第3章 対峙
佐伯涼の任意同行は、翌日の午後に実現した。
彼は思ったより素直に応じた。
それがかえって、結菜の警戒心を強めた。
こういう男は、自分が有利だと思っているときほど、協力的な顔をする。
取調室に向かう廊下を歩きながら、結菜は自分の呼吸を整えた。
落ち着け、落ち着くんだ。
乱れるな、感情を出すな。
あの男の前では、ただの刑事でいるんだ。
*
取調室のドアを開けると、佐伯は椅子に深く座って腕を組んでいた。
あの頃より太って、髪が薄くなっていた。
でも、その目だけは変わっていなかった。
人を値踏みするような、薄笑いを含んだ目。
結菜の顔を見た瞬間、その口の端がゆっくりと上がった。
「……久しぶりだな、結菜。」
結菜は表情を変えなかった。
椅子を引いて、真向かいに座る。
木崎が隣に控えた。
「佐伯涼さん。鈴原隆太さんとの関係についてお聞きします」
「刑事さんになったんだ」
佐伯は質問を無視して結菜を眺めた。
「似合わないな。昔はもっとおとなしかったのに」
木崎がわずかに身を固くするのを感じた。
「鈴原さんとはいつから連絡を取っていましたか」
「懐かしいな」
佐伯は続けた。
「あの頃の顔、まだ覚えてるよ。黙ってたよな、ずっと。何も言わずに消えちゃってさ。」
(・・・黙れ。)
声には出なかった。
胃の底が冷えていくのを感じながら、結菜はペンを走らせた。
「質問に答えてください」
「去年からだよ。SNSで繋がった」
「何がきっかけで」
「それだけだよ」
佐伯は薄く笑った。
「でも鈴原のやつ、妙に正義感が強くてさ。昔のことをほじくり返そうとしてたんだよ」
結菜はペンを止めた。
「昔のこと、とは」
「わかるだろ」
佐伯は身を乗り出した。声が低くなった。
「お前が誰にも言わずに消えた話。鈴原、なぜか知ってたんだよ。俺に、ちゃんと話せって言ってきた。今更何だよって話だけど」
「最後に鈴原さんと会ったのはいつですか」
「3週間前。飯を食っただけだ」
「何を話しましたか」
佐伯は少し間を置いた。
初めて、わずかに表情が揺れた。
「……昔話。大学の頃の話だよ」
佐伯は結菜を見た。
「お前のことも、少し話した」
「私のことを、なぜ」
「鈴原がお前のことを気にしてたから」
佐伯は肩をすくめた。
「お前が突然消えたことを、妙に気にしてたんだよ。俺には関係ない話だけどな」
「鈴原さんが亡くなった夜、どこにいましたか」
「家にいた。一人で」
「証明できますか」
「できない。一人暮らしだからな」
アリバイなし。結菜はそれを書き留めた。
部屋に沈黙が落ちた。
佐伯はその沈黙を、楽しむように結菜を見ていた。
「もう一つだけ」
結菜は静かに言った。
「鈴原さんは、あなたに何を話せと言っていたんですか。具体的に」
佐伯の目が、わずかに細くなった。
「さあな。覚えてない」
「そうですか」
結菜は手帳を閉じた。立ち上がりながら、佐伯を真っ直ぐに見た。
「今後、連絡なく遠出することはご遠慮ください」
「えっ、もう終わり?」
佐伯は立ち上がりながら振り返った。
「お前、西条先生とまた会ったんだろ。あの人、今もお前のこと気にしてるみたいじゃないか」
結菜は答えなかった。
「あの人、知らないんだろうな。お前に何があったか」
佐伯はドアノブに手をかけながら、振り返らずに言った。
「知ったら、どんな顔するかな」
ドアが閉まった。
取調室に、静寂が落ちた。
*
廊下に出ると、木崎が結菜の隣に立った。
しばらく、2人とも何も言わなかった。
「清瀬さん」
木崎の声は静かだった。
「少しだけ、聞いていいですか」
結菜は廊下の窓を見た。外は曇っていた。
「あの男と、何があったんですか」
木崎は真っ直ぐ結菜を見た。
「捜査のために聞いてるんじゃないです。あなたのために聞いてます」
結菜は少しの間、黙っていた。
廊下の蛍光灯が、静かに光っている。
言わなくていい。
ずっとそう思ってきた。
でも、言葉が出てきた。
「……大学3年の春」
自分の声が、遠くに聞こえた。
「あいつに呼び出された。私のことを見ていたと言って、あることをネットに拡散すると脅してきた」
木崎は何も言わなかった。ただ、聞いていた。
「脅されて、言われるがまま…苦しくても何も出来なかった。彼は私に…」
言葉が、そこで止まった。
続きを言おうとして、でも、声が出なかった。
「清瀬さん」
木崎が、静かに遮った。
「それ以上は、言わなくていいです」
結菜は木崎を見た。
木崎の目は真っ直ぐだった。怒りとも、哀れみとも違う。ただ、真剣に、結菜を見ていた。
「わかりました。十分です」
その言葉が、やけに温かかった。
「……誰にも言えなくて、大学を辞めた。それだけです」
「それだけで、十分すぎます」
沈黙が落ちた。
木崎は何も言わなかった。ただ、隣に立っていた。
それが今は、ありがたかった。
「行こう。やることがある」
歩き出した背中に、木崎の足音がついてきた。
*
その夜、結菜はアパートのソファで資料を広げていた。
鈴原隆太。元非常勤講師。ライター。
なぜこの男は、佐伯を追い詰めようとしていたのか。
なぜ西条に連絡を取ったのか。
2つの謎が、頭の中でぐるぐると回っていた。
スマートフォンが鳴った。
歩美からだった。
「結菜、大丈夫?佐伯のこと調べてるんだって?なんか心配で。無理しないでね。」
結菜は画面を見つめた。
歩美らしい、短いメッセージだった。
いつもこうだ。さりげなく心配してくれる。
「大丈夫。ありがとう。」
返信して、スマートフォンを置いた。
窓の外に、薄い月が出ていた。
雨は上がっていた。
でも、結菜の胸の中は、まだどこか湿っていた。
木崎の声が、頭の中に残っていた。
「わかりました。十分です。」
たった一言。
でもその一言が、ずっと欲しかった言葉だったと、今夜初めて気がついた。
15年間、ずっと一人で抱えてきた。
それが正しいと思っていた。
でも今夜は少しだけ、そうじゃなかったかもしれないと思った。




