表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
シロップ男子。~賞味期限付きの愛~  作者: ぐうすけ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/16

【第六話】雨上がり

 窓の外では、止むことのない雨が灰色の街を濡らし続けていた。

 六月。湿り気を帯びた空気が肌にまとわりつき、部屋の隅々まで重苦しい沈黙を押し広げている。


 キイチが消えてから、一ヶ月が過ぎた。私の生活は、表面上は驚くほど平穏を取り戻していた。大学へ行き、ノートを取り、学食で一人静かに食事をする。誰かに執着されることも、無理やり「上書き」されることもない日常。それはかつて私が望んでいたはずの「静かな城」だった。


 けれど、今の私にとって、その静寂は耳鳴りのように不快だった。ふとした瞬間に、鼻腔をくすぐる苺の幻香。無意識に隣を探してしまう、夜の冷たいシーツ。私は、自分が思っていた以上に深く、あの「甘い猛毒」に侵されていたのだ。


「……これじゃ、ダメだ」


 キッチンの隅で、主を失ったままの大きな瓶を見つめる。底にある細いヒビは、この一ヶ月でさらに少しだけ長く、深くなっているように見えた。まるで、飢えた生き物が口を開けて、次の獲物を待っているかのように。


 私は、スーパーの袋から「国産レモン」を取り出した。ワックスのかかっていない、瑞々しい黄色の果実。苺のような愛らしさはないが、そこには背筋を正されるような、冷徹なまでの鮮烈さがあった。


 まな板の上にレモンを置き、包丁を立てる。サクッ、という小気味よい音とともに、黄色い皮が弾けた。その瞬間、鋭い酸味の香りが一気に広がり、淀んでいた部屋の空気を切り裂く。


(ああ……これだ)


 苺の甘さが「包み込む熱」だったなら、レモンの香りは「削ぎ落とす刃」だ。私は無心でレモンを薄い輪切りにしていく。一枚、また一枚。断面から溢れ出す果汁が指先に触れ、ささくれにピリリと染みた。その痛みが、眠っていた私の感覚を無理やり呼び覚ましていく。


 熱湯消毒した瓶に、レモンを敷き詰める。その上から、透明な氷砂糖をさらさらと注ぐ。キイチの時よりも、砂糖の量は少しだけ控えめにした。

「……お願いします。この痛みを、全部洗い流して」


 祈るような気持ちで蓋を閉めた。その夜、雨音を聞きながら深い眠りに落ちた私の耳に、懐かしい「カチリ」という音が聞こえたのは、深夜を回った頃だった。


 翌朝。目が覚めた瞬間、部屋の中が「光」で満ちていることに気づいた。梅雨の晴れ間。窓から差し込む強烈な日差しが、フローリングを白く焼いている。そして、その光の中に――彼はいた。


 キイチのようにベッドに潜り込んでいるのではない。彼は窓際にある唯一の椅子に深く腰掛け、私が大学の課題のために積み上げていた本を一冊、静かにめくっていた。


 プラチナブロンドに近い、淡い黄色の髪。縁の細い眼鏡の奥にある、冷徹なまでに理知的な灰色の瞳。  白いシャツを首元まできっちりと留め、膝を組んで本を読むその姿は、まるで古い図書館に住まう精霊のような、現実離れした美しさがあった。


「……あ」

声が、震えた。


 青年は本を閉じると、ゆっくりと私に視線を向けた。そこに、キイチのような熱烈な歓迎はない。ただ、観察するような、淡々とした視線。


「おはようございます。ようやく覚醒しましたか」


 涼やかな、けれど少しだけ刺のある声。彼は眼鏡を指先で押し上げると、私の顔をじっと見つめて、ふっと口角を上げた。


「……ひどい顔だ。苺のシロップに脳まで溶かされたと見えますね」



***



その言葉は、私の胸の奥に潜んでいた未練を容赦なく暴き立てた。私は布団を握りしめ、椅子に座る彼――ネモを睨みつけた。


「……誰、あなた」

「ネモ。あなたが今、瓶の中に閉じ込めた果実の化身……とでも言えば理解できますか? あなたの父上が言うところの『シロップ男子』ですよ、僕は」


 ネモは立ち上がると、音もなく私に近づいてきた。キイチが「陽動」なら、彼は「静止」。彼の周囲だけ、気温が数度低いのではないかと錯覚するほどの清涼感。けれど、その奥に潜む檸檬特有の「鋭さ」が、私の肌をチクチクと刺激する。


「あなたが求めたのは、キイチという男が残した『甘すぎる後悔』を洗浄することでしょう? 実に非効率で、感情的な選択だ」


 彼は私のベッドの端に腰を下ろした。不意に、彼の長い指が私の顎を掬い上げる。逃げようとしたが、その指先の冷たさが心地よくて、動けなかった。


「……泣いていたんですね。苺が消えてからの三十日間、ずっと。無意味なのに」

「……無意味じゃない。あの子は、私を、愛してくれたから……っ」

「愛? 違いますね。あれはただの『過剰な糖分による依存』です。あなたは彼に甘やかされ、自分で立つ力を奪われただけだ」


 ネモの言葉は、正論すぎて痛い。彼はそのまま、もう片方の手で私の首筋に残った、薄い痕跡――キイチがつけた最後の印をなぞった。


「まだ残っている。……不潔ですね」


 冷たい声。けれど、次の瞬間。ネモは私の首筋に顔を寄せると、その痕跡をなぞるように、舌先を滑らせた。


「っ……!? な、に……」

「消毒です。レモンは殺菌効果が高いんですよ。……苺の腐った匂いを、僕が消してあげます」


 舌先が触れた瞬間、体がビクンと跳ねた。キイチの時の、ドロリとした熱さとは違う。それは、氷を直接肌に押し当てられたような鋭い冷感と、その後にやってくる、焼けるような痺れ。


「……っ、ふ……あ……」

「いい声だ。苺の時よりも、ずっと理性が混じっている」


 ネモは唇を離すと、私の瞳をじっと見つめた。彼の瞳は、感情を排しているようでいて、その実、捕食者が獲物を見定めているような残酷な光を宿している。


「陽菜さん。僕はキイチのように、あなたを甘やかしはしません。むしろ、あなたのその濁った感情を、徹底的に解体し、精製してあげます」


 彼は私の手のひらを取り、自分の唇に運んだ。人差し指を軽く噛まれる。鋭い犬歯が皮膚に食い込み、微かな痛みが走った。そこから、彼自身の「体液」――痺れるような酸味を孕んだ檸檬の雫が、私の中に流れ込んでくる。


「っ、すっぱい……」

「そう。それが本当の、刺激というものです。……さあ、講義に行きましょう。今日からは僕が、あなたの不毛な感傷を、すべて否定してあげますから」


 ネモは立ち上がり、私のクローゼットから大学に着ていくための服を選び始めた。まるで、私の生活すべてを管理下に置くのが当然だと言わんばかりの、傲岸不遜な態度。


 苺のような溺れるような愛ではなく。檸檬のような、鋭く、痺れるような支配。


 私は、自分が新しい、そしてもっと厄介な「毒」に手を出してしまったことを、本能的に理解した。  けれど、彼に触れられた首筋は、今までで一番、清潔で、熱かった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ