第5話 条の伝票、櫂の言い訳
2026年4月17日(金)の夕方、古本屋の裏の倉庫は、段ボールの匂いと紙の乾いた匂いが混ざっていた。条は棚の下段を拭き、伝票の束を紐で結び直している。結び目は二回、同じ長さで揃える。
「これ、出てきた」
条が差し出した伝票束の一枚に、穂花の目が止まった。店名の欄に、かすれたスタンプで「花むすび」。その右に小さく「押し花加工」。宛名は商店街の端の「白雪クリーニング」だった。
「押し花って、花を平らにするやつですよね」
穂花が言うと、条は頷き、伝票の角を揃えた。
「封筒で預かることが多い。紙が湿ると駄目。クリーニング店なら、乾かすの上手い」
「行ってみよう。今ならまだ開いてる」
穂花が立ち上がると、店の入口に立っていた櫂が一歩だけ遅れて動いた。返事はない。けれど、伝票の「花むすび」に視線が引っかかっている。
白雪クリーニングは、白いのれんが風に揺れて、奥から洗剤の匂いがふわりと出てきた。カウンターの向こうで店主がアイロンを止め、手を拭いながら首を傾げる。
「押し花? ああ……預かったことはある。花屋さんの」
店主は棚を見上げ、眉間に皺を寄せた。
「でも、封筒が見当たらないんだよ。押し花の封筒って言ったら、それしかないのに」
穂花は店主の前に手を置き、声の速さを落とした。
「最後に見たのは、いつですか。どこで、何をしてました?」
「ええと……受け取った日は、レジの下に……いや、乾燥室の前で……」
店主の言葉が揺れるたび、穂花は頷いて戻す。条は黙って伝票の控えを取り、空欄に短いメモを書いた。
櫂は腕を組んだまま言った。
「見当たらないなら、無い」
店主が顔を上げる。穂花はすぐ横から言い足した。
「無いかどうかは、探し方が終わってから決めましょう。棚の裏とか、足元とか」
櫂は眉だけ動かし、口を尖らせる。
「余計なことをするな」
「余計じゃないです。ここは、ちゃんと、必要なこと」
穂花が言うと、条が淡々と補足した。
「手順があると、探す人の心臓が静かになる」
店主が「そう、それ」と頷く。櫂はため息をつかずに、棚の前へ移動した。
条は伝票を指でなぞって言った。
「受け取った日、番号が一つ飛んでる。飛んだぶん、どこかで手が止まってる」
穂花は「すごい」と言いかけて、口をつぐんだ。拍手が喉の奥で鳴りそうになる。
店主は棚の前に立ち、手を振り回しながら言う。
「とにかく、この辺を片っ端から――」
「片っ端から、は最後」
利里がいつの間にか入口に立っていた。喫茶店の買い出し袋を下げ、短く言う。
「最初に、動かしたもの」
店主は目を丸くし、穂花は思わず笑ってしまった。利里は顔色を変えずに続ける。
「人は、焦ると同じ場所を二回見る」
櫂は棚の下段の箱を一つずつ引き、床に置く位置を揃えた。箱を持ち上げるとき、音がしない。棚板の隙間に指を入れて、紙が挟まっていないか確かめる。
そして、乾燥室の扉の前で立ち止まった。足元のマットの端が、ほんの少しだけめくれている。
櫂はしゃがみ、指先でマットを持ち上げた。薄い封筒が、ぺたりと床に貼りついている。
「……ここ」
店主が「あっ!」と声を上げ、穂花も息を吸った。封筒の表には、押し花の影がうっすら浮き、角には「花むすび」のスタンプが残っている。
店主が両手で封筒を受け取り、肩を震わせた。
「見つかった……! ああ、よかった……!」
穂花の手が勝手に動いて、パン、と一回だけ鳴った。拍手は止められなかった。
櫂は視線を逸らし、いつも通りの低い声で言う。
「偶然だ」
条が封筒を見たまま、眉ひとつ動かさず返した。
「偶然なら、同じ偶然を毎日用意できますか」
穂花は噴き出してしまい、慌てて口を押さえた。店主も笑いながら涙を拭いた。
櫂は条を睨みそうで睨まない目で見て、封筒の角を指で揃えた。
「……毎日は無理」
「じゃあ、今日だけでいい」
穂花が言うと、櫂は返事をしないまま、封筒を透明の袋に入れて、口を二回折った。湿気が入らないように。
店主は何度も頭を下げようとして、そのたびに櫂が一歩下がる。穂花は店主に向かって言った。
「預かった押し花、大事なものですよね。中身は、持ち主の人に渡すまで開けないで」
店主は大きく頷いた。
「もちろん。……花屋さんにも、返せるなら返したい」
その言葉で、櫂の指が一瞬だけ止まった。止まったまま、何も言わない。
利里が買い出し袋を持ち直し、短く言う。
「夜、紅茶。冷める」
穂花は頷き、封筒を抱えた。
「じゃあ、戻って、伝票に“完了”って書こう。条、控えも」
条はすでに控えを二枚にして、角を揃えていた。
帰り道、商店街の端で花むすびのシャッターが見えた。櫂は足を止める。穂花も止まる。封筒の中の押し花が、動かないはずなのに、胸の中で軽く揺れた。




