第4章 距離
翌朝、署に着くと木崎がすでにデスクで資料を広げていた。
コーヒーが、音もなく置かれた。
いつもと同じだった。
でも、昨日のことがあってから、その所作が少しだけ違って見えた。
「おはようございます」
「うん」
結菜は椅子に座って、コーヒーを一口飲んだ。
木崎は何も言わなかった。
昨日のことを蒸し返すような男じゃない。
それはわかっていた。
でも、なぜか、それが少し寂しかった。
自分でも驚いた。
寂しい、なんて。
いつからそんな感情が、自分の中に残っていたんだろう。
「清瀬さん」
木崎が資料から目を上げた。
「昨日、話してくれてありがとうございました」
結菜は手帳を開いたまま、少し止まった。
「……礼を言われることじゃない」
「でも、言いたかったので」
木崎はそれだけ言って、また資料に目を落とした。
結菜はコーヒーカップを両手で包んだ。
温かかった。
*
午前中は書類仕事だった。
鈴原隆太の過去の記事を洗っていると、木崎が声をかけてきた。
「清瀬さん、これ見てください」
差し出されたタブレットの画面には、鈴原が5年前に書いたウェブ記事が表示されていた。
タイトルは——「大学キャンパスで繰り返される、見えない暴力」。
結菜は画面を引き寄せた。
記事には、大学内での性暴力被害の実態が書かれていた。
被害者への取材、加害者の巧妙な手口、そして大学側の隠蔽体質。
実名は出ていなかったが、具体的な描写が続いていた。
読み進めるうちに、結菜の手が止まった。
記事の中に、一つの事例があった。
ある女子学生は、先輩から交際関係を盾に脅迫され、繰り返し性的被害を受けた。
彼女は誰にも言えないまま大学を去った。加害者は今も社会で生きている。
結菜は画面から目を離せなかった。
「……この記事、いつ書かれたんだっけ」
「5年前です。鈴原が出版社を辞めて、フリーになった直後ですね」
結菜は画面をスクロールした。
記事の末尾に、短いあとがきがあった。
この記事を書いたのは、かつて大切な人を守れなかった後悔があるからだ。
気づいたときには、もう遅かった。
同じ思いを、誰にもさせたくない。それだけだ。
結菜は画面から目を離せなかった。
鈴原隆太という人間が、少しだけ見えた気がした。
この人は、ずっと誰かのために戦ってきた。
大切な人を守れなかった後悔を、抱えたまま。
「清瀬さん、大丈夫ですか」
木崎の声で我に返った。
結菜は画面をテーブルに置いた。
「……大丈夫」
「顔色が」
「大丈夫だから...」
木崎は黙った。でも、結菜の顔を見ていた。
「この記事、証拠として押さえておいて」
「わかりました」
結菜は立ち上がった。
「少し、外の空気を吸ってくる」
*
署の裏口を出ると、小さな駐車場があった。
人が来ない場所だった。結菜はフェンスに背をもたれて、空を見上げた。
曇っていた。今日も雨になるかもしれない。
鈴原は知っていた。
あの記事は、結菜のことを書いたものじゃないかもしれない。
でも、同じようなことが、同じ頃に起きていたなら——。
鈴原は、なぜ5年前にこんな記事を書いたのか。
なぜ3ヶ月前に、西条に連絡をしたのか。
なぜ佐伯を追い詰めようとしていたのか。
全部が、一本の線で繋がりかけていた。
「清瀬さん」
後ろから声がした。
振り返ると、木崎が缶コーヒーを2本持って立っていた。
「来なくていいとは言ってないか」
「言ってないので来ました」
結菜は小さく息を吐いた。木崎は結菜の隣に並んで、缶コーヒーを差し出した。
受け取って、プルタブを開ける。一口飲むと、甘かった。
「甘すぎ」
「たまにはいいでしょう」
2人で並んで、曇り空を見ていた。
しばらく、何も言わなかった。
「木崎」
「はい」
「鈴原の記事、読んだ」
「……はい」
「あの人、ずっと誰かのために戦ってたんだね」
木崎は少し間を置いた。
「そうみたいですね」
「大切な人を守れなかった、って書いてた」
「はい」
「……どんな人だったんだろう」
結菜は缶コーヒーを見つめた。
「あの人が、誰かのために動こうとしていたことは、本当なんだと思う」
「そうですね。だから、きちんと決着をつけてあげたい」
木崎は静かに言った。
結菜は頷いた。
それだけで、十分だった。
*
鈴原の自宅を再捜索したのは、その日の午後だった。
古びたマンションの一室。本棚には大量の資料と書籍が並んでいた。
木崎がパソコンを開いて、データを確認し始めた。
結菜は部屋を見渡した。
壁には、あの記事の印刷物が貼られていた。
「大学キャンパスで繰り返される、見えない暴力」
その横に、付箋が貼ってあった。
手書きで、一言だけ書いてあった。
今度こそ、止める。
結菜はその文字を、しばらく見つめた。
目の奥が、熱くなった。
部屋の隅に、小さな本棚があった。
その端に、小さな写真立てがあった。
若い女性が笑っていた。
結菜はその写真を、しばらく見ていた。
写真立てをそっと持ち上げると、裏に鉛筆で一言書いてあった。
「ごめん」
結菜は写真立てを、静かに元の場所に戻した。
何も言えなかった。
でも、鈴原隆太という人間が、今度こそはっきりと見えた気がした。
この人は、誰かを失った痛みを抱えたまま、ずっと戦ってきた。
一人で。
結菜は目を閉じた。
あなたの戦いを、無駄にしない。
そう思った。
「清瀬さん」
木崎が振り返った。
「ありました。クラウドに、フォルダがあります」
結菜は木崎の隣に立った。
画面には、複数のファイルが保存されていた。
ファイル名は——
「佐伯涼へのメッセージ」
・
・
・
「(送信者:長谷川歩美)」
*
署に戻ると、一つの報告が上がっていた。
鈴原のスマートフォンの解析が、完了したという。
「データが復元されました」
木崎が資料を持ってきた。
「鈴原と連絡を取っていた人物が、もう1人出てきました」
結菜は資料を受け取った。
復元されたメッセージの送信相手の名前を見て、結菜は息を止めた。
そこにあった名前は——。




