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君の好きな花の名前  作者: 乾為天女


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第11話 謝れない日の紙袋

 2026年5月9日(土)の午後、花川商店街の外れにあるバス停は、ベンチの金具が日に焼けて熱かった。条は紙袋を二重にして膝の上に置き、角を指で揃える。利里は腕時計を見て、何も言わずに秒針だけ追っている。穂花は封筒を胸に抱え、封の折り目が開かないように親指で押さえていた。

 封筒の宛名は、入院中の大家の妻。差出人は大家。利里の喫茶店の奥で震えた手で書かれた文字だ。


 「病院、遠いですか」

 穂花が聞くと、櫂はバスの時刻表を見たまま答えた。

 「近い。遅れるほうが悪い」

 「遅れないように、余裕を――」

 穂花が言い終える前に、櫂が封筒を見ずに言った。

 「余裕なんて、作るな。甘くなる」

 穂花はむっとして、封筒を抱え直した。

 「甘くなってもいいじゃないですか。手紙は、甘いほうが……」

 「甘いって言うな」

 櫂の声が少しだけ強くなる。バスが来る前の、静かな時間に響いてしまう。

 条が視線だけを上げ、封筒の角を自分の指で一回だけ撫でた。利里は時計から目を離さず、短く言う。

 「来る」


 バスの扉が開き、四人は乗った。揺れる車内で、穂花は我慢できずに櫂へ言った。

 「助けてって言えばいいのに」

 言った瞬間、空気が少しだけ固くなった。吊り革が、ぎい、と鳴る。

 櫂は窓の外を見たまま、返した。

 「言ったら負けだ」

 穂花は思わず、笑いそうになった。けれど、笑えなかった。胸の奥の、痛いところに触れた気がしたからだ。

 「負けって……誰に?」

 穂花が聞くと、櫂はそれ以上言わない。口だけが、きゅっと閉じる。


 条が表情を動かさず、間に言葉を落とした。

 「負けの定義を決めるのは誰ですか」

 櫂が一瞬だけ条を見る。条は視線を逸らさない。紙袋の角は崩さない。

 利里が腕時計を見て言う。

 「受付が閉まる」

 その一言で、四人の足が同じ方向を向いた。揉めている場合じゃない、という合図みたいに。


 病院の玄関は、消毒の匂いが強かった。自動ドアが開くたび、冷たい空気が吹き出す。

 受付の時計は、16時55分を指している。係の人が片付けを始める手の動きが速い。

 穂花が封筒を差し出しかけた瞬間、櫂が先に一歩出た。

 「これ、面会じゃない。手紙だけ」

 言い方はぶっきらぼうなのに、封筒は折れない角度で持っている。

 係の人が眉を上げた。

 「病棟は、もう――」

 「五分」

 利里が横から言う。声の温度は変わらない。

 条が控えの紙を差し出す。病室番号と名前が、まっすぐ書かれている。

 係の人はため息をつきながらも、印鑑を押した。

 「走らないでくださいね」


 エレベーターの中で、穂花は壁に貼られた注意書きを見た。「走らないでください」の文字が目に入って、思わず口角が上がる。

 「さっき言われたのに」

 利里が一言。

 「心で走る」

 条が眉ひとつ動かさず頷いた。

 「足は静かに。気持ちは急ぐ」

 櫂は何も言わない。けれど、エレベーターのボタンを押す指が、いつもより早かった。


 病室の前で、ナースが手を止めた。

 「手紙だけなら、どうぞ」

 穂花はそっと入った。ベッドの上の女性は、白い枕に頭を預け、窓の外の空を見ていた。目は開いている。けれど、焦点が少し遠い。

 「……奥さま。花川商店街から」

 穂花が声を落とすと、女性はゆっくり視線を動かして、穂花を見た。

 条が封筒を両手で差し出す。手が震えないように、紙袋を膝で支えながら。

 女性は封を開け、ゆっくり読みはじめた。読む速度は遅いのに、途中でふっと笑った。笑い方が、喫茶店の奥の老人にそっくりで、穂花の喉が少し熱くなる。

 女性は読み終えると、封筒を胸に抱えて言った。

 「うちの人、字が下手でしょう」

 穂花が首を振る前に、利里が一言。

 「読める」

 女性は笑って頷き、次に小さく続けた。

 「花の名前は覚えてなくてもいい。渡す人が覚えてれば」

 穂花は、その言葉が自分にも刺さって、息を一つ飲み込んだ。

 「……はい。覚えます」

 女性は目を細めた。

 「ありがとう。走った顔してる」


 病室を出ると、廊下の空気が少し軽くなった気がした。エレベーターを待つ間、穂花は櫂に向き直った。

 さっきの「負けだ」が、まだ胸に残っている。

 穂花は言いかけて、止めた。ここで言い返したら、また固くなる。

 代わりに、封筒の端を指で揃え直した。条の真似みたいに。

 櫂はそれを見て、視線を逸らしたまま言った。

 「……遅れなかった」

 それだけだった。謝罪でも、言い訳でもない。けれど、穂花の肩の力が少し抜ける。


 帰りのバス停で、櫂が紙袋を差し出した。紙袋は二重じゃない。一重で、折り目がきれいだ。

 「何ですか」

 穂花が聞くと、櫂は袋の口を指で押さえたまま、短く言う。

 「飴」

 穂花が袋を開けると、黄色い包装紙の飴がいくつか入っていた。前に穂花が「これ、好き」と言っていた味だ。言ったのは、喫茶店で水をこぼした日の帰り道だった。

 穂花は一つ取り出し、掌に乗せた。飴は小さいのに、胸の奥が急に甘くなる。

 「……覚えてたんだ」

 櫂は返事をしない。代わりに、バスの時刻表を見て、紙袋の角を指で揃えた。揃え直す必要がないのに、揃える。

 穂花は飴を袋に戻し、紙袋を胸に抱えた。

 そして、いつもの癖が出た。パン、と一回だけ手を叩く。音は小さかったのに、櫂の指が一瞬止まった。

 「今日の配達、成功」

 穂花が言うと、条が表情を変えず頷く。

 「成功。記録します」

 利里は時計を見て一言。

 「帰れる」

 櫂は顔を上げずに、口だけ動かした。

 「……くだらない」

 でも、紙袋は取り返さなかった。



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