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君の好きな花の名前  作者: 乾為天女


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第9話 匂いの手がかり

 2026年5月2日(土)の夕方、花川商店街の空気は少し湿っていて、コロッケ屋の油の匂いに混じって、どこかから薄い花の甘さが漂っていた。何でも屋の空き店舗には、掃除のあとに残った洗剤の匂いがまだ少しある。床は乾いているのに、窓の隅だけが冷たい。


 表通りからは自転車のベルが遠くに聞こえる。店の奥では、櫂が工具箱の留め金を一つずつ確かめる音がした。急ぐ音じゃないのに、穂花の心だけが先走る。


 戸が開いて、年配の女性が入ってきた。第4話の依頼人だ。黒い手提げ袋を胸に抱え、椅子の前で一度だけ立ち止まる。指先が持ち手を二回握り直す。

 「……命日まで、三日なんです」

 穂花は頷き、椅子を引いた。

 「2026年5月5日(火)ですね。朝に手向けられる形にします」

 櫂が机の端を指で押さえ、低く言った。

 「約束するな」

 穂花は一拍置いて、言い換える。

 「間に合う道を、最後まで探します」


 条が紙袋を二重に抱えて戻ってきた。中から小さな鉢が三つと、花屋のレシートが数枚出てくる。角がきちんと揃っている。

 「候補、持ってきた。店の人が“夜に匂いが強いのがある”って」

 穂花は鉢を順に並べ、鼻を近づけた。甘い、青い、土。どれも「胸がきゅっ」とは違う気がする。利里がカップを置き、蒸気の匂いが一瞬だけ混ざる。

 女性は一つずつ見て、首を振った。首の動きは小さいのに、迷いがない。

 「違うんです。もっと……夜に、胸がきゅっとする匂いで……薄紫で……白くなる」

 穂花は思わず、口を尖らせた。

 「胸がきゅっとする匂いって、難問すぎませんか」

 条が顔色ひとつ変えず返す。

 「胸がきゅっとするか、しないか。判断は本人」

 利里がカウンターの端から、いつもの声で言った。

 「試すなら、夜」

 「今、夕方ですよ。夜、もうすぐ」

 穂花が言うと、利里は砂糖の瓶を同じ位置に戻しながら続ける。

 「夜の匂いが残るなら、風の通り道」

 穂花はその言葉を反芻して、ぱっと立ち上がった。


 四人は花むすびの裏へ回った。日が落ちきる前で、空はまだ薄い橙色だ。水道の横のバケツは、縁だけが少し光っている。穂花が磨いたせいだ。

 利里は壁の上のほうを指さした。小さな換気口。金網に、埃が薄く積もっている。

 「ここ」

 穂花は背伸びして鼻を寄せた。冷たい金網が鼻先に触れ、くすぐったい。

 「……」

 最初は埃の匂いだけだった。けれど、息を二回、ゆっくり吸った三回目に、ほのかな甘さが混ざる。外の油の匂いとは違う、柔らかい甘さ。

 穂花は思わず言った。

 「薄紫の花が……白くなるやつ?」

 櫂の足音が、一瞬だけ止まった。止まってから、いつも通りの低い声が返る。

 「……知らない」

 言いながら、櫂は換気口の金網の端を指で拭った。埃を払うだけの動きなのに、線が一本、真っ直ぐに残る。穂花はその線を見て、なぜか喉が渇いた。


 女性が後ろから、かすれた声で言った。

 「ここ……花屋さんの匂いがする」

 穂花は振り向き、女性の目を見た。女性は泣いていない。けれど、息が少しだけ震えている。

 「この匂い、覚えてます?」

 女性は小さく頷いた。

 「夫が、帰ってくる前に……この匂いがすると、なぜか台所の手を止めてました」

 穂花は、その場面が頭に浮かんでしまい、喉の奥がきゅっとなった。包丁の音が止まり、窓が少しだけ開く。まだ見えない人を、匂いで迎える。


 条がメモ帳を出し、鉛筆を走らせた。利里は何も書かない。ただ、換気口の下に落ちた埃を、指先で一つにまとめて捨てた。

 穂花はもう一度だけ鼻を寄せる。甘さは、確かにある。どこかで嗅いだ匂いだ、と身体が言っている。

 そのとき、櫂の袖口からも同じ甘さが一瞬だけ漂った。櫂自身が気づいたのか、袖を握って匂いを閉じ込めるみたいに、手を丸める。

 穂花は見ないふりをして、言葉だけを落とした。

 「……知ってる匂いですね」

 櫂は返事をしない。代わりに、バケツの位置を二ミリ直し、換気口の下に落ちる風を確かめるみたいに手のひらをかざした。


 商店街の表通りから、シャッターを下ろす音が聞こえた。夜が近づく音だ。

 女性は手提げ袋を抱え直し、穂花に向かって言った。

 「三日……いえ、二日ですね。明日が過ぎたら、すぐ」

 穂花は頷いた。

 「5月5日の朝、花を持って行きます。匂いの花の名前は、まだ途中。でも、忘れません」

 櫂が低く言う。

 「約束じゃない」

 「分かってます。やり方です」

 穂花は笑って返し、換気口の前の一本の埃の線を見た。真っ直ぐすぎる線。指で払った人が、真っ直ぐすぎる人。


 帰り道、穂花は自分の手のひらを鼻に近づけた。さっきの甘さは、もうほとんど残っていない。それでも、櫂が「知らない」と言った声だけが、妙に残った。

 知ってるのに言わない匂い。穂花は、その匂いを覚えた。



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