第1話 空き店舗のチラシ
2026年4月3日(金)の昼前、東京都下町の花川商店街は、春の雨上がりでアスファルトがまだ黒く光っていた。配達用の自転車が水たまりを避けてキュッと鳴き、八百屋の店先では苺の甘い匂いが立つ。
穂花は、履歴書の入った封筒を抱えたまま、商店街の端にある空き店舗の前で足を止めた。シャッターに貼られた手書きの紙が、風でひらひら揺れている。「何でも屋 手伝います」。字は丁寧なのに、線がやけに真っ直ぐで、余白の取り方が几帳面だった。
穂花は紙を一度は見過ごしかけた。けれど、封筒の角が指に刺さって痛くて、つい立ち止まる。ため息が出る前に、紙の端がぺたりと靴に貼りついた。
「……拾うしかないよね」
電話番号は裏側に小さく書いてある。穂花は迷いながらも指で押した。呼び出し音が二回鳴って、低い声が出た。
『はい』
「あの、チラシ見ました。手伝いますって……」
『募集してない』
「えっ、じゃあ、これは……」
『捨てていい』
言い切る速さが、逆に捨ててほしくなさそうで、穂花は思わず笑ってしまった。
「捨てません。だって、こんなに丁寧に書いてあるのに」
『……勝手に』
ぶつり。通話は切れた。穂花はスマホを見下ろし、雨上がりの空に向かって小さく肩をすくめる。
そのとき、背後から「すみませーん!」と甲高い声が飛んだ。振り向くと、文房具店の店主が両手を振っている。店先のガラス戸が半開きで、顔だけ出していた。
「鍵がないんです! さっきまで持ってたのに!」
穂花は反射的に店主のところへ駆け寄った。制服の胸ポケットに入ったままの封筒が、走るたびにボコンボコンと鳴る。
「最後に鍵を見たのは、いつですか」
「朝、開けたときは確かに……あっ、レジの横に置いた気が……いや、置いてない!」
店主は言いながら棚を引き出し、ペン立てをひっくり返し、クリップが床に散らばった。穂花は散らばったクリップを拾い集め、机の上に一本ずつ並べる。並べているうちに、店主の息が少し落ち着いた。
「大丈夫。順番に思い出しましょう。開けた後、何をしました?」
「ええと、新聞を……あ、掲示板に貼って……それから、店の前を掃いて……」
店主が話すのに合わせて、穂花は指で商店街の地面をなぞるみたいに、見えない地図を描いていく。
「掃いたとき、植木鉢を動かしました?」
「動かしたかも……あっ、鉢がずれてる!」
店主が指さした植木鉢の下から、影がちらりと見えた。
「……鍵?」
穂花がしゃがむより先に、足音が一つ近づいた。黒いパーカーの男が、視線を落としたまま植木鉢を持ち上げ、無言で鍵をつまみ上げた。濡れた土がぽろりと落ちる。
男は鍵を店主へ差し出し、ひとことだけ言った。
「ここ」
「あっ、あなた……! 助かった!」
店主が深く頭を下げた瞬間、穂花は思わず手を叩いた。パン、と乾いた音が一回、雨上がりの商店街に響く。
「見つかった! よかった!」
男はその拍手から目をそらし、視線を自分の靴先に落とした。
「偶然」
「偶然でも、今日の主役です。ありがとうございます!」
穂花がもう一回叩こうとしたら、男の指がひゅっと動いて、穂花の手首を軽く押さえた。強くないのに、止める意思だけがはっきり伝わる。
「余計なことするな」
「……あ、すみません。手が勝手に……」
男は穂花のスマホに貼りついていたチラシをちらりと見て、指先で端をつまんだ。くしゃっとならないように、角を揃えて折り、ポケットに入れる。捨てる気配はない。
「あなた、電話の……」
穂花が言いかけたところで、店主が慌てて口を挟んだ。
「そうだ、ありがとうの印に、ノートでも――」
「いらない」
男は即答した。けれど、さっき散らばったクリップを穂花が拾い切れていないのを見ると、黙って一つだけ拾い、机の角に置いた。音がしないように。
店主が礼を繰り返すあいだ、男はレジ横のメモ帳を一枚ちぎり、鉛筆で短く書いた。『鍵→最初に鉢→掲示板→レジ』。字は曲がらない。穂花が覗き込むと、男はメモ帳の端に定規を当てて、線を一本引いてから言った。
「次から、こう」
「面接も、この順で行けたらいいのに」
穂花が冗談めかすと、男は返事をしない。代わりに、穂花の封筒が濡れているのに気づき、近くのビニール袋を一枚引き出して、黙って被せた。持ち手の結び目だけ、きっちり二回ひねってある。
店主は鍵を握りしめて、何度も頷いた。
「本当に助かりました。鍵、昔からここに隠してたんですよ。家の鍵も、子どものころは植木鉢の下で……」
店主は笑いながら、ふと商店街の奥を見た。
「そういえば、閉店した花屋の裏にも、昔は予備の鍵を隠してたって聞いたことがあるなぁ」
男の指が、ポケットの中で止まった。ほんの一瞬、呼吸が浅くなるのが、穂花には分かった。
穂花は見ないふりをして、店主に向き直る。
「じゃあ、次はその“聞いたこと”を、ちゃんと確かめに行きませんか」
男は答えない。けれど、歩き出す穂花の横を、同じ速さで並んだ。




