭を撫でながら、お母さんとお父さんに純粋な疑問をぶつける。
ウーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
突然、外から地響きのようなサイレンが鳴る。あまりの大きさに思わず耳を塞ぐ。
「なに……これ?」
近くで何かあったのか、パトカーや救急車の音がいつまでも鳴り響く。
「ほら外は危ないから」
と、うずめに手を引かれる。いつの間にか玄関から離れさせられていた。
当然、こんなの納得できない。でもこれ以上問い詰める気力も無くて、仕方なく部屋に戻ることにした。
◇
それからどれだけ時間が経ったのか、もう判然としない。悠久とも思える時間の中で、私はうずめと演奏し続けた。
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も
最近は体とベースが一心同体になったみたいに、どう弾けばどんな音が出るのか大体分かるようになってきた。それはうずめも同じだった。もうプロと遜色ないほど上達していた。
「もったいないよ、このままじゃ」
「…………」
うずめとの演奏を中断し、立ち上がる。うずめはどこか気まずそうに俯いていた。
一歩も外に出ず、私たちの演奏は誰にも見られないで終わる。そんなの納得できない。どれだけ説得されてもこの気持ちだけは抑えられなかった。
「最初はさ、ベースが弾けるならそれで良かったんだ。好きな曲をコピーするだけで満足で、人生これでいいってくらい夢中だった。でも、うずめと出会ったおかげで一緒に演奏できる楽しさを知ったの」
「それなら…私とずっと演奏してようよ。私はずっとここにいるから」
「私もこの夏休みが永遠に続けばいいと思ったよ。でも、もっと先に進みたくなったんだ」
見下ろすうずめは額に汗をかいていた。どうして私を説得するのにそこまで焦るのか、長い付き合いだけどそれだけは言ってくれなかった。
「私が最初にベースに興味を持ったのは路上ライブだったんだ。歩く人が足を止めて聴いてて、すごい楽しそうだった。今みたいに二人だけで演奏するのも良いけど、私もあんなふうに色んな人の前で演奏したい」
「………」
「私、根暗で人見知りなのにさ。こんなこと思えるようになれたのは、うずめのおかげなんだよ。うずめとだから一緒に演奏できるし、楽しめるんだよ」
意を決して、私は視線を落としたままのうずめの手を掴んで引き寄せる。
「一緒に路上ライブしようよ」
「え?」
目を見開くうずめに笑いかける。そして、うずめを連れて階段を降り、玄関まで向かう。私の意図を察すると、うずめは手を振り解こうとする。でも絶対に離さない。
「一緒に行こうよ。うずめが何に怖がってるのかわからないけどさ、路上ライブは絶対楽しいよ。今よりもっと!」
「……だめだよ、こより。これ以上は……戻れなくなる……」
「?」
玄関まで着き、うずめのほうを振り返る。うずめの手は汗でいっぱいだった。呼吸は浅く、震えていた。
「――こより、もうやめなさい」
静かに、けれどはっきりと芯のある声が通る。まるで聞き分けのない子どもを諭すようにお父さんが近づいて来た。
「外は危ないんだ、こより。冗談はそれくらいにして、もう戻っておいで」
お父さんは廊下でしゃがみ、こっちを招くように両手を広げる。その後ろには不安そうに私を見つめるお母さんとひよりもいる。
「無理」
「どうして?」
「普通そうじゃん! 外に出ないと前に進めないよ。お父さんは私がそうなっても良いって言うの!?」
「そうは言わないよ。でも今は危ないんだ。だから安全になるまでここにいよう」
「じゃあそれはなに!? 何が外にあるの!? 何が危ないの!?」
「それは言えない」
「そう……!」
「こより!」
制止する声を振り切り、うずめを連れてドアまで近づく。うずめは踏ん張ろうとするけど、強引に引き摺る。ドアのハンドルを掴み、押し開く。そこにはいつも通りの景色が待っているはずだった。
「なに……これ……」
呆然と、外へ一歩踏み出す。
窓から見たときは、ただ辺りが暗いだけだと思っていた。けど違った。外は墨汁で塗りつぶしたように真っ黒だった。家から出てすぐ見える向かいの家も全く見えない。物の輪郭すら無い。
異様な光景に思わず、後ろを振り返る。でも、さっきまで居たはずのお母さんやお父さん、ひよりの姿はそこになかった。唯一、うずめだけが立ち尽くしていた。
「うずめ、なんでこっちに来れないの?」
「……」
言いたくないと伝えるように、うずめは自分の腕を掴んで私から視線を逸らした。
外に出る瞬間、うずめの体はまるで磁石同士が反発するように弾かれ、家の中に取り残された。
「うずめ、こっちに来なよ」
「………………うん」
そう言うけれど、うずめは歩を進めてくれない。仕方ないと思い、私のほうから迎えに行く。でも手を伸ばしてもうずめに触れられない。まるで玄関に透明な壁があるみたいに、どれだけ力を込めてもびくともしない。
「ねえ、うずめのほうから来てよ。なんかっ……近づけないんだよ!」
「……うん」
また、うずめは返事だけだった
「もう一回言うけどさ! 公園で路上ライブやろうよ! 最初は誰も聴いてくれないかもだけど、いつか大勢の人の前でやれるようにさ!」
「……うん」
「……っ! 一緒にバンド組もう! 絶対楽しいから。うずめ以外、私無理だよ」
これからやりたいことを思いつくまま話す。これまで一緒に演奏してきたうずめとならきっと楽しいはずで、うずめも同じ気持ちのはずなのに、やっぱり来てくれない。
「――うずめ!!」
ごんと、私とうずめを阻む透明な壁に頭突きする。その音にうずめの肩がびくり跳ねる。あまりの強さに額から血が滲む。
「なんでこっちに来てくれないの? どうして目を合わせてくれないの!? うずめは私と一緒にバンド組むの嫌? これまでずっと嫌々で付き合ってくれたの?」
「違う!! 私も楽しかったよ! 私だってこよりと一緒に外に出たいよ!」
うずめは瞳に涙を溜めながら、透明な壁に手を付く。そのときやっと、うずめの本心が聞けた気がした。
「じゃあ、なんで……?」
落ち着いて、うずめに問う。
「私はその先に、行けないから……」
ウウーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
またあのサイレンが鳴り響く。前よりずっと音が大きく、不快感に耳を塞いだ。
「……ぃ――はこ…………け――――だよ」
「なに……!?」
うずめがなにか言っているけど、サイレンのせいで聞き取れない。私はもっとうずめに近寄ろうとする。けど、なぜか反対にうずめから遠ざかる。足元を見ると後ろに吸い込まれるように地面が動いていた。私はそれに負けじと走るけど、むしろどんどん距離が開く。
「こよりは強いね」
「?」
ぱっとサイレンが鳴り止む。無音の世界でうずめの声がクリアに聞こえた。そして、その言葉の意味を理解できなかった。
「ありがとう。この夏休み、私もすんごい楽しかった。でも、私はそっちに行けないんだ」
さらにうずめの姿が遠くなる。無理とわかっていても、うずめのほうへ手を伸ばす。うずめも手を伸ばそうとしてくれたけど、まるで諦めるように胸にしまい込んだ。
「諦めないでよ!」
そのとき、足が絡まって転んでしまう。顎と地面が激突し、あまりの痛みに蹲る。だけど、遠ざかるうずめに伝えなければならないことがある。
「うずめだって本当は一緒にライブやりたいんでしょ! なら諦めないでよ! 私も諦めないから! うずめが私と一緒に居られる方法を考えようよ! うずめ一人じゃ思いつけなくても私も一緒に考えるから!」
だらりと顎から血を滴らせながら、うずめのほうに歩く。うずめの姿はほとんど点のようになっていた。それでも走った。うずめのことを諦めたくない。この短い人生で唯一出来た、かけがえのない親友だから。一時も離れたくない。
また、転んでしまった。立ち上がろうとするけど、なんだか体中重くて気持ち悪い。寒くないのに、むしろ体中熱いのに震えが止まらない。それでも立ち上がった。
うずめのほうを目指して歩く。今、自分が真っすぐ歩けているかもわからない。もつれる足と、ぼやける視界が私を迷わせる。
多分、また転んだんだろう。前に進んでいる感覚がないからそう思った。体の感覚が鈍くなっていて、自分が今何をしているかもよくわかっていない。
「うずめ……どこ……? うずめ……」
それでもうずめを探す。視界も、音も、感覚も、匂いもないけれど、関係ない。
『ここだよ、こより』
なぜか、朝日のような温もりを胸いっぱいに感じた。待ち望んでいた声が耳をついた気がした。うずめが私を抱きしめてくれているんだと、五感以外のなにかで感じ取った。
『一緒にいようよ。うずめのいない生活なんて考えられないよ…………これからも一緒に居られるんだよね?』
『………うん、私ももっとこよりと居たい。必ずまた会いに行く。でも、時間がかかるから少しだけ待っててほしいんだ。だからどうか、目覚めても希望を持っていて――』
瞬間、うずめの存在を感じなくなる。同時に私の意識も完全に途絶えた。
◇
重い瞼をこじ開ける。ぼんやりする視界の中、懸命にうずめを探す。
(どこ……? ここ……? うずめは……!?)
等間隔に明滅する電子音が鳴る、無機質な部屋だった。私はその部屋のベッドの上で寝転んでいた。
ふと、視界の端に看護師らしき人が映った。
(あの…………)
そう思って声を掛けようとした。でもなぜか上手く声が出ない。ゾンビのような呻き声しか鳴らない。そしてその声に驚いたのか、がしゃんと看護師らしき人は持っていた物を床に落としてしまった。
(あ……ご、ごめんなさい……)
私は出せない声の代わりに心の中で謝罪する。
その人は、どういうことか落とした物に目もくれず、私のほうをまじまじと見つめてくる。
(……家族とうずめ以外の顔を見るなんて久しぶりだ)
恐る恐る近づいてくる看護師らしき人を眺めながら、ついさっき別れたばかりの親友を思い起こす。
(うずめ……!)
咄嗟に手を伸ばす。でも重しを付けられたみたいに上がり切らず、震えながら宙をさまよう。それを見た看護師らしき人は私のそばまで駆け寄って来て、いきなり私の瞼を触ってきた。くすぐったいから、首を動かして逃げる。その人はまた驚き、慌ただしく動き始めた。
なぜそんなことをするのか全くわからない。ひとまず体を起こそうとするけど、全身だるくて全く動かない。
それから少し経って、見覚えのある顔がやってきた。お母さんとお父さん。でもなぜか白髪とシワが多くなっている。二人はすぐに駆け寄ってくれて、手を握ってくれた。なぜか泣いていた。
◇
それから数日経った。少しずつ声を出せるようになり、体のだるさも徐々に抜けてきたある日のこと。
私は車椅子に乗せられ、お父さんとお母さんと一緒にお医者さんがいる診察室へ連れていかれた。いつも通り体を診察される。
「落ち着いて聞いてください」
穏やかなお医者さんの表情が真剣なものになった。いつもは診察されるだけなのに、今日は雰囲気が重かった。
「ずっと、不思議に思っていたよね。どうして病院にいるのか? どうして思うように体を動かせないのか? どうしてお母さんとお父さんが年を取っているのか? これからその正体を話すけど、その前に約束してほしいことがあるんだ」
勿体つけるようにお医者さんが話す。
「これから話すことに、悲観的にならないでほしいんだ。絶対っていうわけじゃないけど、できるだけそう考えてほしい。こよりちゃんのために僕は全力を尽くすし、当然お母さんとお父さんも、ひよりちゃんも助けてくれる。全員、君の味方だってことをよく知っていてほしいんだ」
お医者さんは努めてなんでも無いように言ってくれる。だけど、私にはそれが余計に怖く感じた。
「こよりちゃん、君は昏睡状態だったんだ。うん、緊張しないで。深呼吸するんだ」
言う通り深呼吸をしたあと、
(昏睡……?)
鏡を見せられた。
(どういうこと?)
そこには――
「こよりちゃんは八年間、ずっと眠っていたんだ」
そこには骸骨に皮を被せたような、痩せ細った女がいた。
◆八年と少し前(2017/7/21)
夏休みが始まった下校のとき。
私は早くベースを弾きたくて、横断歩道が青になるのを今か今かと待っていた。青信号になった瞬間、すぐに駆け出し、横断歩道を渡った。
いつの間にか車がすぐ横にいた。車は加速していた。轢かれて、投げ飛ばされた。
けたたましく鳴り響くサイレンに包まれながら、私は眠りについた。
◇現在(2026/1/20)
「じ、……じやあ……うずっ……うず……め、は?」
呂律の回らない舌と思考で、親友の名前を呼ぶ。あの夏休みを一緒に過ごした思い出が、脳裏に溢れ出す。
「落ち着いて……大丈夫。もう一度深呼吸するんだ」
お医者さんを無視して、私は何度もうずめの名前を呼ぶ。お母さんとお父さんの顔を見ると、うずめという名前に疑問符を浮かべていた。
「なんで――!?」
知っていて当然のうずめを知らないお母さんとお父さんに無性が腹が立った。こんなに頭に血が上るのは初めてだった。感情を上手くコントロールできない。それは頭では理解しているけど、体がそうじゃない。
何度も何度も、うずめの名前を叫びながら暴れる。その勢いで車椅子から落ちるけど、お医者さんが受け止めてくれた。
「ごめん……」
お医者さんに腕を掴まれ、何か注射された。
「もういいのよ、こより……」
「大丈夫だ、大丈夫……」
お母さんとお父さんに取り押さえられながら、ひたすら声をかけられる。次第に薄れる意識に、私は倒れるように眠った。
誰もうずめを知らない。
壊れて初めて知った。心という臓器がどこにあるかを。
◇2026/12/31
ぱん、とクラッカーが鳴る。
今日は私の誕生日。二十歳になった。目覚めてから約一年が経過した。リハビリを続けたおかげで今では普通に動ける。
八年も経って社会は色々変わったけど、今では一人で外出できるくらい慣れた。
お母さんとお父さんは昔よりも白髪やシワが増えていた。ちょっぴり変な感じがしたけど、これもすぐに慣れた。話してみればいつもの二人だったから。
ひよりはすごく成長していた。事故に遭う前は小学二年生だったのに、今は高校二年生だ。身長も追い抜かされて、性格もちょっと変わっていた。
同じクラスだったみんなは今、大学生だったり、仕事をしたりしているそう。
そしてぽっかりと――うずめだけがいない。
誕生日ケーキを食べて、部屋に戻る。一人でベースを弾く。聞き慣れたうずめのギターと声はない。
うずめとの生活は楽しすぎて、今は何をしても楽しくない。最初、うずめがいないなんて信じられなくて、夢のことをありのまま話した。
でも、誰も信じてくれなかった。自己防衛の一種でそういう妄想を構築したのかもしれないと先生は言っていた。
(そんなの……! 自分を傷つけてるだけじゃん……!)
無造作にベースを床に置く。無いはずの光景を夢見たせいで、余計に苦しい。それが現状。
「お風呂湧いたよ!」と、一階からお母さんの声がした。は~いと返事をして、階段を降りる。階段の踊り場の窓から外を眺めた。この辺りでは珍しく雪が積もっていた。凍えそうな夜なのに、雪が街灯の光を反射して、明るい光景を振る舞っている。
脱衣所に入り、脱いだ服を洗濯かごに入れる。寒さが体に染みないよう急いで風呂場に入り、シャワーが水からお湯に変わるのを凍えながら待つ。完全にお湯になったと同時、頭から浴びる。
――昏睡状態になれたら、また会えるのかな?
たまにそんなことを考える。でも、そうすればまたみんなを悲しませる。
この一年、長かった。夢の八年よりずっと。これから何年、何十年もうずめのいない人生を生きなきゃいけない。
「いける気なんてしないけどさ……」
はっきりとした独り言が口を衝いて出る。自信は無いに決まってた。それでも私は昏睡状態から奇跡の覚醒を遂げた。みんな私の覚醒に喜んでくれたけど、むしろ重荷に感じた。
お風呂の鏡を見た。あの頃よりもずっとやつれた表情だった。自分の顔を掴むように鏡に手をつく。
この荷物を抱えて生きるか、それともこの荷物と心中するか。甘い誘惑だった。
そのとき、ふと気づく。鏡が白色に光っていることに。
「なにこれ?」
我が家のお風呂場の鏡にこんなゲーミング機能は無い。不思議に思い、鏡をくまなく調べる。
「え……なんか触っちゃったかな……」
目の錯覚を疑うけど、明らかに光量が増している。すでに眩しいほどなのに、なぜか目が離せない。まるで瞬きを封じられているかのように釘付けになる。
いつの間にか、私は霧が立ち込める空間にいた。さっきまで目の前にあったはずの鏡もなく、もはや風呂場でもない。
「ど、どういうこと…………?」
不安と背筋が丸まるけど、お風呂場に戻るための方法を探すため、とにかく辺りを歩く。
最初は夢を見ているのかと思った。けど五感はしっかり働いているし、意識もはっきりしている。
どうしてこんな場所に迷い込んだのか? お風呂場にいた私は今どうなっているのか? いろんなことが浮かぶけど、とにかく前へ前へと歩く。
どれだけ広いのか、真っ直ぐ歩き続けているのに行き止まりがない。そして、歩くにつれて霧も濃くなってきている。方向感覚が曖昧になってきた。
不意に、目の前の霧の中から影が見えた。警戒しながら近づいてみると、鏡だった。花弁のように八つに重なった巨大な鏡。二メートルほどの高さがあった。
鏡にはもちろん、私の姿が映っている。けど、少しだけ違っていた。私はベースを握り、ステージの上に立っていた。
「ライブ?」
大勢の前で演奏する私の姿が、映像のように流れる。鏡の中の私の視線の先には、誰かがいる。同じステージに立つ人影。とても、慣れ親しんだ顔だった。
「うずめ!」
勝手に体が動く。うずめに触れようと鏡に手を伸ばす。待ち焦がれた姿を前に、抑えることなんてできなかった。
鏡に触れた瞬間、鏡面が輝き出す。視界が真っ白になるほどの強烈な光。けど、うずめの姿を焼き付けるために瞬きはしなかった。
どたん、という大きな音と同時、後頭部に重い衝撃が走る。そこはいつもの風呂場。そしてその天井を見上げていた。風呂イスに座った状態で後ろ向きに倒れてしまったんだろう。
「戻った……?」
仰向けになりながら呟く。後頭部にじわじわと痛みが走るけど、それよりも胸に穴が空いたような感覚が強く、動けなかった。
せっかくうずめを見つけたのに、またここに戻ってきてしまった。意地の悪さに涙が出そうになる。
「こより……! 今の音……!」
私が倒れた音を聞きつけたのか、お母さんとお父さんが駆けつけてきた。
「……だいじょうぶ大丈夫。ちょっと倒れただけだから」
涙を隠すように顔を背けつつ、二人に支えてもらって立ち上がる。
「今まで倒れるなんてはなかったし、病院に行こう」
「えぇ……? 大丈夫だって。なんとも無いよ」
「なんかあってからじゃ遅いんだから。明日行くよ」
「は~い」
私が覚醒してから二人とも過保護になっていた。そこまで心配しなくてもいいのにとも思うけど、仕方なく言う通りにする。
そのとき――ばしゃんと、湯船から水の跳ねる音が聞こえた。私と二人は何事かと思って、恐る恐る覗き込む。風呂蓋に半分隠れた湯船には、日本人形のような黒い長髪が浸かっているのが、ちらりと見えた。その光景にお父さんは思わず小さく悲鳴を上げた。
二人が突然のことに固まる中、私は迷わず湯船に近づく。湯船には漆黒の長髪が満たすように広がり、その中にぽつんと丸出しのおでこが光っていた。
ためらわずに湯船に手を突っ込んだ。首元を支えるように手を添え、すぐに引き上げる。
永遠の夏休みを孤独に過ごすはずだった私に、一筋の光のようにやってきた温かい存在。
「うずめ! うずめ!!」
私のこれまでとこれからの全てに欠かせない親友が今、目の前にいる。うずめの肩を揺らしながら、必死に呼びかける。でも目覚めない。
「ずっと待ってた! ギター、ちゃんと手入れしてあるよ……。ずっとずっと! 待ってたんだよ!!」
そのとき、ぴくりとうずめの瞼がわずかに動いた。徐々に目が開く。
「ごめん……こより。本当……遅くなっちゃった」
うずめは私の手を握りながら、そう言ってくれた。ずっと待ち焦がれていた親友が帰ってきた。まるで夢のよう――
「……痛い」
いや、夢じゃない。ほっぺをつねっても痛くない。つまり現実。やっぱりうずめはいたんだ。私の妄想なんかじゃなく、本当にいたんだ。
「立てる? うずめ」
「うん……」
うずめの手を引く。立ち上がったうずめは大きく伸びをした。
「久しぶりに、こよりと一緒に演奏したい!」
「うん!」
私もそう思っていた。まずは一緒に演奏してから、ゆっくり話したい。そんな気分だった。
◇
うずめに服を貸し、お父さんとお母さんを連れて、私の部屋に向かう。そして、いつも通り楽器をセッティングする。
「うん、いい感じ」
うずめはギターを持ってそう言った。
「ええと……お父さんたち、まだこの状況に付いて行けないんだけど……。こより、この娘はなに? さっきお風呂から急に出てきたのはどういうこと?」
「そうよ、なんの説明も無しにいきなり演奏したいなんて。あんた、この娘とどういう関係なの?」
「そうだそうだ~」
お父さんとお母さんが困惑しながら聞いてくる。そして、自室にいたはずのひよりも騒ぎを聞きつけたのか、野次馬精神で参加している。
「この娘はうずめ。前にも言ったと思うけど、私が昏睡状態のとき、夢の中で一緒に演奏してたんだ」
「「「?」」」
お父さんもお母さんもひよりも、ピンと来ていない様子だ。
「お久しぶり――ああいや……はじめまして! “あめの うずめ”って言います! うずめって呼んでください! こよりとは友達で、ずっと一緒に演奏してました! どうぞ、今後ともお見知りおき下さい!」
相変わらず元気で、真っ直ぐな声だった。うずめはみんなに近づき、一人ひとりと握手していく。うずめと出会ったときから思っていたけど、やっぱりコミュ力が高い。私とは雲梯の差だ。
全員と挨拶し終え、うずめは私の横に戻る。
「ん? アメノウズメ? それって……――」
お父さんはなにやら思い出したことがあるように、顎に手をやった。けど、私がちょうどベースを鳴らしたせいで、その声はかき消される。
久しぶりのうずめとの演奏に、居ても立っても居られない。一秒でも早く弾きたいんだ。だからごめん、お父さん。あとにして。
言葉はいらない。音が合図。どの曲を弾くのかは伝わっている。私たちは深くつながっている。
待ち望んでいた演奏を始めよう。
うずめがギターを奏でる。それに合わせて、私も低音を重ねる。うずめが透き通る声で歌い出すと同時、それに合わせた音色を迷わず届ける。あの夏休みを一緒に過ごしたからこそできる芸当。
私は知っている。うずめがどんなフレーズが好きで、どんな表現が得意で、どんな人より歌い奏でる姿が美しいことを。ベースしか取り柄のない私だけど、きっとそれだけじゃここまで支えられない。あの時間があったからこそ、こうして支えられる。
(全部、全部だよ。うずめの全部を支える。だから遠慮なんかするな! もっと好きなように――!)
もう大丈夫だよ。そう伝えるようにうずめを見つめる。うずめは頷き、サビの直前、すっと息を吸った。それまで一定に刻んでいた進行から一転、変則的なものに変わる。好き勝手にかき鳴らし、その場限りのアレンジを披露してくれる。私もうずめが指し示す楽しそうなほうへついていくように、ベースの弦を弾く。
(そうだよ、それだよ。あの夏休みをずっと一緒に居てくれたことも当然だけどさ。うずめは誰よりも音楽が大好きで、楽しんでる。そんなうずめだから、私は隣に居たいんだよ)
うずめのギターと、私のベースの音が静かに消え、演奏が終わる。うずめと目を合わせ、肩で息をする。
夜だから音は控えめにしていた。それでも興奮しすぎてドーパミンが止まらない。心臓が痛いくらい鼓動が早い。まるで眠っていた八年分をこの演奏で消費しているみたいだ。
余韻のあと、観客の拍手が鳴る。今は三人だけだけど、いつかもっと多くの人の前でライブをしたい。うずめのいなくなった世界で諦めかけていた夢が、久しぶりに浮かんだ。
「めっちゃミスった~! やっぱ一年も空くとな~。でもこんな遅れくらいすぐ取り返すから!」
うずめはミスしたところを何度も反復する。その言葉に頬が緩んでしまう。あの夏休みの終わり、私たちは別れ離れになってしまった。けど、今度は次があるんだと浮足立ってしまう。
「ライブ!」
つい、色んなことを省略してやりたいことだけを口走る。
そもそもどうしてうずめと離れ離れにならないといけなかったのか、どうして戻ってこれたのか、色々と疑問はあるけど、今はもうどうでもいい。目の前にうずめがいるんだから、これからのことを話したい。
「バンド!」
「うん!」
「会話してんの、これ?」
鳴き声じゃんと、ひよりが野次を飛ばしてくるが、無視する。
うずめとバンドを組んで、ライブに出る。それが今、最もやりたいことなんだ。
「そういえば、うずめってどこに住んでるの? 夏休みのときはいつの間にか家の中居たよね?」
「家はないよ。こよりの部屋の押し入れでこっそり寝てたよ」
「え、全く気づかなかったんだけど……」
八年間ずっと気づかなかったなんて、軽いホラーかも。
「だったらさ、一緒に住もうよ。この部屋も掃除すれば全然スペース作れるし」
今は物が散乱してほとんど床が見えないけど、片付ければ二人で生活できるはず。
「いいよね、お父さん」
「う~ん……」
「はあ? あんたねぇ、人一人養うことがどういうことかちゃんとわかってんの?」
お父さんに聞いたはずなのに、お母さんが割って入ってくる。こうなるからお父さんに聞いてるのに……。
「まあまあ、母さん。うずめちゃんの話もちょっと聞いてみようよ」
「捨て犬飼うのとはわけが違うのよ。私たちじゃ責任取れないんだから然るべきとこに行くべきでしょ」
「まあまあまあ」
お父さんがお母さんを宥めてくれる。その間、うずめは不安そうに縮こまっていた。私は安心させるようにうずめの手を握る。
「大丈夫だよ。お母さん厳しいけど優しいし、なんだかんだお父さんに弱いから」
「負けたな、風呂入ってくる」
ひよりも事の顛末を察してか、一階へ降りていった。
そうしてお父さんとお母さんのやり取りをしばらく眺める。すると、だんだんお母さんのほうが圧され出す。というより、同じやり取りを何度もしてお母さんのほうが疲弊していた。お父さんは何一つちゃんとした発言をしていないけど、なし崩し的にお母さんを丸め込んでいく。世の中こういうのがまかり通りんだなぁと、幼稚園のときに感心したのを覚えている。
結局、お母さんの負け。うずめのことをじっくり聞いてから審議することに。
「ほらね」
「私が言うのなんだけど……いいのこれ?」
「さあ?」
お父さんがうずめの前に座る。うずめは姿勢を正して、真剣に向かい合った。
「そんなに緊張しなくてもいいよ。何個か質問するだけだし」
「はい!」
「うずめちゃんのご両親は?」
「いません!」
「家はどこにある?」
「ありません!」
「今までどこにいたの?」
「覚えてないけど、でも――! こよりと一緒に生活してました!」
「それは……さっきも言ってた、夢の中でってこと?」
「はい!」
「なるほど……。じゃあ、うずめちゃんがずっとこよりのそばに居てくれたんだね?」
「はい!」
「…………」
お父さんは深く考え込むように、顎に手をやる。そして――
「うん、だったら大歓迎だよ。こよりのことを、これからもよろしくね」
◆父親視点(2017/12/31)
事故から五ヶ月が経った。
今日もいつものように母さんの妹の針を連れて、こよりが眠る病室に来ていた。針はこよりがベースにハマるきっかけで、そしてベースの師匠だった。
こよりが眠るベッド横の椅子に腰掛け、こよりの耳にイヤホンをかける。こよりがいつも聴いていた曲や、針が選んでくれたこよりが好きそうな最近の曲を流す。
昏睡状態の人がそれまで慣れ親しんできたものを見たり聴いたりすることで覚醒したという事例がある。ごく稀だが、どんな可能性だって見逃したくない。この娘が元通りになるなら、なんだってする。
曲を全て流し終えても、今日もこよりは目覚めない。思わず、震える手でこよりの手を握り締めた。
(神様……! お願いします! どうかこの娘を助けてください。こんなのは、あんまりだ……)
「――ベースだ」
神頼みにすがる僕の後ろで、針がそう言った。針の視線は僕が掴んだ、こよりの手に注がれていた。
「ネックを抑える指と、弾く指の動きをしてる。……こよりは、夢の中でもベースを弾いてるのかもな」
ふっと針が微笑んだ。
確かに微かにだが、こよりの指が一定のリズムで動いている。きっと、これがこよりを目覚めさせる鍵なんだと確信した。それからも僕は仕事の都合をつけ、母さんと交代で毎日こよりに音楽を聞かせた。
同じような曲ばかりだと脳が慣れてしまうと思って、時折ネットに上がっている誰かのアレンジを混ぜたり、僕が好きな曲だったり、とにかく色んな曲を聞かせてあげた。それがこよりを目覚めさせる刺激になると信じて、八年間欠かさず行った。
けれど、ふと思った。夢の中のこよりは孤独にベースを弾いているんじゃないかと。そんなこよりを想うと、寂しくなった。
――でも、一人じゃなかったんだな
こよりと息の合った演奏をするうずめちゃんを見て、そう確信した。
本来、こよりには重度の障害が残るはずだった。とても日常生活なんて送れないほどの。でも奇跡的な回復を果たした。
あのときの神頼みがうずめちゃんを呼び寄せ、こよりに奇跡を与えてくれたんじゃないかと。非現実的だけど、僕にはそうとしか思えなかった。
◇こより視点(2026/12/31)
うずめとの同棲を許可されたあと(※少なくともお父さんには)、ぐ~とうずめのお腹が鳴る。
「くは~、腹が減りすぎてやばい」
うずめの寝床の準備をしていたけど、うずめは力尽きるように倒れる。
「ケーキならあるけど、食べる?」
「食べる!」
食い気味に返事したあと、うずめは一瞬で一階に降りていった。私も遅れて行くと、うずめはすでにリビングでケーキを頬張っていた。
「え~うずめちゃん、なんでフォークの場所わかったの?」
「八年も居たしね~」
風呂上がりのひよりが、うずめの頬をムニムニと触りながら聞いていた。うずめはされるがままだけど、ケーキだけは食べ続けている。
「でもそれって八年前のことでしょ? そのときとは結構物の配置も違うんじゃない?」
「う~ん……確かに違うけど、そこまで大きく変わってはないかなー」
うずめとひよりが雑談するのをよそに、私はうずめの対面に座り、手元にあったチラシの裏にボールペンで色々と書き込む。
「何書いてんの?」
うずめから聞かれ、書いた内容を見せる。
「『ドラム、リード、オリ曲、衣装、バンド名』?」
うずめが復唱してくれる。
「そう! 今の私たちに必要なもの! それがこの五つ!」
「ほうほう……。確かにメンバーもまだ二人だけだしね」
「でも……これで四つ」
シャッと、私は『バンド名』のところに取り消し線を引く。
「実はさっき、バンド名思いついちゃったんだよね。ピッタリなやつを」
「お~! なんて名前?」
「バンド名は――」
私はバンド名を書き込み、うずめに見せた。
◇少し先の話
「では、録音させていただきますね」
「あ……はい」
レコード会社の応接室で、記者の人と向かい合う。初めてのことで汗が止まらない。
「今回手掛けた映画の主題歌、改めてすごい反響ですね」
「あ……ありがとうございます……」
インタビューの内容は、主にこの前作った新曲についてだった。初めてのインタビューで上手く返答できないけど、記者の人が優しそうで段々と話せるようになる。
「なるほど……では、次はバンドについてもお聞きしたいですね。『明けの乙女』というバンド名ですが、なぜこの名前になったのでしょう?」
「そうですね…、一緒にバンドをやろうって言い出したのは私なんですけど、そのきっかけを与えてくれたのがうずめなんです」
記者の人がうんうんと頷いてくれる。
「当時の私ってすごく落ち込んでて、何をしても楽しくない人生だったんです。でも、うずめが現れてから、それまでの暗い毎日が一変したんです。私にとってうずめは太陽みたいな存在で、だから『明けの乙女』っていう名前にしたんです。それと、うずめと一緒にバンドを組んだ日が年明け直前だったんです。だから、縮めて『あけおめ』って読めるようにしてて……へへっ……」
「なるほど~、最初はこよりさんとうずめさんのコンビだったんですね。そこから現在の五人メンバーとなったわけですが、一人ひとり加入したときのこともお聞きしてもいいですか?」
「はい」
◆2027/1/1
「さっさと起きなさい!」
聞き慣れたお母さんの声とともに、布団を剥ぎ取られる。真冬の冷気が一気に襲いかかり、寒暖差に眠気が覚める。
(く、くそ……なんかいい夢見てたのに~……)
内容はもう思い出せないけど、良い夢だったのは覚えている。今日は休みだっていうのに規則正しい生活を強いるなんて、鬼の所業だ。
「さ、寒い~……」
ベッドの上で寒さに縮こまっていると、来客用の布団で寝ていたうずめの声がした。
「ここで暮らすなら家族同然として扱うからね。うずめちゃん!」
「は……はひ」
うずめもお母さんに布団を剥ぎ取られて、叩き起こされていた。
うずめと眠気眼をこすりながら一階に降り、朝食を食べる。
「あそうだ、あけおめ」
ニュースに流れる初日の出を見ながら、隣に座るうずめに新年の挨拶を交わす。
「はい……あけましておめでとう……」
寝起きでぽやぽやとしているうずめは、まだ声に覇気がない。
「今日さ、ここ一年の曲弾こうよ。うずめ知らないでしょ?」
寝癖で跳ねているうずめの髪を撫でながら提案すると、うずめはぴくりと反応して輝く瞳を向けてくれる。
「そうだね……、いい曲教えて!」
「うん!」
あの夏が終わり、新しい季節が始まる。
次回の投稿は来年以降です。




