第8話 利里の「同じ手順」
2026年4月28日(火)の昼過ぎ、花川商店街の喫茶店は、窓際の光がテーブルの木目をくっきり浮かせていた。穂花はカバンの中から紙を取り出し、指先で角を揃えようとして、うまくいかずに息を吐いた。
紙は、不採用通知だった。封筒を開けたのは昨夜。眠れないまま朝になって、今日ここに来た。文字は丁寧で、内容は冷たい。読み返さない。読み返さなくても、胸の奥が勝手に覚えている。
面接の部屋の白い壁、椅子の硬さ、相手の「ご縁がありましたら」という声。最後に言われた「後日、連絡します」が、丁寧な布で包まれた拒否だったことを、穂花は今になって理解してしまった。
「……大丈夫」
口に出したのに、手が震えた。カップを持ち上げようとして、肘が当たり、水のグラスが倒れた。ぱしゃ、と小さな音。水がテーブルの端から落ちて、床に点々と広がる。
穂花は慌てて立ち上がり、ナプキンを掴んだ。
「ごめんなさい! 私、ほんと……」
言い訳を探す前に、利里が来た。顔はいつも通りで、手だけが速い。濡れたところにナプキンを置き、もう一枚を重ね、さらにコースターを二枚、ぴたりと重ねて差し出した。
「これ」
「……二枚?」
穂花が受け取ると、コースターは冷たくなく、乾いていた。利里はカウンターに戻る途中で、同じ温度の紅茶を淹れ始める。湯気の立ち方まで、毎回同じに見えた。
条が伝票の束を抱えて入ってきて、足を止めた。床の水滴を見て、すぐモップを取りに行こうとしたが、利里が短く言った。
「今、拭く」
条は頷き、コースターの二枚重ねを見て訊ねた。
「二枚の理由は」
利里は紅茶を置く音も立てずに答える。
「一枚だと、たまに水が落ちる」
条はそれをメモに書こうとして、やめて、紙の角を揃え直した。穂花はその動きに、なぜか少し救われた。角を揃えるだけで、今日が崩れきらずに済む気がする。
穂花はコースターで水を押さえながら、胸の奥のざわざわが少しだけ薄くなるのを感じた。利里は励まさない。叱らない。いつもの手順で、濡れたものを乾かす。
穂花は小さく言った。
「……面接、落ちたんです。昨日」
利里は「そう」とも「残念」とも言わず、紅茶のカップを穂花の前に置いた。取っ手の向きが、飲みやすい側に揃っている。
「熱い」
それだけで、穂花は笑いそうになった。涙じゃなく、笑いのほうが先に来たのが悔しくて、紅茶の湯気に顔を寄せる。
そのとき、椅子が小さく鳴った。櫂がいつの間にか隣の席に座っている。穂花のカバンの口から、履歴書用紙の端が少し濡れているのを見て、櫂は低く言った。
「余計なことをするな」
「私が、こぼしました……」
「だから、余計なことを増やすな」
櫂はそう言って、穂花のカバンから履歴書用紙を一枚だけ抜き取り、濡れた端を確認した。破れないように持つ角度だけが妙に正確だ。
櫂は条の伝票用紙の束から、真っ白な紙を一枚借りた。条は黙って頷き、代わりに一枚減った束をすぐ揃え直す。
櫂は濡れた履歴書の項目を、同じ位置に、同じ行間で写し始めた。字が曲がらない。最後に、穂花の名前を書くところで、一瞬だけ筆圧が弱くなった。
穂花は見ていられなくて、視線を逸らし、窓の外の花むすびのシャッターを見た。埃を払った一筋が、まだ残っている気がした。
「……まだ、やれる」
声は自分に向けたつもりだった。
利里が、カップの縁を指で一度だけ整えて言った。
「花の名前は、呼ぶ人で変わる」
穂花は瞬きをした。櫂は写している手を止めない。止めないまま、聞こえないふりをしているのが分かった。
条が床の水滴を拭き終え、ナプキンをきれいに畳んだ。利里は二枚重ねのコースターを、乾いた方を上にして戻す。手順が同じだ。毎回、落ちる水を一枚目で受けて、二枚目で残りを止める。
穂花は紅茶を一口飲み、舌の熱さに顔をしかめた。利里が小さく言った。
「熱いって言った」
穂花は噴き出して、今度こそ笑った。
櫂が新しい紙を穂花の前に置いた。置く音がしない。
「……替えた」
「ありがとう」
穂花が言うと、櫂は花の図鑑を抱え、棚に戻した。背表紙の位置を、周りとぴたりと揃える。返事のかわりに、背中が少しだけ丸くなる。
穂花は机の上の不採用通知をそっと畳み、コースター二枚の間に挟んだ。濡れない場所。落ちない場所。
喫茶店を出たあと、穂花は遠回りして花むすびの裏へ回った。水道の横のバケツが、いつも通り置かれている。穂花は袖をまくり、濡れていない布で縁を拭いた。磨くというより、形を整えるみたいに。バケツの底の傷が、少しだけ光を返す。
「明日、掃除、続けます。……最低限の形、作る」
独り言みたいに言うと、背後で足音が止まった。櫂が立っている。何も言わず、バケツの位置を二ミリだけ直した。
穂花は手を叩きたくなって、でも叩かずに笑った。
利里は喫茶店の戸口から、同じ声で言った。
「同じ手順。明日も」




