第2話 花屋のシャッターと紙片
2026年4月6日(月)の早朝、花川商店街はまだ店の看板が眠っていて、魚屋の氷を割る音だけが遠くで乾いていた。穂花はコンビニの前で息を白くしながら、買ったばかりの熱い缶のお茶を両手で転がす。
缶の熱が指へ伝わるのに、胸の奥だけは冷えたままだ。「後日」という言葉が、返事じゃなくて逃げ道みたいに残っていた。
昨日の面接は、返事が「後日」だった。封筒の角で指を刺さないように、今日は腕の内側で抱える。歩幅が小さくなるたび、商店街の端の閉店した花屋の前で、人影が止まっているのが見えた。
シャッターに「花むすび」と色あせた文字。そこに、櫂が立っていた。背中はまっすぐで、視線だけが鍵穴に吸い寄せられている。穂花が近づくと、櫂は先に言った。
「用はない」
「私が言う前に言わないでください。えっと……おはようございます」
「……」
返事はないのに、手の甲で鍵穴のまわりをぬぐった跡だけが残った。雨のしずくが一粒、指先から落ちる。
「ここ、気になるんですか」
「別に」
否定の言葉と、止まらない視線が噛み合っていない。穂花は缶のお茶を差し出した。
「寒いので。飲みます?」
「いらない」
即答のくせに、櫂の指が缶に触れそうで触れない距離をさまよった。穂花は笑いを飲み込み、缶を自分のコートのポケットに戻す。
そこへ、喫茶店の裏口のほうから、コツ、コツと一定の速さの靴音が来た。深い色のコートを着た女が、紙袋を片手に持っている。利里だった。肩の高さで止めた前髪も、歩く速さも、揺れない。
「おはよう」
穂花が慌てて会釈すると、利里は小さく頷いて、紙袋から白い紙片を一枚取り出した。
「店の前。落ちてた」
紙片は濡れた角を乾かしたみたいに波打ち、鉛筆の線だけが不思議と濃い。穂花が読もうと目を落とした瞬間、櫂の手が伸びた。
「読むな」
指先が紙をさらって、穂花の前から消える。奪い方だけが、やけに丁寧だった。
穂花は口をつぐんだまま、利里の顔を見る。利里はまばたきの回数も変えず、短く言った。
「落としたのは紙。拾ったのは縁」
「……縁って、そんな、急に」
穂花が言うと、利里は紙袋の底から小さな瓶を出した。砂糖じゃなく、インスタントのミルク。
「喫茶店、開ける。冷える」
理由はそれだけで十分だった。
三人は利里の先導で喫茶店のカウンター席に並んだ。店主が黙っておしぼりを置き、マグカップから湯気が立つ。櫂は紙片をテーブルの上に置いたまま、手のひらで隠すようにしていた。
穂花は、見ないふりをして話題を変える。
「昨日のチラシ、捨ててませんよね」
櫂は返事をせず、ポケットから折り目の揃ったチラシを出した。角がぴたりと揃っている。
「じゃあ、看板を作りましょう。『何でも屋 手伝います』って、ちゃんと見えるやつ」
「看板、いらない」
「要ります。だって、昨日みたいに困ってる人は、電話番号を探すだけで目が回ります」
「勝手に回ってろ」
言いながら、櫂は利里が差し出した筆を受け取った。受け取る手の角度が、紙を破かないように慎重だった。
白い板に、穂花が鉛筆で下書きをする。線が少し丸くなるたび、櫂の眉がわずかに動く。
「曲がってる」
「人の字ですから」
「直せ」
穂花はぷっと吹いて、消しゴムを渡した。櫂は受け取ると、文字の輪郭を定規で引き直し、消しゴムの屑まで指でまとめて捨てる。利里はその横で、紅茶にミルクを落とす。音がしない。
穂花は櫂の手元を見て、思わず手を叩きそうになった。昨日、止められた手首が思い出されて、指先を膝の上でぎゅっと握る。
「……すごい。まっすぐ」
褒め言葉を小さくすると、櫂は筆先を止めたまま、視線を上げずに言った。
「褒めなくていい」
「じゃあ、ありがとうにします。今日、筆を持ってくれたので」
「……勝手に」
完成した板には、黒い文字で「何でも屋 花川 手伝います」。右下に、穂花が小さな花の印を描いた。櫂は消そうとして、逆に墨をにじませてしまい、花びらが一枚増えた。
穂花は口を押さえて肩を震わせる。利里が一度だけ言った。
「増えた」
櫂は筆を置き、乾ききっていない紙片を手のひらで押さえたまま、席を立とうとした。
その紙片の端から、鉛筆の文字が少し見えた。
『令和元年五月 夜に香り 薄紫→白 ……』
穂花は読まない。けれど、文字が揺れているのを見てしまった。揺れているのは紙じゃない。櫂の指だった。
利里がカウンターの端を見て言う。
「今日、子どもが泣くかも。路地で、よく隠れる」
穂花が首を傾げると、利里は砂糖の瓶を置き直した。
「この町、かくれんぼ上手。人も、言葉も」
櫂は返事をしない。けれど、看板を抱える穂花の横に、同じ速さで並び、花屋「花むすび」のシャッターを一度だけ振り返った。




