第4話 君の好きな花の名前
2026年4月14日(火)の昼、花川商店街の空き店舗は、看板がようやく「店らしい顔」をしていた。白い板に黒い文字、右下の小さな花の印。穂花が戸を開けるたび、板がきゅ、と軽く揺れる。揺れるたび、櫂が無言で角を直す。
「……そこ、二ミリ」
「二ミリって、目で分かるんですか」
穂花が笑いながら言うと、櫂は釘の頭を指で押さえ、板の端をちょんと持ち上げた。揺れが止まる。
条は机の上で伝票用の紙を揃え、角を爪でなぞって折り目を付けている。利里はカウンターの端に、湯気の立つマグを三つ置いた。置く音がしない。
そのとき、戸の外で靴のかかとが擦れる音がした。穂花が「どうぞ」と言う前に、戸が少しだけ開いて、白髪をきちんとまとめた女性が顔を出した。黒い手提げ袋を胸の前で抱えている。視線は看板と、床のマットを交互に見て、迷ってから入ってきた。
「……ここは、何でも屋さんですか」
「はい。今日も、手伝います」
穂花が言うと、女性は小さく息を吐いた。手提げ袋の持ち手を二回握り直して、椅子に腰を下ろす。
櫂は、言葉を挟まない。カップの取っ手を揃え、女性の正面に置いただけだ。利里が砂糖の瓶を、女性の利き手側へ静かに寄せた。
女性は紅茶の湯気を一度だけ吸い込み、目を伏せたまま言った。
「花の名前を……思い出したいんです」
「花の名前」
条が復唱すると、女性は頷いた。手提げ袋から、古い封筒を出す。封の糊が弱っていて、角が少し浮いている。
「昔、夫が好きだと言っていた花で……私、何度も聞いたのに、今……出てこなくて」
穂花は封筒を受け取らず、女性の言葉を待った。女性は指先で膝の上のハンカチを四角に畳み直しながら、途切れ途切れに続ける。
「夜になると、匂いが濃くなるんです。……薄紫で、だんだん白くなる。春の終わりから、初夏……」
穂花は頷きながら、机の引き出しから花言葉の本を出した。ページの角に、栞代わりのレシートが挟まっている。条がすぐ抜き、きれいに揃えて返した。
「匂いが濃い。色が変わる。……咲く時期は、四月の終わりから六月くらい、ですか」
女性は小さく頷き、次に、言いにくそうに口を開いた。
「命日が、5月5日なんです。その日に……供えたい」
穂花は即答した。
「間に合わせましょう」
言った瞬間、櫂の指がカップの縁で止まった。
「約束するな」
声は低い。けれど、強くはない。穂花は視線を落とさずに言い返す。
「約束じゃなくて、方針です。やる方向に進むって意味」
条が本を開いたページに、鉛筆で小さく丸を付ける。利里はマグを一つだけ追加した。湯気が四つになる。
花言葉の本は、思ったより頼りにならなかった。「夜」「匂い」「薄紫」で引くと、候補が増えるだけで、決め手がない。穂花が読み上げる花の名前を、女性は首を振る。首の動きは小さいのに、迷いがない。
「違うんです。もっと……甘くて、でも、胸がきゅっとする匂い」
穂花はページをめくる指を止めた。匂いの説明が、花の名前より正確だ。
条が椅子を引いた。
「別の花屋に聞きます。色が変わる花、匂いが強くなる花」
「走るなら、角」
利里が淡々と言うと、条は頷き、紙袋を二重にしてから出ていった。
店内に残ったのは、ページをめくる紙の音と、外のコロッケ屋の呼び込みだけだった。櫂は女性の封筒を見ない。代わりに、窓の外――閉店した花屋「花むすび」のシャッターへ視線を流した。
穂花が気づく前に、櫂は戸を開けて外へ出た。穂花も後を追い、シャッターの前に並ぶ。
色褪せた看板の文字を、櫂は指先でなぞった。汚れを落とすように、ゆっくりと。
「母なら……知ってた」
口からこぼれた声は、風に紛れそうな小ささだった。穂花は返事を急がない。代わりに、シャッターの鍵穴の周りを見た。指で拭えば落ちそうな埃が、まだ薄く残っている。
店に戻ると、櫂は花の図鑑を引っ張り出し、索引を開いた。そこへ付箋を一枚、二枚、三枚と貼っていく。貼る位置が揃いすぎていて、紙が定規みたいに見える。
「色が変わる。匂いが強い。……春の終わり」
櫂が呟くたび、穂花は本の端を押さえてページが戻らないようにした。言葉を合わせるかわりに、手を合わせる。
条が戻ってきたのは、日が傾きはじめたころだった。息は乱れていない。紙袋の角も崩れていない。代わりに、メモが三枚増えている。
「候補、これ。スイカズラ、ニオイバンマツリ、ライラック……。ただ、薄紫から白へ、が決め手」
女性はメモを受け取り、指先で文字をなぞった。眉が少し動く。
「ニオイ……バン……?」
穂花は声を殺して笑いそうになり、咳払いでごまかした。櫂が視線だけで「笑うな」と言い、条が表情を変えず読み上げる。
「ニオイバンマツリ。夜に匂いが濃くなる。色が紫から白に近づく。……咲く時期は、今くらいから」
女性の指が止まった。目が、ほんの少し潤む。
「……それ、です。夫が言ってたの、たしか……“匂いの晩祭り”みたいな言い方をして……」
穂花は、今度こそ手を叩きたくなった。けれど、昨日の手首の感触を思い出して、代わりに両手を胸の前でぎゅっと握った。
「見つかった。……見つかったんですね」
女性は頷き、ハンカチを畳み直す手が少しだけ震えた。
櫂は声を荒げないまま、短く言った。
「花は、間に合うとは言わない」
穂花が口を開く前に、櫂は続けた。
「でも、探し方は決まった。売ってる場所。咲いてる場所。手入れの仕方」
言い終えると、索引の付箋を一本ずつ押さえ直した。ずれがないか確認するみたいに。
女性は立ち上がり、深く頭を下げようとした。櫂はすぐ椅子の背を引き、距離を作った。
「頭は下げなくていい」
穂花が代わりに言う。
「5月5日(火)の朝までに、花束にします。ここに来なくても、受け取りやすい場所に置けるように考えます」
女性は一度だけ「お願いします」と言い、封筒を胸に抱えたまま出ていった。
戸が閉まると、店内が少し広く感じた。穂花は息を吐いて、机の上の花言葉の本を閉じる。
「……ニオイバンマツリ、覚えました。今、口に出せます」
条が頷く。
「忘れる前に、書いて貼ります」
利里が砂糖の瓶を元の位置に戻す。
「貼るなら、風の通り道」
櫂は返事をせず、図鑑を抱えたまま立ち上がった。向かう先は、花むすびのシャッターだった。穂花はそれを見て、マグの底についた紅茶の輪を指で拭った。




