第10話 花の絵のかくれんぼ、第一枚
2026年5月5日(火)の朝、花川商店街はまだシャッターの音が少なく、空気だけが早起きしていた。穂花は小さな花束を抱えて、何でも屋の看板の前に立つ。白い花を中心に、淡い紫を一本だけ混ぜた。匂いは弱い。それでも、手が止まらないように、リボンの結び目だけは二回、同じ長さに揃えた。
条が伝票の控えを一枚添え、角を揃えて袋に入れる。利里は小さなメモを差し出した。文字は短い。
『忘れてません』
穂花はそのメモを見て、胸の奥で拍手が鳴りそうになった。代わりに、紙をそっと花束の中へ滑り込ませる。
年配の女性は、朝のうちに取りに来た。黒い手提げ袋を膝の上で抱え、花束を見て、一度だけ目を閉じた。
「匂いは……まだ、違う。でも、……ありがとう」
穂花は頭を下げず、両手で花束を差し出す。
「名前が戻ったら、もう一度、連絡します」
女性は頷いて立ち上がり、出ていく前に振り返った。
「昔、夫が言ってました。“花は、隠しても香る”って」
その言葉を残して、女性は商店街の角を曲がった。櫂は背中を向けたまま、カップの取っ手を指で揃え直している。返事はない。
戸が閉まった途端、外から子どもの声が飛び込んできた。「見て見て!」と叫ぶ声が、掲示板のほうへ集まっている。
穂花が表へ出ると、商店街の掲示板に紙が一枚貼られていた。小さな地図だ。角がきっちり揃い、線が妙に丁寧で、余白がまっすぐだ。画びょうの位置まで左右対称に見える。
地図の端に、花の絵が五つ描かれている。花の形は可愛いのに、茎がやけに直線で、葉っぱの角も揃っている。子どもが「これ、だいこん!」と笑う花が一つあって、穂花もつられて笑った。
「花は、だいこんじゃないよ」
「だいこんの花もあるよ!」
子どもが得意げに言い、利里が一言だけ返す。
「白い」
子どもたちは「そうそう!」と騒ぎ、掲示板の前が急に賑やかになった。
地図の下には短い文章がある。
『当てられたら、花むすびの鍵の場所へ近づく。』
文房具店の店主が通りがかりに顔をしかめた。
「誰のいたずらだよ。鍵なんて、危ないだろ」
穂花が口を開く前に、条が静かに言った。
「紙が新しい。貼ったのは今朝」
利里が一言。
「見張り、できる」
店主は「それなら」と肩を落とし、掲示板の前を空けた。
穂花は声を上げて笑った。
「町じゅうで、かくれんぼだ」
利里が横から言う。
「走るなら、足元」
条は地図を覗き込み、顔色を変えず指先を止めた。
「描いた人の癖がある。線の引き方、折り目の位置、余白の置き方」
穂花は首を傾げる。
「癖って、そんなの分かる?」
「分かる。紙は嘘をつかない」
条の返事は淡々としていた。
櫂は掲示板から地図を剥がし、四つ折りにした。折り目は書いた人が想定していた場所で、ぴたりと合う。櫂はそれを胸ポケットへ入れて言った。
「鍵は探さない」
穂花は「じゃあ何でしまったんですか」と言いかけて、飲み込んだ。胸ポケットの膨らみが、答えみたいだった。
最初の花の絵の横には、小さく「本」とだけ書いてある。四人は古本屋へ向かった。
条の店の棚を見回すと、一冊だけ背表紙の向きが逆だった。誰かがわざと戻したみたいに。表紙には、色あせた写真の花が並んでいる。題名は『町の花図鑑』。年号だけが小さく、1998と書いてあった。
条がその本を引き抜く。ページの間から、紙片がひらりと落ちた。花の絵が一つ。今度は丸が多い。なのに、丸が丸すぎて、逆に不自然だ。
子どもが「それ、ぼくも拾う!」と手を伸ばしかけ、櫂が低く言った。
「指でちぎれる」
子どもは手を引っ込め、代わりに「じゃあ見てる!」と胸を張った。
穂花が拾い上げると、紙片の端がほんの少し湿っていた。指に、あの甘い匂いが一瞬だけ乗る。換気口で嗅いだ匂いと同じ方向。
穂花が顔を上げる前に、櫂が短く言った。
「嗅ぐな」
「嗅いでないです。……ちょっと、勝手に入ってきただけ」
利里が淡々と返す。
「入ってきたなら、もう嗅いでる」
穂花は笑いそうになり、口を押さえた。
紙片の裏には一文だけ書かれていた。
『次は、封筒が集まる場所。』
条が即答する。
「喫茶店。大家の手紙がある」
利里が一言。
「奥」
穂花は紙片を胸に当て、笑いながら言った。
「鍵に近づくのに、まず手紙を運ぶんだね」
櫂は返事をしない。けれど、紙片の角を指で揃え、胸ポケットの地図の上に重ねた。重ね方が、妙に丁寧だった。
商店街の向こうで、シャッターが一つ上がる音がした。朝が、ちゃんと始まる音だ。
穂花は歩き出しながら、もう一度だけ紙片を鼻から遠ざけた。嗅がないふりをしても、匂いは隠れない。
「次、喫茶店の奥。……会いに行こう」




