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嘘つきな春  作者: 柚月


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第3章 対峙

佐伯涼の任意同行は、翌日の午後に実現した。


彼は思ったより素直に応じた。

それがかえって、結菜の警戒心を強めた。

こういう男は、自分が有利だと思っているときほど、協力的な顔をする。


取調室に向かう廊下を歩きながら、結菜は自分の呼吸を整えた。


落ち着け、落ち着くんだ。


乱れるな、感情を出すな。


あの男の前では、ただの刑事でいるんだ。





取調室のドアを開けると、佐伯は椅子に深く座って腕を組んでいた。


あの頃より太って、髪が薄くなっていた。

でも、その目だけは変わっていなかった。

人を値踏みするような、薄笑いを含んだ目。


結菜の顔を見た瞬間、その口の端がゆっくりと上がった。


「……久しぶりだな、結菜。」


結菜は表情を変えなかった。

椅子を引いて、真向かいに座る。

木崎が隣に控えた。


「佐伯涼さん。鈴原隆太さんとの関係についてお聞きします」


「刑事さんになったんだ」


佐伯は質問を無視して結菜を眺めた。


「似合わないな。昔はもっとおとなしかったのに」


木崎がわずかに身を固くするのを感じた。


「鈴原さんとはいつから連絡を取っていましたか」


「懐かしいな」


佐伯は続けた。


「あの頃の顔、まだ覚えてるよ。黙ってたよな、ずっと。何も言わずに消えちゃってさ。」


(・・・黙れ。)


声には出なかった。

胃の底が冷えていくのを感じながら、結菜はペンを走らせた。


「質問に答えてください」


「去年からだよ。SNSで繋がった」


「何がきっかけで」


「それだけだよ」


佐伯は薄く笑った。


「でも鈴原のやつ、妙に正義感が強くてさ。昔のことをほじくり返そうとしてたんだよ」


結菜はペンを止めた。


「昔のこと、とは」


「わかるだろ」


佐伯は身を乗り出した。声が低くなった。


「お前が誰にも言わずに消えた話。鈴原、なぜか知ってたんだよ。俺に、ちゃんと話せって言ってきた。今更何だよって話だけど」


「最後に鈴原さんと会ったのはいつですか」


「3週間前。飯を食っただけだ」


「何を話しましたか」


佐伯は少し間を置いた。

初めて、わずかに表情が揺れた。


「……昔話。大学の頃の話だよ」


佐伯は結菜を見た。


「お前のことも、少し話した」


「私のことを、なぜ」


「鈴原がお前のことを気にしてたから」


佐伯は肩をすくめた。


「お前が突然消えたことを、妙に気にしてたんだよ。俺には関係ない話だけどな」


「鈴原さんが亡くなった夜、どこにいましたか」


「家にいた。一人で」


「証明できますか」


「できない。一人暮らしだからな」


アリバイなし。結菜はそれを書き留めた。


部屋に沈黙が落ちた。


佐伯はその沈黙を、楽しむように結菜を見ていた。


「もう一つだけ」


結菜は静かに言った。


「鈴原さんは、あなたに何を話せと言っていたんですか。具体的に」


佐伯の目が、わずかに細くなった。


「さあな。覚えてない」


「そうですか」


結菜は手帳を閉じた。立ち上がりながら、佐伯を真っ直ぐに見た。


「今後、連絡なく遠出することはご遠慮ください」


「えっ、もう終わり?」


佐伯は立ち上がりながら振り返った。


「お前、西条先生とまた会ったんだろ。あの人、今もお前のこと気にしてるみたいじゃないか」


結菜は答えなかった。


「あの人、知らないんだろうな。お前に何があったか」


佐伯はドアノブに手をかけながら、振り返らずに言った。


「知ったら、どんな顔するかな」


ドアが閉まった。


取調室に、静寂が落ちた。





廊下に出ると、木崎が結菜の隣に立った。


しばらく、2人とも何も言わなかった。


「清瀬さん」


木崎の声は静かだった。


「少しだけ、聞いていいですか」


結菜は廊下の窓を見た。外は曇っていた。


「あの男と、何があったんですか」


木崎は真っ直ぐ結菜を見た。


「捜査のために聞いてるんじゃないです。あなたのために聞いてます」


結菜は少しの間、黙っていた。


廊下の蛍光灯が、静かに光っている。


言わなくていい。


ずっとそう思ってきた。


でも、言葉が出てきた。


「……大学3年の春」


自分の声が、遠くに聞こえた。


「あいつに呼び出された。私のことを見ていたと言って、あることをネットに拡散すると脅してきた」


木崎は何も言わなかった。ただ、聞いていた。


「脅されて、言われるがまま…苦しくても何も出来なかった。彼は私に…」


言葉が、そこで止まった。


続きを言おうとして、でも、声が出なかった。


「清瀬さん」


木崎が、静かに遮った。


「それ以上は、言わなくていいです」


結菜は木崎を見た。


木崎の目は真っ直ぐだった。怒りとも、哀れみとも違う。ただ、真剣に、結菜を見ていた。


「わかりました。十分です」


その言葉が、やけに温かかった。


「……誰にも言えなくて、大学を辞めた。それだけです」


「それだけで、十分すぎます」


沈黙が落ちた。


木崎は何も言わなかった。ただ、隣に立っていた。


それが今は、ありがたかった。


「行こう。やることがある」


歩き出した背中に、木崎の足音がついてきた。



その夜、結菜はアパートのソファで資料を広げていた。


鈴原隆太。元非常勤講師。ライター。


なぜこの男は、佐伯を追い詰めようとしていたのか。


なぜ西条に連絡を取ったのか。


2つの謎が、頭の中でぐるぐると回っていた。


スマートフォンが鳴った。


歩美からだった。


「結菜、大丈夫?佐伯のこと調べてるんだって?なんか心配で。無理しないでね。」


結菜は画面を見つめた。


歩美らしい、短いメッセージだった。


いつもこうだ。さりげなく心配してくれる。


「大丈夫。ありがとう。」


返信して、スマートフォンを置いた。


窓の外に、薄い月が出ていた。


雨は上がっていた。


でも、結菜の胸の中は、まだどこか湿っていた。


木崎の声が、頭の中に残っていた。


「わかりました。十分です。」


たった一言。


でもその一言が、ずっと欲しかった言葉だったと、今夜初めて気がついた。


15年間、ずっと一人で抱えてきた。


それが正しいと思っていた。


でも今夜は少しだけ、そうじゃなかったかもしれないと思った。


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