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嘘つきな春  作者: 柚月


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第4章 距離

翌朝、署に着くと木崎がすでにデスクで資料を広げていた。


コーヒーが、音もなく置かれた。


いつもと同じだった。

でも、昨日のことがあってから、その所作が少しだけ違って見えた。


「おはようございます」


「うん」


結菜は椅子に座って、コーヒーを一口飲んだ。


木崎は何も言わなかった。

昨日のことを蒸し返すような男じゃない。

それはわかっていた。


でも、なぜか、それが少し寂しかった。


自分でも驚いた。


寂しい、なんて。


いつからそんな感情が、自分の中に残っていたんだろう。


「清瀬さん」


木崎が資料から目を上げた。


「昨日、話してくれてありがとうございました」


結菜は手帳を開いたまま、少し止まった。


「……礼を言われることじゃない」


「でも、言いたかったので」


木崎はそれだけ言って、また資料に目を落とした。


結菜はコーヒーカップを両手で包んだ。


温かかった。



午前中は書類仕事だった。


鈴原隆太の過去の記事を洗っていると、木崎が声をかけてきた。


「清瀬さん、これ見てください」


差し出されたタブレットの画面には、鈴原が5年前に書いたウェブ記事が表示されていた。


タイトルは——「大学キャンパスで繰り返される、見えない暴力」。


結菜は画面を引き寄せた。


記事には、大学内での性暴力被害の実態が書かれていた。

被害者への取材、加害者の巧妙な手口、そして大学側の隠蔽体質。

実名は出ていなかったが、具体的な描写が続いていた。


読み進めるうちに、結菜の手が止まった。


記事の中に、一つの事例があった。


ある女子学生は、先輩から交際関係を盾に脅迫され、繰り返し性的被害を受けた。

彼女は誰にも言えないまま大学を去った。加害者は今も社会で生きている。


結菜は画面から目を離せなかった。


「……この記事、いつ書かれたんだっけ」


「5年前です。鈴原が出版社を辞めて、フリーになった直後ですね」


結菜は画面をスクロールした。

記事の末尾に、短いあとがきがあった。


この記事を書いたのは、かつて大切な人を守れなかった後悔があるからだ。

気づいたときには、もう遅かった。

同じ思いを、誰にもさせたくない。それだけだ。


結菜は画面から目を離せなかった。


鈴原隆太という人間が、少しだけ見えた気がした。


この人は、ずっと誰かのために戦ってきた。


大切な人を守れなかった後悔を、抱えたまま。


「清瀬さん、大丈夫ですか」


木崎の声で我に返った。


結菜は画面をテーブルに置いた。


「……大丈夫」


「顔色が」


「大丈夫だから...」


木崎は黙った。でも、結菜の顔を見ていた。


「この記事、証拠として押さえておいて」


「わかりました」


結菜は立ち上がった。


「少し、外の空気を吸ってくる」



署の裏口を出ると、小さな駐車場があった。


人が来ない場所だった。結菜はフェンスに背をもたれて、空を見上げた。


曇っていた。今日も雨になるかもしれない。


鈴原は知っていた。


あの記事は、結菜のことを書いたものじゃないかもしれない。

でも、同じようなことが、同じ頃に起きていたなら——。


鈴原は、なぜ5年前にこんな記事を書いたのか。


なぜ3ヶ月前に、西条に連絡をしたのか。


なぜ佐伯を追い詰めようとしていたのか。


全部が、一本の線で繋がりかけていた。


「清瀬さん」


後ろから声がした。


振り返ると、木崎が缶コーヒーを2本持って立っていた。


「来なくていいとは言ってないか」


「言ってないので来ました」


結菜は小さく息を吐いた。木崎は結菜の隣に並んで、缶コーヒーを差し出した。


受け取って、プルタブを開ける。一口飲むと、甘かった。


「甘すぎ」


「たまにはいいでしょう」


2人で並んで、曇り空を見ていた。


しばらく、何も言わなかった。


「木崎」


「はい」


「鈴原の記事、読んだ」


「……はい」


「あの人、ずっと誰かのために戦ってたんだね」


木崎は少し間を置いた。


「そうみたいですね」


「大切な人を守れなかった、って書いてた」


「はい」


「……どんな人だったんだろう」


結菜は缶コーヒーを見つめた。


「あの人が、誰かのために動こうとしていたことは、本当なんだと思う」


「そうですね。だから、きちんと決着をつけてあげたい」


木崎は静かに言った。


結菜は頷いた。


それだけで、十分だった。



鈴原の自宅を再捜索したのは、その日の午後だった。


古びたマンションの一室。本棚には大量の資料と書籍が並んでいた。


木崎がパソコンを開いて、データを確認し始めた。


結菜は部屋を見渡した。


壁には、あの記事の印刷物が貼られていた。


「大学キャンパスで繰り返される、見えない暴力」


その横に、付箋が貼ってあった。


手書きで、一言だけ書いてあった。


今度こそ、止める。


結菜はその文字を、しばらく見つめた。


目の奥が、熱くなった。


部屋の隅に、小さな本棚があった。


その端に、小さな写真立てがあった。


若い女性が笑っていた。


結菜はその写真を、しばらく見ていた。


写真立てをそっと持ち上げると、裏に鉛筆で一言書いてあった。


「ごめん」


結菜は写真立てを、静かに元の場所に戻した。


何も言えなかった。


でも、鈴原隆太という人間が、今度こそはっきりと見えた気がした。


この人は、誰かを失った痛みを抱えたまま、ずっと戦ってきた。


一人で。


結菜は目を閉じた。


あなたの戦いを、無駄にしない。


そう思った。


「清瀬さん」


木崎が振り返った。


「ありました。クラウドに、フォルダがあります」


結菜は木崎の隣に立った。


画面には、複数のファイルが保存されていた。


ファイル名は——


「佐伯涼へのメッセージ」



「(送信者:長谷川歩美)」



署に戻ると、一つの報告が上がっていた。


鈴原のスマートフォンの解析が、完了したという。


「データが復元されました」


木崎が資料を持ってきた。


「鈴原と連絡を取っていた人物が、もう1人出てきました」


結菜は資料を受け取った。


復元されたメッセージの送信相手の名前を見て、結菜は息を止めた。


そこにあった名前は——。




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