【第九話】論理の限界
嵐が過ぎ去った後の朝は、残酷なほどに透き通っていた。窓を開けると、雨上がりの湿った土の匂いと、急激に強さを増した陽光の熱が室内に流れ込んでくる。昨夜、窓を叩きつけていたあの激しい風雨が嘘のように、世界は平然と、その秩序を修復していた。
「……ん」
シーツの中で身じろぎをすると、全身に心地よい疲労感と、鋭い痛みが走った。特に、ネモに執拗に触れられた鎖骨や太ももの内側が、熱を持って疼いている。指先でそっと触れると、そこにはまだ、彼の冷たい唇の感触が残っているような気がした。
「目が覚めましたか。起床予定時刻より、七分遅れています」
聞き慣れた、涼やかな声。振り返ると、ネモはすでに身支度を完璧に整え、デスクの前で私のレポートをチェックしていた。昨夜、あんなにも感情を剥き出しにし、私を組み敷いていた男と同一人物だとは思えないほど、今の彼は凪いでいた。
「ネモ……。昨日は、その……」
「昨日の流れについては、すでに整理し理解しています。僕としたことが、外的要因――他者の不純な干渉によって、一時的なバグを引き起こした。極めて非合理的で、恥ずべき失態です」
ネモは眼鏡を中指で押し上げ、淡々と告げた。その態度は、まるで昨夜の濃密な時間を「無かったこと」にしようとしているかのようで、私の胸にちくりと小さな棘が刺さる。
「……バグ、なんだ。あれ」
「そうです。ですが、そのバグによって得られたデータは有益でした。あなたの反応、心拍数、そして……僕を受け入れた際の、あの恍惚とした表情」
彼は不意に席を立ち、私のベッドサイドまで歩み寄った。影が私を覆う。彼は膝をつき、私の顔を覗き込んだ。その瞳には、いつもの冷徹さの奥に、ほんの一滴だけ、煮詰めたような熱が混ざっている。
「陽菜さん。僕は、あなたを『完璧』にしたい。僕がいなくなった後も、あなたが他の誰の干渉も受け付けず……僕が構築した理論の中で、美しく孤高でいられるように」
「僕がいなくなった後」という響きに、心臓が凍りつく。カレンダーを見なくてもわかる。彼が現れてから、今日で六日目。明日の朝には、この冷たくて鋭い支配者も、苺の彼と同じように消えてしまうのだ。
「……嫌だよ。行かないで、ネモ。管理責任者なんでしょ? だったら、ずっと私を管理してよ」
彼のシャツの裾を掴む。ネモは一瞬だけ悲しげに目を細めたが、すぐにその表情を消し、私の手を優しく、けれど拒絶するように解いた。
「それは不可能です。果実の寿命は決まっている。……ですが、最後の一日まで、僕は僕の役割を全うする。……さあ、朝食です。今日はあなたの体質を改善させるための、特別なレシピを用意しました」
彼は私を抱きかかえるようにしてベッドから降ろし、キッチンへと促した。その手つきは驚くほど丁寧で、大切に扱われていることがわかる。けれど、それが最後であるかのような予感がして、私はキッチンに置かれた、あの大きな瓶に目を向けた。
――そこには、見過ごせない異変が起きていた。
底のヒビが、昨日よりも明らかに広がっている。それだけではない。ヒビの間から、琥珀色の、透明な檸檬のシロップが、汗のように一滴、また一滴と外へ漏れ出していた。
「あ……」
漏れ出した雫は、カウンターの上に小さな水溜りを作っている。まるで、瓶そのものが、中にある膨大な情報量と愛の重さに耐えきれず、叫んでいるかのようだった。
「……崩壊が、早まっているようですね」
背後でネモが静かに呟いた。彼は漏れ出したシロップを指先で拭い、自分の唇で味わう。
「……酸味が、最も強くなっている。今夜が、僕というシロップの、最も純粋な最後の一滴になるでしょう」
ネモの言葉は、終わりの始まりを告げる死刑宣告だった。窓の外では、夏の入道雲が湧き上がり、鮮やかな青空を侵食し始めていた。
***
一日の終わりが、これほどまでに恐ろしいと思ったことはなかった。ネモに指示されるまま、私は大学へ行き、完璧に講義を受け、図書館で閉館時間まで自習をこなした。隣で私を監視し、時に厳しい言葉を投げるネモの存在を、一秒ごとに刻みつけるように。
夜。部屋に戻った私たちは、暗闇の中で向き合っていた。照明はつけない。月明かりだけが、ネモのプラチナブロンドの髪を青白く照らし出し、彼をこの世のものとは思えないほど幻想的に見せている。
「陽菜さん。最後に大切なことをお伝えします」
ネモの声は、震えることもなく、澄み渡っていた。彼は私の前に立ち、ゆっくりと自分の眼鏡を外した。無防備になったその瞳が、私を深く、深く捉える。
「愛というものは、まったくもって非合理です。ですが、僕という存在があなたに及ぼした影響を改めてフラットに考察すると、一つの結論に辿り着く。……僕は、あなたを『僕』で満たすことで、この宇宙で唯一の、僕だけの真理にしたかった」
彼は私の手を取り、自分の心臓の上に置いた。 ドクドクと、昨日よりも早まった鼓動が手のひらに伝わってくる。
「これが、僕の論理の限界です。……あなたを、誰にも渡したくない。消えたくない。……このまま、僕の酸であなたの意識とすべてを溶かして、二人で結晶になってしまいたい」
ネモの目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは透明で、宝石のように美しい雫だった。彼は私の頬に手を添え、唇を重ねた。
キスの味は、これまでで一番酸っぱくて、そして耐えられないほど甘かった。彼は私を押し倒し、服の上から私の全身を愛撫する。その手つきは、もはや管理するもののそれではなかった。ただ、一人の男として、一人の女を渇望する、剥き出しの「執着」。
「ん……あ、ネモ……行かないで……っ!」
「……陽菜さん。僕の味を、忘れないでください。苺の甘さではなく、僕のこの、身を焼くような酸味を。……あなたが苦しい時、寂しい時、僕のこの刺激を思い出して、自分を律しなさい」
ネモは私の首筋に、これまでで最も深い痕を残すように吸い付いた。
痛み。けれど、それが愛おしい。
彼は私のブラウスをはだけ、露わになった胸元に、一滴、また一滴と、彼から漏れ出したシロップを垂らした。
冷たい雫が、熱を帯びた肌を滑る。ネモはその雫を追いかけるように、舌を這わせた。
「……ああ、なんて美しい。……あなたは、僕の最高傑作だ」
その夜、私たちは一度も目を閉じることはなかった。夜明けが近づくにつれ、ネモの輪郭が、少しずつ、少しずつ、薄れていくのがわかった。彼の手が、私の肌を通り抜けそうになるたび、私は必死に彼を抱きしめた。
「ネモ、お願い、消えないで……っ、まだ、教えてほしいことがたくさん……!」
「……陽菜さん。……命令です」
ネモの姿は、すでに半透明の光の粒になり始めていた。彼は最後に、私の額に優しく口づけを落とした。
「僕がいなくても、あなたは完璧でいなさい。……次に現れる者が、僕の痕跡を消そうとしても、あなたの核に僕を隠しておくように。……いいですね?」
「ネモ……!!」
私が叫んだ瞬間、朝日が水平線から顔を出した。その光が室内を埋め尽くしたとき、私の腕の中にあったはずの重みは、ふっと霧のように霧散した。
静寂。
部屋には、鼻をつくような強烈なレモンの香りと、冷たい空気だけが残されていた。キッチンを見ると、あの瓶が、大きな音を立てて真っ二つに割れていた。カウンターには、行き場を失った琥珀色のシロップが、血のように広がっている。
私は、割れたガラスの破片を拾おうとして、指先を切った。そこから滲む血を口に含む。レモンの味。ネモの味。
「……最低。……最後くらい、もっと甘いこと、言ってよ……」
私は、真っ二つになった瓶を抱きしめ、声を上げて泣いた。
指先を切った痛みも、床に広がったシロップのベタつきも、今はどうでもよかった。ただ、恐ろしかった。キイチを与え、ネモを繋ぎ止めていた「魔法の器」が壊れてしまった。それは、私の孤独を埋めてくれる唯一の手段が、永遠に失われたことを意味しているのではないか。
ネモが去った後の部屋は、彼の教え通りに整頓され、清潔で、そして――死んでいるように静かだった。私は割れた硝子の破片を集めながら、絶望に震えていた。もう、誰も来てくれない。私はまた、あの暗くて冷たい、一人きりの「日常」という檻に閉じ込められるんだ。朝日が虚しく部屋を照らす中、私は散らばったレモンの種を、ただ呆然と見つめ続けていた。




