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嘘つきな春  作者: 柚月


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第1章 3月の雨

春は、嘘をつく。

桜の美しさで、痛みを隠す。

温かな風で、冷たい記憶を包む。

それでも人は、春を待つ。


15年間、誰にも言わなかった。

言えなかったのか、言いたくなかったのか、今でも、わからない。


これは、嘘に塗り固められた、春の話だ。

春は、嘘をつく。


桜の美しさで、痛みを隠す。


温かな風で、冷たい記憶を包む。


それでも人は、春を待つ。


15年間、誰にも言わなかった。


言えなかったのか、言いたくなかったのか、今でも、わからない。


これは、嘘に塗り固められた、春の話だ。


清瀬結菜、35歳。捜査1課の刑事。


目が覚めたとき、部屋はまだ暗かった。


6時10分。アラームより3分早い。いつものことだった。


カーテンを開けると、3月の空は薄墨色の雲に覆われていた。


今日は雨になりそうだが、結菜は傘を持たないことにした。


濡れるほうが、頭が冷える気がしていた。刑事になってからずっとそうだった。


コーヒーを立ったまま飲んで、着替えて、鍵を持ってドアを閉める。


エレベーターを待つ間、スマートフォンを確認するとメッセージが1件。


長谷川歩美からだった。


「おはよう!今日も頑張ってね。

なんか最近忙しそうだから心配してるよ。」


「ありがとう。大丈夫だよ。」


結菜は短く返信した。歩美とは大学時代からの友人だ。


結菜が数少ない「友人」と呼べる存在。


大学を辞めた後も、ずっと連絡を取り合ってきた。


エレベーターに乗り込んで、ドアが閉まった。



署に着くと、木崎貴大がすでにデスクで資料を広げていた。


30歳で整った顔立ちで署の女性陣に人気があるが、本人はまるで意に介さない。


余計なことを喋らず、必要なことだけを言う。


結菜が唯一、背中を預けられると思っている相棒だった。


「おはようございます。今日は雨ですね」


「うん」


「傘、持ってきてないでしょう」


「うん」


木崎は何も言わなかった。いつも繰り返されるやり取りだった。


コーヒーが、音もなく置かれた。ちょうどいい濃さだった。


結菜の好みを、何も聞かずに把握している。


「昨日の田中案件、起訴に持ち込めそうです」


木崎が資料を整えながら言った。


「清瀬さんの読み、当たってましたね。やっぱり共犯者がいた」


「最初からそう見えてた」


「どこで気づいたんですか」


「靴」


結菜はコーヒーを1口飲んだ。


「現場に2種類の靴跡があった。サイズが違った。それだけ」


木崎は少し間を置いてから「なるほど」と言った。


結菜は窓の外を見た。雨が降り始めていた。



一報が入ったのは、午前10時過ぎだった。


「鈴原隆太、42歳。今朝、自宅マンションの駐車場で発見されました。

頭部への鈍器による殴打。死亡推定時刻は昨夜の11時から深夜1時の間」


係長の声を聞きながら、結菜は手帳を開いた。


「被害者は元大学職員、現在はライター。担当は清瀬と木崎。今すぐ現場へ」


「はい」


木崎がすでにコートを手に立っていた。



現場は雨の中だった。


規制線をくぐりながら、結菜は駐車場を見渡した。


鑑識がすでに動いていて、白いテントが張られている。


マンションの出入り口から少し奥まった場所。防犯カメラの死角。


偶然ではない。場所を知っている人間の犯行だ。


「鈴原の交友関係は」


「今照会中です。ただ——」木崎が少し間を置いた。

「直近の通話履歴が残っていて。大学関係者の名前が出ています」


「名前は……」


木崎が、ためらいなく言った。


「西条悠介。桐陵大学理工学部の教授です」


結菜の手が、止まった。


ペンが、紙の上で静止した。


西条悠介。


その名前が鼓膜に触れた瞬間、何かが胸の奥で音を立てた。小さな、でも確かな音だった。


「清瀬さん?」


「……続けて」


「48歳。鈴原とは最近、連絡を取り合っていた形跡があります。関係性はこれから確認します」


結菜はペンを動かした。


文字が、いつもより少し歪んだ。



西条悠介。


15年間、その名前を口に出したことはなかった。


大学2年の秋。西条は准教授だった。


30代前半で、穏やかな目をしていた。


声が静かで、でも言葉に力があった。


関係が始まったのは、冬の終わりだった。


深夜の研究室。誰もいない廊下。


窓の外に、雪が降っていた。


西条は言った。


「これは、正しくないかもしれない」


結菜は答えた。


「わかってます」


それだけで十分だった。


秘密だった。誰にも言えない、でも誰にも渡したくない、小さくて温かいものだった。


あの春は、本当に美しかった。


だから、失ったとき、何もかもが終わった気がした。



大学の応接室は、古びた木の匂いがした。


結菜は椅子に座り、手帳を開いたまま、ドアが開くのを待った。


木崎が隣に座る。何も言わない。それでいい。


感情を出さない。刑事として話す。あの頃のことは、関係ない。


今日はまず、任意で話を聞く。


ただそれだけだ。


ドアが、開いた。


入ってきた男は、記憶の中よりも白髪が増えていた。


少し痩せて、目元に細かい皺が増えていた。


でも、歩き方は変わっていなかった。少し首を傾ける癖も。


静かに部屋を見渡してから相手の目を見る。


15年が、この人の上では静かに流れたらしかった。


西条は部屋を見渡して、そして結菜を見た。


その瞬間、男の足が、ほんの一瞬だけ止まった。


目に、何かが走った。動揺でも安堵でもなく、もっと複雑な、言葉にならない何かだった。


結菜は表情を動かさなかった。


「西条さん。清瀬と申します。いくつかお聞きしたいことがあります」


自分の声が、驚くほど平静だった。


西条はゆっくりと席に着き、結菜を見つめたまま言った。


「……元気だったんですね」


木崎がわずかに眉を上げるのを、視界の端で感じた。


「事件についてお聞きします」


結菜は手帳に目を落とした。


“元気だったんですね。”


その言葉が、胸の奥で静かに波紋を広げた。


15年ぶりに聞く、その声。


怒りとも、懐かしさとも、悲しさとも、うまく区別がつかなかった。


胸の奥で、何かが、音もなく揺れていた。

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