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嘘つきな春  作者: 柚月


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第7章 決壊

西条美咲が署に現れたのは、約束通り、午後2時だった。


受付から通されてきた女性を見て、結菜は少しだけ息を止めた。


穏やかな目をした、静かな人だった。

派手さはない。でも、どこか芯の通った佇まいがあった。

感情を乱さない人間の、あの静けさ。


「清瀬さん、お時間いただいてありがとうございます」


美咲は椅子に座ると、両手を膝の上に揃えた。


「西条美咲です。よろしくお願いします」


「こちらこそ」


結菜は向かいに座った。


部屋には2人だけだった。木崎には席を外してもらっていた。


「単刀直入に申し上げます」


美咲は静かに言った。


「主人のことで、お伝えしたいことがあって来ました。捜査とは、直接関係ないかもしれない。それでも、あなたには伝えるべきだと思って」


「聞かせてください」


美咲は一度だけ、小さく息を吸った。


「結婚する前、主人から話を聞きました。忘れられない人がいると。教え子で、ある日突然いなくなってしまったと」


結菜は表情を動かさなかった。


「主人は正直な人です。その人のことが忘れられないまま、自分がどんな気持ちになるかわからないと、私に話してくれました。それでも私は、この人と生きていこうと決めました」


美咲の声は、揺れなかった。


「私が伝えたかったのは、それだけです。主人はずっと、あなたのことを気にかけていた。探していた。それは本当のことです」

結菜は少しの間、美咲を見ていた。


この人は、全部知って隣にいることを選んだ。

15年間、ずっと。


「……美咲さんは」


声が、思ったより静かに出た。


「それで、よかったんですか」


美咲は少しだけ微笑んだ。


「よかったかどうかは、まだわかりません」


正直な答えだった。


「でも、後悔はしていません。主人は誠実な人です。それだけは、ずっと変わらなかった」


美咲は立ち上がった。


「長居するつもりはありません。ただ、あなたに伝えたかっただけです」


「……ありがとうございます」


美咲はドアに向かいながら、振り返らずに言った。


「あとのことは、あなたと主人が決めることです。私は邪魔するつもりはありません。」


ドアが、静かに閉まった。


結菜はしばらく、空になった椅子を見ていた。


この人は強い、と思った。


自分とは違う強さで、15年を生きてきた人だと思った。





大学に向かったのは、その日の夕方だった。


令状の手続きは木崎に任せてある。

歩美の逮捕は、明日になる。


今夜だけ。


今夜だけ、けじめをつけに行く。


廊下を歩くと、古びた木の匂いがした。

あの頃と、変わらない匂いだった。


研究室のドアをノックすると、少し間があってから「どうぞ」と声がした。

ドアを開けると、西条は机に向かっていた。


結菜の顔を見て、静かに立ち上がった。


「……来てくれたんですね」


「少し、話せますか」


「もちろんです。座ってください」


静かに珈琲を入れてくれている西条の背中を見ながら、結菜は部屋を見渡した。


本棚。積まれた資料。窓の外の夜空。

あの頃と、何も変わっていなかった。


コーヒーカップが、静かに目の前に置かれた。

湯気が、ゆっくりと立ち上った。


「美咲さんが、来てくれました」


「……そうですか」


西条は向かいに座り、少し目を伏せた。


「全部、聞きました」


沈黙が落ちた。



この部屋には、記憶がある。


大学2年の冬。

深夜の研究室。

誰もいない廊下。

窓の外に、雪が降っていた。

西条は言った。


「これは、正しくないかもしれない」


「わかってます」


それだけで、2人の距離が消えた。

西条の唇が、結菜の額に触れた。

それから、そっと——唇に。

温かかった。

世界中で、自分だけが知っている温かさだと思っていた。

あの春は、本当に美しかった。

——回想が、消えた。



「西条さん」


結菜は、静かに口を開いた。


「あなたに、話しておかなければならないことがあります」


西条は結菜を見た。


「大学を辞めたのは、逃げたからです。佐伯に脅されて、あなたとのことをネットに拡散すると言われて……それだけじゃなかった」


声が、そこで止まった。

続きを言おうとして、喉が固くなった。


——あの夜のことが、フラッシュバックした。


気づいたら、知らない部屋にいた。


天井が見えた。体が、動かなかった。


手首に、冷たい感触があった。


佐伯の声がした。


「俺のほうが、愛してるよ」


嫌だった。


全部、嫌だった。


でも声が出なかった。体が言うことを聞かなかった。


涙だけが、流れた。


先生。


先生に会いたい。


助けて。


でも呼べなかった。


呼んだら、先生が終わると思っていた。


だから一人で抱えた。


一人で逃げた。


一人で、全部終わらせた。


——フラッシュバックが、消えた。


どんな顔をしていたんだろうか。

気づくと、西条の胸の中にいた。

ただ、温かかった。


「眠らされて、気づいたら佐伯の部屋にいた。逃げられないように……体を、拘束されて」


西条の腕が、わずかに強くなった。


「佐伯に…されました」


それだけ言えた。

それだけで、十分だった。


西条はしばらく、何も言わなかった。

ただ、結菜を抱きしめていた。


「……気づいてやれなかった」


その声は、低く、かすれていた。


「守れなかった。本当に、申し訳なかった」


「先生のせいじゃない」


結菜は静かに言った。


「誰にも言えなかったのは、私が選んだことです。先生を守りたかった。先生の立場を、終わらせたくなかった」


「結菜さん——」


「でも」


結菜は続けた。


「ずっと、助けてほしかった。大好きだった。ごめんなさい、先生。15年間、言えなくて」


涙が、溢れた。

声には出なかった。

ただ、目から、止まらなかった。


西条は何も言わなかった。

ただ、静かに、結菜が泣き止むのを待っていた。

その腕は、ずっと離れなかった。



どのくらい時間が経ったか、わからなかった。

結菜は身を離して、目を拭い、顔を上げた。


「西条さん」


「はい」


「家族を、大事にしてください」


西条は少し間を置いてから、静かに頷いた。


「美咲は……強い人です」


「知ってます」


「あなたも」


結菜は小さく首を振った。


「私はまだ、全然強くないです」


「それでも、ここまで来た」


西条の声は、穏やかだった。


「15年間、一人で抱えて、それでも刑事になって、今日ここに来た。それは、強さじゃないですか」


結菜は答えなかった。


でも、その言葉は、静かに胸に落ちた。


「…ありがとうございます。それでは、行きますね」


結菜は立ち上がった。


「元気で」


西条は静かに言った。


「先生も」


結菜はドアに手をかけた。

振り返らなかった。

ドアを閉めた瞬間、廊下の冷たい空気が頬に触れた。


涙の跡が、少しだけ冷えた。

歩き出した。

振り返らなかった。

もう、振り返らない。


廊下の窓の外に、春の夜空が広がっていた。

桜の蕾が、街灯に照らされて白く浮かんでいた。

もうすぐ、咲く。


結菜は歩き続けた。



※ 連載『嘘つきな春』は毎日20:00更新、全9章で完結予定です。

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