第2章 封印
聴取が終わったのは、夕方だった。
西条悠介のアリバイは、完全ではなかった。被害者の鈴原隆太とは、もともと面識はなかったという。
最近、鈴原から連絡が来て、やり取りをするようになったと認めた。
なぜ鈴原が自分に連絡してきたのか、理由はわからないと、西条は繰り返した。
動機については「わからない」と繰り返した。
嘘をついている様子はなかった。
でも、何かを隠している気配はあった。
結菜はそれを見逃さなかった。
*
駐車場に出たところで、木崎が声をかけてきた。
「清瀬さん。」
「なに?」
「あの人、知り合いですか?」
やっぱり気づいていた。結菜は少し歩いてから、立ち止まらずに答えた。
「昔の話だよ。」
「どのくらい昔の?」
「捜査に関係ないでしょ。」
木崎は黙った。でも追いかけてくる足音は続いている。
「……でも、関係あるかもしれないなら、言ってほしいです」
その声は責めるトーンではなかった。ただ、真っ直ぐだった。
結菜は立ち止まった。
「大学のとき、少し関わりがあった。それだけよ。」
「わかりました」
木崎はそれ以上聞かなかった。それがこの男の賢いところだと結菜は思った。
*
署に戻ってから、2人は手分けして資料を当たった。
鈴原隆太の交友関係、過去の仕事履歴、大学時代の記録。木崎がデータを洗い出し、結菜が分析する。いつもの流れだった。
「鈴原、非常勤講師として大学に戻ってきたのが7年前です。それ以前は出版社に勤めていたようで」
木崎がモニターを見ながら言った。
「西条への連絡はいつから?」
「3ヶ月前です。鈴原からの一方的な連絡で始まっていて、最初は西条も戸惑っていたようです。」
「内容は?」
「まだ不明です。鈴原のスマートフォン、解析中で。」
結菜は手帳にメモを走らせた。
なぜ鈴原は、面識もない西条に連絡をしたのか。
3ヶ月前、何があった。
「清瀬さん」
木崎の声で、考えが途切れた。
「今日、上がっていいですよ。顔色悪いです」
「え、そう見える?」
「そう見えます。」
結菜は手帳を閉じた。
「もう少しだけ。」
「……わかりました」
木崎は何も言わずに、コーヒーをもう1杯持ってきた。
結菜は受け取って、一口飲んだ。
温かかった。
*
アパートに帰ったのは、夜の10時を過ぎていた。
結菜はシャワーも浴びずにソファに座った。
部屋は暗い。電気をつける気になれなかった。
西条悠介の顔が、頭の中でくっきりと浮かんでいた。
聴取中、結菜はずっと手帳に目を落としていた。でも西条の声は、確かに届いていた。
穏やかで、静かで、でも何かをこらえているような声。
15年前と、何も変わっていなかった。
「元気だったんですね。」
その言葉が、また浮かんだ。
” 元気だったんですね。"
そんな言葉をかけられる資格が、わたしにあるの。
でも。
……あなたは、何も知らなかった。
結菜は自分の手のひらを見た。
薄暗がりの中でも、かすかな傷跡が見える。
大学を辞めた年の冬、気づいたら壁を殴っていた夜の痕だ。
誰にも言えなかった夜の、唯一の痕跡。
あの頃、誰にも言えなかった。
西条には特に。
彼を守りたかったのか。
それとも、誰かに話せるほど自分が強くなかっただけなのか。
今でもわからない。
ただ、逃げるように大学を去って、そのまま15年が経った。
刑事になったのは、偶然じゃない。
誰かを守る側に立ちたかったのか。あるいは、あの夜の無力な自分を、ずっと罰し続けているのか。
*
スマートフォンが鳴った。
長谷川歩美からのメッセージだった。
「結菜、大丈夫?西条先生が参考人になってるって聞いたけど……あの人、昔から優しかったよね。犯人じゃないといいね。」
結菜は画面を見つめた。
歩美はどこでそんな情報を手に入れているのだろう。捜査情報は外に出ていないはずなのに。
でも、それよりも。
西条のことを「優しかった」と言える人間が、自分以外にもいたことが、なぜか少しだけ、胸に刺さった。
「大丈夫。ありがとう。でも捜査のことは話せないよ。」
短く返信して、スマートフォンを置いた。
窓の外で、雨がまだ降っていた。
結菜は目を閉じた。
明日も、雨かもしれない。
それでもいい。
濡れるほうが、頭が冷える。
感情が、凍る。
そうやって、また明日を乗り越える。
15年間、そうやってきた。
*
翌朝、署に出ると、木崎がコーヒーを2つ持って待っていた。
「おはようございます。」
「うん。」
「昨日、ちゃんと寝ましたか?」
「まあまあ。」
「まあまあ、は寝てないってことですね。」
結菜はコーヒーを受け取って、デスクに座った。
「鈴原の交友関係、洗い直したら面白いものが出てきました」
木崎が資料を広げた。
「鈴原と大学時代に接点があった人物がもう1人います」
木崎が写真を1枚、机の上に置いた。
「佐伯涼、38歳。現在は都内在住、フリーランスのカメラマンです。
大学時代、清瀬さんと同じ学部に在籍しています。」
結菜の手が、止まった。
写真の中の男は、あの頃より太って、髪が薄くなっていた。
でも、その顔は知っていた。
佐伯涼。
結菜が大学3年のとき、彼女を呼び出した男。
西条との関係を「見てしまった」と言って、笑っていた男。
「……ネットで教え子と熱愛って拡散してやる。先生の立場、終わるな。でも、言わなければ……」
吐き気がした。
でも、顔には出さなかった。
「知ってる顔ですね。」
「え?」
「この男も、大学時代に知っていた。」
木崎が静かに息を吸った。
「それは……捜査に関係しますか」
今度は、すぐに答えられなかった。
関係する。おそらく、深く。
でも、それを言葉にしたら、15年間、鍵をかけて閉じ込めていたものが、全部溢れ出してしまう気がした。
「……少し時間がほしい」
結菜は立ち上がり、廊下に出た。
窓の外に、薄い春の空が広がっていた。
桜の蕾が、まだ固く閉じていた。
まだ、咲かないでいい。
結菜はそう思いながら、静かに息を吐いた。




