第7話 許しは、喫茶店の奥
2026年4月24日(金)の昼前、花川商店街の喫茶店は、豆を挽く音が店の奥まできれいに届いていた。表の席は常連の会話で温かいのに、利里が案内した奥の小部屋は、壁時計の針が一段とよく聞こえる。
丸いテーブルの向こうに、背の低い老人が座っていた。膝の上に、厚い手帳と印鑑の入った小袋。湯気の立つコーヒーには砂糖が二つ、きっちり並んでいる。利里は「奥、静か」とだけ言って、扉をそっと閉めた。
櫂は椅子に座らず、立ったまま言った。
「手続きを止めた理由を、聞きに来た」
老人は目を細めて櫂を見て、ゆっくり頷いた。
「花むすびの件か。……止めた。お前の母さんに、借りがある」
穂花は言葉を飲み込んだ。借り、という単語が、櫂の肩を一瞬だけ固くするのが分かった。
櫂は即座に返した。
「借りなど、いらない」
「いらないと言われてもな」
老人は手帳を叩き、紙の端を揃え直す。揃え直しながら、少しだけ声が柔らかくなった。
「借りを返せないまま死ぬのは、落ち着かん」
「死ぬとか言わないでください」
穂花が反射で口を挟むと、老人は目を丸くし、次に小さく笑った。
「若いのは、すぐ止めるな」
「止めたくなります。……だって、まだコーヒー熱いし」
櫂は穂花を見ない。代わりに、テーブルの端の砂糖を二つとも老人側へ揃えた。揃えた後、指先が少しだけ震えて、すぐポケットに隠れた。
老人は咳払いを一つして言った。
「手続きは、止めたままだ。店を動かすなら、条件がある」
穂花は頷いた。
「条件、聞きます。いつから、どうすればいいかも」
老人は穂花をちらっと見て、手帳を開いた。開く動きが遅い。ページが重い。
「……まず、店の中を見せろ。空っぽのままじゃ話にならん。掃除して、最低限の形が見えたら話を進める」
櫂の喉が動いた。返事が出る前に、老人が続けた。
「それと、もう一つ。別の用がある」
穂花は背筋を伸ばした。
「何ですか」
老人は手帳の間から、白い封筒を一通出した。宛名が書けていない。封もしていない。中身は、きっと、まだ文字になっていない。
「妻が入院してる。毎週、手紙を届けたい。……だが、病院まで行く足がな。書く手も、最近はふるえる」
穂花は「やります」と言いかけて、舌の上で一度止めた。櫂の「約束するな」が頭をよぎる。
それでも、穂花は言い直した。
「週に一度、ここで受け取って届ける形ならできます。病院の受付の決まりも確認します」
老人の眉が少し動いた。
「……そこまで言うのか」
「言います。手紙は、言わないと届かないから」
櫂が低く言った。
「それは、何でも屋の仕事じゃない」
「じゃあ、櫂さんは“何でも屋”って言葉の意味を、辞書で引いてください」
穂花が笑いながら返すと、老人が肩を揺らして笑った。笑いながらも、封筒を握る指は力が入っている。
条がいない代わりに、利里が扉の外から細い声で言った。
「ペン、ある」
次の瞬間、扉が少しだけ開いて、一本のボールペンが滑り込んだ。利里は顔を出さない。手だけが仕事をした。
櫂はペンを拾い、老人の前へ置いた。置く音がしないように、指先でそっと。
「……書け」
老人は櫂を見上げた。
「命令か」
「命令じゃない。……手紙だ」
櫂はそう言って、視線を落としたまま、封筒の角を整えた。整える動きが、いつもより遅い。
老人はペンを握った。握った瞬間、確かに手が震えた。穂花は「大丈夫」と言わない。代わりに、テーブルの上のナプキンを一枚ずつ取り、封筒の下に敷いた。インクがにじまないように。
老人はゆっくり、文字を書き始めた。書き始めると、震えが少しだけ小さくなった。
書き終えた封筒を、老人は穂花へ差し出した。差し出す腕が、最後だけ少し重たくなる。
「……頼む」
穂花は両手で受け取り、胸の前で軽く抱えた。
「預かります。病院の受付時間を確認して、いちばん確実な日に届けます」
櫂が小さく息を吐いた。吐いた息が、笑いなのか、諦めなのか分からない。
老人は手帳を閉じ、印鑑袋を握り直した。
「掃除だ。最低限の形。見せてみろ」
櫂はうなずいた。声は出さない。代わりに、胸ポケットを一度だけ押さえる。そこには、折りたたんだ「抱負」の紙があるはずだった。
喫茶店を出ると、商店街の風が少し冷たかった。
コーヒーの匂いが背中から離れて、代わりに魚屋の氷の匂いが鼻へ戻る。穂花は封筒を抱えた腕に力が入っていることに気づき、指を一本ずつ緩めた。穂花は封筒を濡らさないように抱え、花むすびのシャッターの前で立ち止まる。
櫂は鍵穴を見つめ、言葉のかわりに指で埃を一筋だけ払った。
「……明日、道具を揃える」
穂花は、手を叩きたくなって、でも叩かずに頷いた。
「明日、雑巾と手袋。できるところから始めましょう」




