最終章 春暁
目が覚めたとき、部屋には光が差し込んでいた。
6時10分。アラームより3分早い。いつものことだった。
カーテンを開けると、空は青かった。
薄墨色の雲は、もうなかった。
結菜はしばらく、その空を見ていた。
事件が解決してから、数日が経った。
佐伯の起訴手続きは進んでいる。
歩美の件も、検察に送られた。
全部、終わった。
そう思うのに、歩美の顔が、ふとよぎった。
あの笑顔。15年間、ずっと見てきた笑顔。
心配してくれてると思っていた。
友達だと思っていた。
でも今は、不思議と、涙は出なかった。
ただ、静かに、胸の中に沈んでいく感じがした。
着替えて、鍵を持ってドアを閉める。
エレベーターを待つ間、窓の外を見た。
桜が、満開だった。
*
署に着くと、木崎がすでにデスクで資料を広げていた。
コーヒーが、音もなく置かれた。
ちょうどいい濃さだった。
「おはようございます」
「うん」
いつもと同じだった。
何も変わっていなかった。
それが、今日はありがたかった。
「佐伯の件、検察から連絡がありました」
木崎が資料を見ながら言った。
「起訴、確定です。歩美の送検も、完了しました」
「そう」
結菜はコーヒーを一口飲んだ。
「鈴原さん、喜んでくれてるかな」
木崎は少し間を置いた。
「そう思います」
結菜は窓の外を見た。
頭の中に、鈴原の部屋の付箋が浮かんだ。
——今度こそ、止める。——
止められたよ、鈴原さん。
あなたが繋いでくれた線が、全部に届いた。
一人で戦い続けてくれて、ありがとう。
結菜は静かに、目を閉じた。
*
「清瀬さん」
昼前に、木崎が声をかけてきた。
「少し、出ませんか」
「どこに」
「署の近くに、桜並木があります」
結菜は木崎を見た。
木崎は特別な顔をしていなかった。
ただ、いつもの真っ直ぐな目だった。
「……行こうか」
*
桜並木は、署から歩いて5分の場所にあった。
満開だった。
ピンク色の花びらが、風に乗って、ゆっくりと舞っていた。
2人で並んで、桜の下を歩いた。
特別なことは、何も起きなかった。
何も言わなくても、それでよかった。
結菜は歩きながら、空を見上げた。
15年間、春が怖かった。
桜を見るたびに、あの頃を思い出した。
温かい風が吹くたびに、胸が痛かった。
鈴原さんは、誰かを守るために戦い続けた。
西条先生は、誠実に生きていた。
美咲さんは、全部受け入れて隣に立ち続けた。
そして歩美は——歩美のことは、まだうまく整理できない。
でも、もう引きずらなくていい。
そう思えた。
花びらが、1枚、結菜の肩に落ちた。
払わずに、そのままにした。
「木崎」
「はい」
結菜は歩きながら、前を向いたまま言った。
「いつも隣にいてくれて、ありがとう」
木崎は少しの間、黙っていた。
桜の花びらが、2人の間を静かに舞った。
「……いてもいいなら、これからも」
その言葉は、静かだった。
宣言でも、告白でも、なかった。
ただ、真っ直ぐだった。
結菜は少し、口元が緩んだ。
「いてください」
それだけだった。
それだけで、十分だった。
2人は並んで、桜の下を歩き続けた。
花びらが、風に舞った。
空は青かった。
また、春が始まる。




