第12話 花屋の裏のバケツ
2026年5月13日(水)の昼前、花川商店街の路地は、洗い物の水音がぽつぽつ混じる時間だった。花むすびの裏の水道のところで、穂花は足を止めた。
錆びていたはずのバケツが、光っている。持ち手の赤茶色まで薄くなって、底の刻印が読めるほどだ。誰かが、時間をかけて磨いた跡がある。手のひらで縁をなぞると、ざらつきが消えていた。
磨かれた金属に自分の顔がうっすら映り、穂花は慌てて指で拭った。笑っている。悔しいほど、嬉しい顔だ。
「……やった」
声が小さく漏れて、穂花は自分で笑ってしまった。笑いながら、蛇口をひねる。水はまっすぐ落ち、バケツの底で軽い音を立てる。透けた水面に、空が揺れた。
そのとき、走る足音が二つ、三つ、増えた。
「ねえ! 次、どこ!?」
「地図、当たったのに、次がない!」
小学生たちが、掲示板の紙を握りしめて飛び込んでくる。息が上がっていて、頬が赤い。穂花は膝を折って目線を合わせた。
「落ち着いて。何が当たったの?」
「本! 古本屋! で、紙、あった!」
「それで、“封筒が集まる場所”って書いてあった!」
子どもたちの言葉が重なり、最後は自分でも絡まって、声が大きくなる。
利里が路地の入口から現れた。手にはトレイ。カップは二つ。歩幅は変わらない。利里は子どもたちの前で止まり、短く言った。
「騒ぐほど、見えなくなる」
子どもたちの口が、ぱたりと閉じた。息だけが残る。
条が遅れて来て、子どもの靴紐を見た。ほどけかけている。条はしゃがみ込み、結び目を作り直す。左右の長さを揃え、もう一度、引っ張って確かめる。
「結べた。次、探せます」
子どもは「うん」とだけ言い、足元を見て頷いた。さっきまでの勢いが、嘘みたいに落ち着く。
穂花は掲示板の紙を受け取り、端を指で揃えた。紙の角が、妙に整っている。描いた人の癖が、ここにも残っている。
「“封筒が集まる場所”って、喫茶店の奥だよね」
条が頷く。
「奥で、大家の手紙を預かった。だから次は……“集まる”って言葉の、もう一つの意味かも」
穂花が首を傾げると、利里がカップを置き、言った。
「集まるのは、底」
穂花は思わずバケツを見た。水が、底へ落ちる。底に、全部が集まる。
穂花はバケツを持ち上げようとして、少しだけ腕が震えた。子どもが「手伝う!」と両手を出す。穂花は笑って首を振った。
「大丈夫。……でも、見てて」
条がバケツの持ち手の位置をずらし、穂花が両手で持ち上げる。利里が足元へタオルを敷く。水が零れても、転ばないように。
バケツを裏返すと、底に小さなシールが貼られていた。花の絵が一つ。薄紫から白へ、二色で描かれている。線はやっぱり丁寧で、茎がやけに真っ直ぐだ。
「ここだったんだ!」
子どもが叫びかけて、利里の視線に気づき、口を手で塞いだ。
穂花はシールの端を指で押さえた。剥がすとき、紙が裂けない角度を探す。剥がしていいのか迷っていると、条が言った。
「剥がせるように貼ってある。角が浮いてる」
確かに、ほんの一ミリだけ端が浮いている。剥がしてほしい、と言っているみたいだ。
穂花はゆっくり剥がした。裏側に、鉛筆の文字が見えた。
『次は、言葉。』
子どもたちが顔を見合わせる。
「ことばって……国語?」
「しりとり?」
穂花は笑いながら首を振った。
「花の絵がついてるんだよ。花の言葉、かも」
条が顔色を変えず頷く。
「花言葉。間違えると、喧嘩になる」
子どもたちは「ええ……」と同時に声を漏らし、穂花はさらに笑ってしまった。
利里がカップを持ち上げ、言った。
「言葉は、温度で変わる」
「温度?」
子どもが首を傾げる。利里はそれ以上説明しない。代わりに、カップを穂花へ渡した。熱すぎない。けれど、ちゃんと温かい。
穂花は息を吹きかけ、ひと口だけ飲んだ。喉の奥が落ち着く。
バケツを元に戻すと、水滴が一粒、縁から落ちた。磨かれた金属に、丸い光が残る。
穂花はシールを指で軽く押さえ、元の場所へ貼り直した。剥がした跡が目立たないように、角を揃える。子どもたちも真似して、紙の端を揃えている。
路地の先のほうで、誰かがバケツのほうを見ていた。背中だけ。肩は少しだけ固い。指先に、洗剤の匂いが残っていそうな手だ。
穂花は声を張らずに言った。
「隠す人、見つかったら手を忙しくするね」
背中は返事をしない。けれど、手だけが動いて、近くのホースのねじれを直した。直す必要がないのに、直す。
穂花は見ないふりをして、子どもたちに言う。
「次は“言葉”。探しに行こう。走るなら――」
利里が一言、先に言った。
「足元」
子どもたちは「はーい」と声を揃え、靴紐を確かめてから走り出した。穂花もその後を追いかけ、胸の奥で小さく拍手をした。今度は音を出さずに。




