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君の好きな花の名前  作者: 乾為天女


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第6話 押し花の中の「抱負」

 2026年4月20日(月)の夜、花川商店街の街灯は雨上がりの路面に細い光を落としていた。何でも屋の空き店舗は、看板の花の印だけが白く浮いて見える。戸を閉めると、外のコロッケ屋の声が遠くなり、店の中の時計の針だけが妙に大きく聞こえた。

 机の上に、条が伝票の控えを並べた。角はきっちり揃い、上に小さな重しの古本が置かれている。利里は湯気の立つ紅茶を四つ用意し、カップの取っ手を同じ向きに揃えた。櫂は椅子に浅く座り、封筒を指先だけで持っている。押し花の影が薄く透けて、封筒が呼吸しているみたいに見えた。


 「持ち主の名前、書いてないですね」

 穂花が言うと、条が頷く。

 「中に手がかりがあるかも。返すために、確認は必要」

 穂花は櫂を見る。櫂は「勝手に」と言いかけて、口を閉じた。封筒の糊の端を、指でそっとなぞる。破らないように、剥がす角度だけが丁寧だった。


 穂花は声を落として言う。

 「開けるね。返すため」

 櫂は返事をしない。その代わり、封筒の端を、破れない位置へ持ち替えた。利里がカップを一つだけ穂花の近くに寄せる。温度の後押し。


 条が封の折り目をそっと開き、穂花が中身を取り出した。押し花が一枚。薄い紫が、縁だけ白く抜けている。匂いはほとんど残っていないのに、胸の奥に甘さが一瞬だけ立った気がした。

 押し花の下から、短い紙が落ちる。鉛筆の文字が、まっすぐで、余白が整っている。左下に小さく「令和元年五月」と書かれていた。


 穂花は、つい、読んでしまった。

 「……『令和になったら、花屋を続ける。櫂』」

 声に出した瞬間、自分でも可笑しくなって、笑いが漏れた。

 「今さらだけど、令和の抱負……!」

 穂花が言い終える前に、椅子が鳴った。櫂が一気に立ち上がり、紙をひゅっと奪う。奪い方は乱暴じゃない。角を折らない速さだけが速い。

 「読むな」

 「だって、名前……! 書いてあるから……!」

 「読むな」

 同じ言葉なのに、二回目は少しだけ低かった。


 利里は紅茶を一口飲み、カップを置く音も立てずに言った。

 「抱負は、書いた瞬間から古くなる」

 穂花が「それ、名言っぽい」と言いかけたところで、条が表情を変えず続ける。

 「古くなったなら、書き直せばいい」

 利里が頷く。

 「書き直すなら、今日」

 穂花は三人のテンポに吹き出しそうになり、口を押さえた。


 「……抱負って、抱える負けって書くんでしたっけ」

 穂花がわざと間違えると、櫂が紙を折りながら低く言った。

 「負けじゃない」

 「じゃあ、抱える……何」

 「……ふ」

 「ふ?」

 穂花が首を傾げると、条が淡々と補足した。

 「未来の自分に出す、短い手紙です」

 利里が一言。

 「重いと、隠す」

 櫂は紙を八回、同じ幅で折った。折り目が揃いすぎて、紙が小さな箱みたいになった。


 「……それ、いつ書いたんですか」

 穂花が聞くと、櫂は答えない。代わりに、胸ポケットに紙を押し込み、そこを一度だけ指で押さえた。押さえたまま、窓の外――花むすびのシャッターが見える方向へ視線を投げる。

 条が押し花を見て言う。

 「紫から白へ。これ、先日の女性が探してた花に近い」

 穂花が頷きかけた瞬間、櫂の指が止まった。

 「……関係ない」

 言い方は短いのに、背中だけが少し固い。


 穂花は押し花を透明の袋に入れ、机の角に置いた。動かないように、古本の重しをもう一つ足す。

 「関係ないなら、なおさら返す先を探さないと。……でも、これ、櫂さんのですよね」

 櫂は否定しない。カップの取っ手を触りかけて、触らずに戻した。

 「……捨てるつもりだった」

 「捨てるのに、押し花にする人、いるんですか」

 穂花が言うと、櫂の眉が一瞬だけ動く。反論したいのに言葉が見つからない顔。

 条が淡々と言った。

 「捨てたい気持ちと、残したい手癖が喧嘩してる」

 利里が一度だけ「うん」と言った。


 櫂は視線を床に落としたまま、初めて具体的に言った。

 「店を動かすには……大家の許しが要る」

 穂花は瞬きを一回して、すぐ立ち上がった。椅子の足が鳴ったのに、気にしない。

 「なら、話を聞きに行きましょう。相手の都合に合わせて、静かな時間に」

 櫂は「余計なことをするな」と言いかけて、言えなかった。代わりに、紅茶のカップを持ち上げ、湯気を一度だけ吸い込む。

 「……喫茶店の奥に、いる」

 穂花は笑って頷いた。

 「じゃあ、利里さんの店ですね。今週の金曜、席が空く時間、あります?」

 利里はカップを指で回し、短く言った。

 「奥、静か。昼前」

 条はすでにメモ帳を開き、段取りを書く準備をしていた。櫂は胸ポケットをもう一度だけ押さえ、見ないふりのまま言った。

 「……読むなよ」

 穂花は両手を胸の前で握って、拍手の代わりに小さく答えた。

 「読まない。……でも、進みます」



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