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君の好きな花の名前  作者: 乾為天女


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第3話 かくれんぼの名人は小学生

 2026年4月10日(金)の放課後、花川商店街の裏路地には、ランドセルの金具がぶつかる音と、鼻をすする音が混ざっていた。コンクリの壁に貼られた古いポスターが、風でぺたりと鳴る。

 穂花が角を曲がると、小学生の男の子がしゃがみ込み、両手で顔を隠していた。近くの自転車置き場には、友だちのものらしいヘルメットが二つ転がっている。

 「どうしたの」

 穂花は膝を折って、目線を合わせた。すぐに触れない。声の大きさも、路地の幅に合わせる。

 男の子はしばらく黙っていたが、制服の袖で目をこすって、小さく言った。

 「鬼ごっこ、してた……。かくれんぼ、も……」

 「うん」

 「宝物、隠した。すごいとこ。……でも、忘れた」

 「宝物って、何?」

 穂花が聞くと、男の子の唇がぎゅっと結ばれた。言いたくないのに、言わないと困る顔。

 その横で、櫂がいつの間にか立っていた。買い物袋を片手に持ち、もう片手はポケットの中。顔は動かさず、足元だけ見て言う。

 「言える範囲でいい」

 男の子はちらっと櫂を見て、ぽつりと落とした。

 「……お母さんに、渡す手紙」

 穂花の胸がきゅっと縮む。男の子は続けた。

 「昨日、うるさいって言っちゃった。ほんとは、言いたくなかった」


 櫂はため息もつかず、ポケットから小さなメモ帳を出した。

 「場所。図を描け」

 「え……図?」

 「言葉は忘れる。線は残る」

 言い切ったあと、櫂は鉛筆がないことに気づいたみたいに、視線だけを一度だけ周囲に動かした。


 その瞬間、路地の入口から紙袋の擦れる音がした。古本屋の店先から、条が顔を出す。紙袋を二重にして抱え、角がずれないように腕の内側で押さえている。

 「泣き声、聞こえた」

 条は言いながら、紙袋の中から鉛筆と、小さな削り器を取り出した。削り器の下に折り紙を敷き、削りカスが飛ばないように指で囲う。シャッ、シャッ、と一定の音。

 「はい。尖りすぎると折れるから、これくらい」

 男の子は鉛筆を受け取り、メモ帳の紙に線を引いた。線はぐにゃぐにゃで、途中から恐竜みたいな形になって、最後に大きな丸が描かれた。

 穂花はこらえきれず笑ってしまい、慌てて口を押さえた。

 「ごめん。……でも、上手。見た場所をちゃんと覚えてる線だよ」

 男の子の肩が少し上がって、息が一回、深く入った。

 「ここ、すごいとこ。だって、だれも来ない」

 「誰も来ない場所は、誰かが忘れものをする場所でもある」

 条が淡々と返すと、男の子が一瞬だけ目を丸くした。


 櫂はメモ帳を取り上げず、男の子の指先が指すところを追いながら短く確認した。

 「花屋の裏。水道。……バケツ」

 男の子はこくこく頷く。穂花が立ち上がり、手を差し出した。

 「一緒に行こう。走らないでね、転ぶから」

 男の子は手を握り返し、条は削りカスを折り紙で包んでポケットに入れた。櫂は無言で先に歩き出す。迷いがない。


 花屋「花むすび」の裏手は、日が当たりにくくて、コケの匂いがした。壁の水道は金具が錆び、蛇口から落ちる一滴が、地面に小さな輪を作る。

 男の子は水道の横にあるバケツを指さした。底が茶色く、縁が欠けている。

 「そこ……!」

 穂花が覗き込むと、湿った紙の端が見えた。櫂が先に手を入れて、そっと引き上げる。紙はふにゃりと曲がり、文字(みたいな跡)だけが残っていた。

 「……べちょべちょだ」

 男の子の声が震える。

 「大丈夫」

 穂花は即答して、バッグからハンカチを出した。紙を押さえ、こすらず、水だけを吸わせる。条が古本屋の包装紙を一枚差し出す。紙の角がまっすぐだ。

 「これ、乾きやすい」

 穂花は頷き、紙を挟んで風の通る場所へ移した。


 その間、櫂は黙ってバケツを水道の下へ置いた。蛇口をひねり、手のひらで内側をなでる。泥を一気に落とさず、薄い層を少しずつ剥がすみたいに洗っていく。

 穂花は思わず、洗い方を見てしまった。櫂の手が止まらない。息も乱れない。だけど、バケツの底の傷に指が触れたときだけ、一瞬だけ力が抜けた。

 穂花は目を逸らし、乾かしている手紙の上に、そっと自分の手を置いた。押さえるだけ。形を整えるだけ。


 しばらくして、紙の表面が少しだけ持ち直した。男の子は震える指で紙を受け取り、目を落とした。

 「……読める……」

 「読めるなら、渡せる」

 条が言うと、男の子は大きく頷いて走り出した。穂花は「走らないでって言ったのに!」と叫びかけて、でも喉の奥で笑いに変えた。


 数分後、路地の入口から母親が現れた。息を切らして、男の子の肩を抱きしめる。男の子はぐしゃぐしゃの紙を両手で差し出した。

 「これ……。ごめんって……書いた」

 母親は紙の文字を指でなぞり、目を伏せた。声は小さかったけれど、言葉は真っ直ぐだった。

 「ありがとう。……ありがとうね」

 母親は穂花と条に頭を下げ、最後に櫂へも深く下げた。


 櫂は一歩引いて、母親の視線を避けるように言った。

 「頭は下げなくていい」

 「でも……」

 「今度は、手紙を渡す前に濡らすな」

 男の子が「えっ」と言って、泣き顔のまま笑った。母親も笑いながら、涙を袖で拭う。

 櫂はそれ以上何も言わず、洗い終わったバケツを元の位置に戻した。底の茶色い錆が少し薄くなっている。

 「……じゃあ」

 そう言って背を向け、商店街のほうへ早足で逃げるように歩いた。


 穂花は追いかけず、バケツを見下ろした。濡れた手紙があった場所が、きれいになっている。

 「洗うの、上手だね」

 背中に向けて言うと、櫂は振り返らずに手だけをひらりと上げた。返事の代わりみたいに。

 条が小さく言った。

 「あのバケツ、ここにずっとある。誰かが、毎日使ってた」

 穂花はうなずき、バケツの縁を指で軽く拭った。手の中に、少しだけ落ち着く感触が残る。



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