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シロップ男子。~賞味期限付きの愛~  作者: ぐうすけ


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【第八話】嫉妬

 六月の湿った風が、大学のキャンパスを吹き抜けていく。講義室の窓際で、私はペンを走らせていた。

 ネモに叩き込まれた効率的なノート術のおかげで、教授の言葉は驚くほど淀みなく紙の上に整理されていく。かつての私なら、周囲の私語や空調の音に気を取られて、もっとぼんやりと時間を過ごしていただろう。


(……首が、熱い)


 ふとした瞬間に、ブラウスの襟に隠された「印」が疼く。昨夜、ネモが執拗に吸い上げた場所だ。鏡で見なくてもわかる。そこには今、毒々しいほど鮮やかな檸檬の搾り跡のような、赤紫色の痕跡が刻まれている。その熱が、私が今「誰かの支配下」にあることを嫌というほど突きつけてきた。


「……陽菜さん、今日、ちょっと雰囲気違う?」


 講義が終わった後の休み時間、不意に声をかけられた。振り返ると、同じ授業を受けている佐藤くんが、心配そうな顔で立っていた。彼は学年でも「いい人」で通っている、日だまりのように穏やかな雰囲気の男子学生だ。キイチやネモのような過剰な美しさはないけれど、安心感を与える、いわば”現実の象徴”のような存在。


「あ、佐藤くん。……そうかな? 自分ではよくわからないけど」

「なんだろう、うまく言えないけどさ。……すごく、綺麗になったっていうか。でも、どこか遠いところに行っちゃったみたいな……」


 佐藤くんが、少し照れくさそうに笑いながら、私との距離を詰める。その瞬間、私は無意識に椅子を引いて後退した。佐藤くんの手が届く距離。それが、今の私には耐えがたい「侵入」のように感じられたのだ。


「あ、ごめん。驚かせるつもりじゃなかったんだ」

「ううん、大丈夫。……ちょっと寝不足なだけだから」

「そっか。……ねえ、もしよかったらこの後、駅前にできたカフェでも行かない? ほら、レポートの資料、僕、いいの持ってるんだ。貸してあげようかと思って」


 佐藤くんの提案は、至極真っ当で、親切なものだった。かつての私なら、喜んで頷いていただろう。けれど、今の私の脳内では、ネモの声が再生されていた。


『他者との接触による不純なデータの混入は、思考の純度を下げる。無意味です』


 ――断らなきゃ。そう思った瞬間、背後に「氷」のような気配が立ち上った。ざわざわと、講義室に残っていた学生たちの視線が一箇所に集まるのがわかる。

「――残念ながら。彼女のスケジュールは、僕が秒単位で管理しています」


 低く、冷たく、どこまでも理知的な声。振り返らなくてもわかる。ネモだ。彼はいつの間に現れたのか、私の背後に音もなく立ち、私の肩にその長い指を置いた。

講義室中の空気が、一瞬で凍りつく。プラチナブロンドの髪を完璧に整え、細身のスーツを身に纏ったネモは、大学の風景にはあまりに不釣り合いなほど高潔で、異質だった。


「……えっ。あ、あなたは……?」

佐藤くんが呆然とネモを見上げる。


「彼女の家庭教師兼、生活管理責任者のネモと申します。……佐藤さん、でしたか。彼女に学習資料を共有したいという親切心は評価しますが、あなたの持っているその資料は、内容が三年前の古いデータに基づいたものです。今の陽菜さんに与えるには、あまりに低品質だ」


 ネモは眼鏡の奥の瞳を冷たく光らせると、佐藤くんが持っていたファイルを指先で一瞥し、鼻で笑った。


「僕が彼女に与えている資料は、最新の海外論文を要約したものです。……あなたの出る幕はありません。わかったら、二度と彼女のパーソナルスペースに踏み込まないでいただきたい」


「……っ。な、なんだよ、あんた……」

佐藤くんは顔を真っ赤にして絶句し、周囲の視線に耐えきれなくなったのか、逃げるように教室を飛び出していった。


 静寂が戻った講義室で、私はネモを見上げた。彼は佐藤くんなど最初から存在しなかったかのように、私の髪を一房掬い上げると、その鼻先を寄せて深く息を吸い込んだ。


「……陽菜さん。一時間三十分。僕の目の届かない場所にいただけで、これほど不純な匂いをつけてくるとは。……計算外です」

「あ、あんな言い方しなくても……」


 瞬間。彼の指先が、私のブラウスの襟元を強く握りしめる。その瞳には、かつて見たことのない、昏い「激情」が渦巻いていた。


「帰りましょう。……あなたの脳と体に、誰が主人なのかを、改めて再定義する必要がありそうだ」



***



 大学からの帰り道、ネモは一言も発さなかった。タクシーの車内に漂う空気は、あまりに冷え切っていて、エアコンの冷気よりも鋭く私の肌を刺した。隣に座るネモは、端正な横顔を窓の外に向けて、まるで動かない彫像のように沈黙している。けれど、彼が置いた膝の上の拳が、白くなるほど強く握られているのを、私は見てしまった。


 マンションにつき、玄関のドアが閉まった瞬間。カチリ、とオートロックが作動する音が、世界の終わりを告げる鐘のように響いた。


「……ネモ、あのね。佐藤くんとは、本当に何でもなくて」


 弁明を口にした途端、強引に腕を掴まれ、寝室の壁に押し付けられた。ドサリ、とベッドに投げ出される。スプリングが軋む音とともに、ネモの影が私を覆い隠した。


「黙りなさい。あなたの言葉は、今、極めてノイズに近い」


 ネモの声は、いつも以上に低く、地を這うような冷徹さを帯びていた。彼は私の眼鏡を奪うと、サイドテーブルに放り投げた。視界がぼやける。その中で、彼の灰色の瞳だけが、異常なほどの光を放って私を射抜いていた。


「他者の指先が触れようとした距離。無意識に発した親愛のシグナル。それらがどれほど僕の演算を狂わせるか、理解していますか? あなたは僕の管理下にある『最高傑作』でなければならない。それなのに、あんな低俗な個体の不純物を、肌に、記憶に、付着させてくるとは……」


 ネモの手が、私の喉元に伸びた。締めるのではない。ただ、そこに刻まれた「印」を確かめるように、親指の腹で強く、皮膚が赤くなるまで擦る。


「……痛い、ネモ……っ」

「痛みは、覚醒のための信号です」


 ネモは私のブラウスのボタンを、一つずつではなく、引きちぎらんばかりの勢いで剥ぎ取った。露わになった肌を、冷たい夜気が撫でる。けれど、すぐに彼の唇がそれを塞いだ。


 それは、口づけと呼ぶにはあまりに暴力的で、鋭い「洗浄」だった。佐藤くんが視線を向けた肩。わずかに近づいた指先が触れそうになった手首。ネモは、それらすべてを、まるで汚れを削ぎ落とすかのように、執拗に噛み、吸い、自分の舌でなぞり尽くしていく。


「ん、あ……っ、ネモ、そこ……っ、ひぅ……!」


 彼の舌が触れるたび、私の脳内には鮮烈な檸檬の酸味がほとばしる。キイチの時のように、とろけるような快感ではない。それは、神経の一本一本を氷の刃でなぞられるような、鋭利な痺れ。逃げようと体をよじれば、彼はさらに強く私の手首をベッドに縫い付け、逃げ場を奪う。


「……逃がさない。あなたが僕のものだと、その細胞の隅まで理解させるまで……」


 ネモは私の足首を掴むと、膝を大きく開かせた。恥辱に顔を赤らめる私を、彼は眼鏡越しではない、剥き出しの瞳で見つめる。その瞳には、もはや論理など存在しなかった。そこにあるのは、知性という皮を被った、剥き出しの独占欲だ。


 彼は私の太ももの内側、最も柔らかい場所に、深く、鋭く噛み付いた。

「――っ!!」


 声にならない叫びが漏れる。鋭い痛みが脳を突き抜け、その後に、目の前がチカチカするほどの強烈な快感が追いかけてくる。傷口から溢れ出したのは、私の血ではなく、透き通った檸檬の雫のようだった。彼はそれを、愛おしそうに、そして貪欲に啜り上げる。


「……いい味だ。苺の甘さが完全に消え、僕の酸があなたの髄まで浸透している。……陽菜さん、もっと僕を感じなさい。僕の冷たさを、僕の鋭さを。……他の男の記憶など、一ミリも残らないくらいに」


 ネモの指が、私の熱を孕んだ場所に深く沈み込む。彼の指先は、相変わらず硝子のように冷たい。その冷たさが、中にある熱を、さらに異常なほど引き上げていく。私は彼のプラチナブロンドの髪を掻き乱し、のけぞった。


 窓の外では、夏の嵐が近づいているのか、風の音が激しさを増していた。けれど、この部屋の中は、真空のように静かで、狂おしい。


 ネモは私を抱き寄せ、耳元で掠れた声を出した。


「……嫉妬という感情は、非合理的だと思っていました。……ですが、認めざるを得ない。あなたを他の誰かに汚されるくらいなら、いっそ僕が、あなたを壊して結晶にしてしまいたい」


 その言葉は、どんな甘い愛の囁きよりも、私の心を震わせた。正しいはずの彼が、私という不確かな存在のせいで、狂い始めている。その歪みが、たまらなく愛おしくて、私は彼の背中に爪を立てた。


「……いいよ、ネモ。……私を、あなたの色だけで、塗り潰して……」


 深夜。嵐の雨音が窓を叩く中、私はネモの冷たい腕の中で、ようやく意識を手放した。体中には、消えることのない檸檬の印。佐藤くんの顔も、大学の風景も、もう思い出せない。私の世界は、この冷徹で美しい支配者の頭の中に、完全に閉じ込められてしまった。


 キッチンの瓶の底で、また一つ、パキリ、と新しいヒビが走る音を、私は夢の中で聞いた。

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