【第七話】支配者
朝六時、一秒の狂いもなくアラームが鳴る前に、私の意識は強制的に引き上げられた。カーテンが勢いよく開けられ、容赦のない初夏の光が寝ぼけた眼球を刺す。
「おはようございます。レム睡眠の周期から計算して、今が最も効率的な起床時間です。さあ、速やかに活動を開始してください」
枕元に立つネモは、昨夜と全く同じ、皺一つない白いシャツを完璧に着こなしていた。眼鏡の奥の灰色の瞳には、眠気のかけらも見当たらない。彼は手にしたタブレットに視線を落としながら、淡々と今日の私のスケジュールを読み上げ始めた。
「午前中は溜まっている講義のレポート三本。午後は来週の予習。合間に三十分の散歩と、栄養バランスを計算した食事を挟みます。……陽菜さん、聞いていますか?」
「……う、うん。聞いてるけど……」
私は重い体を引きずりながら、ベッドから這い出した。キイチがいた頃は、昼過ぎまでまどろみの中で甘い抱擁を交わしていたというのに。この男が来てから、私の生活はまるで軍隊の寄宿舎か、あるいは精密機械の工場のように作り替えられようとしていた。
キッチンへ向かうと、そこにはすでに朝食が用意されていた。全粒粉のトーストに、ノンオイルのオムレツ。そして、たっぷりのレモンが添えられたサラダ。飲み物は、砂糖を極限まで控えた、鋭い酸味の効いたレモネードだ。
「……酸っぱい」
「クエン酸は疲労回復と集中力の向上に寄与します。今のあなたには、感傷に浸るための糖分ではなく、現実を直視するための刺激が必要だ。違いますか?」
ネモは私の向かい側に座り、自分はブラックのコーヒーを口に運ぶ。彼の所作は、どこまでも美しい。カップを持つ指先、背筋の伸びた姿勢。すべてが定規で測ったかのように正確で、隙がない。
「あの、ネモ。私、そんなにテキパキできないよ。レポートだって、まだ全然手がつかなくて……」
「それはあなたが、脳内のリソースを『過去の不毛なデータ』に割いているからです」
ネモは冷たく言い放つと、私の手からレモネードのグラスを取り、私に顔を寄せた。
「キイチという個体の残滓を、いつまで保存しておくつもりですか? 彼はすでに消失した。再現不可能なデータに執着するのは、知的な存在として下の下です」
「そ、そんな言い方……!」
「事実を言っているだけです。……ほら、口を開けて」
拒絶する間もなく、彼の指が私の唇を割り、中に冷たいレモンの輪切りを押し込んだ。
「……っ!? んぐ……」
「噛んで。その酸味が脳に達するまで」
強制的に奥歯でレモンを噛み潰すと、激しい酸っぱさが舌の細胞を焼き、鼻に抜けた。あまりの刺激に涙が滲む。けれど、その瞬間に視界が驚くほどクリアになり、停滞していた思考が無理やり回転を始めるのが分かった。
「……いい反応だ。やはりあなたは、導き手が必要な人間だ」
ネモは満足そうに目を細めると、私の頬を指先で一撫でした。その指先は、やはり硝子のように冷たかった。けれど、触れられた場所だけが、じりじりと熱を帯びていく。キイチの甘さが「温かな泥」なら、ネモの支配は「凍てつく刃」だ。私は、自分がその刃に削り取られていく感覚に、恐怖と――そして、説明のつかない安堵を感じ始めていた。
***
レポート作成は、拷問に近い時間だった。私の背後に立ち、ネモは一文字書き進めるたびに、冷徹な指摘を投げかけてくる。
「論理の飛躍があります。その形容詞は不要だ。……もっと端的に、事象を記述してください」
「……もう、無理。頭痛くなってきた」
ペンを投げ出そうとする私の手を、ネモの大きな手が上から押さえつけた。彼の胸板が私の背中に触れる。シャツ越しに伝わる、抑制された体温。キイチの時はあんなに激しく心臓の音が聞こえたのに、ネモの鼓動は静かで、一定のリズムを刻んでいる。
「中断は許可しません。苦痛は、脳が再構築されている証拠です。陽菜さん……あなたは、もっと透明にならなければいけない」
彼の囁きが耳元で弾ける。レモンの皮のような、苦味を孕んだ香りが私を包み込む。ネモの自由な方の手が、私の項から背筋へとゆっくりと滑り降りた。
「っ……あ……ネモ、これ……レポートに関係ない……」
「関係あります。あなたの身体的ストレス値を計測し、適切な『刺激』を与えることで、集中力を再起動させる。これも管理の一環です」
詭弁だ。そんなことは分かっている。けれど、彼の指先がブラウスの上から背骨のラインをなぞるたびに、頭の中の雑音が消えていく。キイチへの未練も、大学への不安も、すべてが白い光の中に溶けて消えていく。
「陽菜さん。あなたは、僕にすべてを委ねればいい。食事も、睡眠も、思考も。僕があなたを、最も美しい形に整えてあげます」
ネモは私の耳たぶを甘く噛んだ。痛い。けれど、その痛みとともに、脳内に鮮烈な酸味がほとばしる。 彼は私を椅子から立たせると、そのままデスクの上に私を座らせた。積み上げられた参考書が散らばり、床に落ちる。
「……キイチは、あなたを甘やかして腐らせようとした。僕は違う」
ネモは私の眼鏡を外し、私の瞳を至近距離で見つめた。灰色の瞳に、狼狽する私の顔が映っている。
「僕は、あなたを研ぎ澄ませたい。僕の酸で、余計な肉を溶かし、骨の髄まで僕の色に染め上げたい」
彼は私の手首を掴み、自分の首筋へと導いた。そこには、昨日の「消毒」の時に私が無意識に爪を立てた跡が、うっすらと残っていた。
「……ここは、あなたの印です。論理的ではありませんが、嫌いではない。ですから、僕もあなたに印をつけます。……一生消えない、僕の味を」
ネモは私のブラウスのボタンを、一つ、また一つと外していく。その手つきは驚くほど正確で、迷いがない。 彼は私の鎖骨の窪みに顔を埋めると、そこを強く吸い上げた。
「……っ! んあ……っ!」
キイチの時とは違う、鋭利な感覚。レモンの果汁を直接傷口に塗り込まれたような、焼けるような快楽。私は、ネモのプラチナブロンドの髪に指を絡ませ、のけぞった。窓の外では、いつの間にか雨が上がり、夏の始まりを告げる蝉の声が遠くで聞こえ始めていた。
レポートの続きなんて、もうどうでもよかった。この冷たくて、鋭くて、容赦のない支配者の中で、私は自分が一滴のシロップになっていくのを、恍惚として受け入れていた。
「……いいですよ、陽菜さん。その調子で、僕だけを演算しなさい」
ネモの冷たい唇が、私の唇を塞ぐ。その味は、涙が出るほど酸っぱくて――そして、キイチのどんな甘さよりも、私の心を強く繋ぎ止めていた。
これが、私の二つ目の堕落。苺の夢から覚めた私を待っていたのは、檸檬の硝子細工のような、美しくも残酷な檻だった。




