【第六話】雨上がり
窓の外では、止むことのない雨が灰色の街を濡らし続けていた。
六月。湿り気を帯びた空気が肌にまとわりつき、部屋の隅々まで重苦しい沈黙を押し広げている。
キイチが消えてから、一ヶ月が過ぎた。私の生活は、表面上は驚くほど平穏を取り戻していた。大学へ行き、ノートを取り、学食で一人静かに食事をする。誰かに執着されることも、無理やり「上書き」されることもない日常。それはかつて私が望んでいたはずの「静かな城」だった。
けれど、今の私にとって、その静寂は耳鳴りのように不快だった。ふとした瞬間に、鼻腔をくすぐる苺の幻香。無意識に隣を探してしまう、夜の冷たいシーツ。私は、自分が思っていた以上に深く、あの「甘い猛毒」に侵されていたのだ。
「……これじゃ、ダメだ」
キッチンの隅で、主を失ったままの大きな瓶を見つめる。底にある細いヒビは、この一ヶ月でさらに少しだけ長く、深くなっているように見えた。まるで、飢えた生き物が口を開けて、次の獲物を待っているかのように。
私は、スーパーの袋から「国産レモン」を取り出した。ワックスのかかっていない、瑞々しい黄色の果実。苺のような愛らしさはないが、そこには背筋を正されるような、冷徹なまでの鮮烈さがあった。
まな板の上にレモンを置き、包丁を立てる。サクッ、という小気味よい音とともに、黄色い皮が弾けた。その瞬間、鋭い酸味の香りが一気に広がり、淀んでいた部屋の空気を切り裂く。
(ああ……これだ)
苺の甘さが「包み込む熱」だったなら、レモンの香りは「削ぎ落とす刃」だ。私は無心でレモンを薄い輪切りにしていく。一枚、また一枚。断面から溢れ出す果汁が指先に触れ、ささくれにピリリと染みた。その痛みが、眠っていた私の感覚を無理やり呼び覚ましていく。
熱湯消毒した瓶に、レモンを敷き詰める。その上から、透明な氷砂糖をさらさらと注ぐ。キイチの時よりも、砂糖の量は少しだけ控えめにした。
「……お願いします。この痛みを、全部洗い流して」
祈るような気持ちで蓋を閉めた。その夜、雨音を聞きながら深い眠りに落ちた私の耳に、懐かしい「カチリ」という音が聞こえたのは、深夜を回った頃だった。
翌朝。目が覚めた瞬間、部屋の中が「光」で満ちていることに気づいた。梅雨の晴れ間。窓から差し込む強烈な日差しが、フローリングを白く焼いている。そして、その光の中に――彼はいた。
キイチのようにベッドに潜り込んでいるのではない。彼は窓際にある唯一の椅子に深く腰掛け、私が大学の課題のために積み上げていた本を一冊、静かにめくっていた。
プラチナブロンドに近い、淡い黄色の髪。縁の細い眼鏡の奥にある、冷徹なまでに理知的な灰色の瞳。 白いシャツを首元まできっちりと留め、膝を組んで本を読むその姿は、まるで古い図書館に住まう精霊のような、現実離れした美しさがあった。
「……あ」
声が、震えた。
青年は本を閉じると、ゆっくりと私に視線を向けた。そこに、キイチのような熱烈な歓迎はない。ただ、観察するような、淡々とした視線。
「おはようございます。ようやく覚醒しましたか」
涼やかな、けれど少しだけ刺のある声。彼は眼鏡を指先で押し上げると、私の顔をじっと見つめて、ふっと口角を上げた。
「……ひどい顔だ。苺のシロップに脳まで溶かされたと見えますね」
***
その言葉は、私の胸の奥に潜んでいた未練を容赦なく暴き立てた。私は布団を握りしめ、椅子に座る彼――ネモを睨みつけた。
「……誰、あなた」
「ネモ。あなたが今、瓶の中に閉じ込めた果実の化身……とでも言えば理解できますか? あなたの父上が言うところの『シロップ男子』ですよ、僕は」
ネモは立ち上がると、音もなく私に近づいてきた。キイチが「陽動」なら、彼は「静止」。彼の周囲だけ、気温が数度低いのではないかと錯覚するほどの清涼感。けれど、その奥に潜む檸檬特有の「鋭さ」が、私の肌をチクチクと刺激する。
「あなたが求めたのは、キイチという男が残した『甘すぎる後悔』を洗浄することでしょう? 実に非効率で、感情的な選択だ」
彼は私のベッドの端に腰を下ろした。不意に、彼の長い指が私の顎を掬い上げる。逃げようとしたが、その指先の冷たさが心地よくて、動けなかった。
「……泣いていたんですね。苺が消えてからの三十日間、ずっと。無意味なのに」
「……無意味じゃない。あの子は、私を、愛してくれたから……っ」
「愛? 違いますね。あれはただの『過剰な糖分による依存』です。あなたは彼に甘やかされ、自分で立つ力を奪われただけだ」
ネモの言葉は、正論すぎて痛い。彼はそのまま、もう片方の手で私の首筋に残った、薄い痕跡――キイチがつけた最後の印をなぞった。
「まだ残っている。……不潔ですね」
冷たい声。けれど、次の瞬間。ネモは私の首筋に顔を寄せると、その痕跡をなぞるように、舌先を滑らせた。
「っ……!? な、に……」
「消毒です。レモンは殺菌効果が高いんですよ。……苺の腐った匂いを、僕が消してあげます」
舌先が触れた瞬間、体がビクンと跳ねた。キイチの時の、ドロリとした熱さとは違う。それは、氷を直接肌に押し当てられたような鋭い冷感と、その後にやってくる、焼けるような痺れ。
「……っ、ふ……あ……」
「いい声だ。苺の時よりも、ずっと理性が混じっている」
ネモは唇を離すと、私の瞳をじっと見つめた。彼の瞳は、感情を排しているようでいて、その実、捕食者が獲物を見定めているような残酷な光を宿している。
「陽菜さん。僕はキイチのように、あなたを甘やかしはしません。むしろ、あなたのその濁った感情を、徹底的に解体し、精製してあげます」
彼は私の手のひらを取り、自分の唇に運んだ。人差し指を軽く噛まれる。鋭い犬歯が皮膚に食い込み、微かな痛みが走った。そこから、彼自身の「体液」――痺れるような酸味を孕んだ檸檬の雫が、私の中に流れ込んでくる。
「っ、すっぱい……」
「そう。それが本当の、刺激というものです。……さあ、講義に行きましょう。今日からは僕が、あなたの不毛な感傷を、すべて否定してあげますから」
ネモは立ち上がり、私のクローゼットから大学に着ていくための服を選び始めた。まるで、私の生活すべてを管理下に置くのが当然だと言わんばかりの、傲岸不遜な態度。
苺のような溺れるような愛ではなく。檸檬のような、鋭く、痺れるような支配。
私は、自分が新しい、そしてもっと厄介な「毒」に手を出してしまったことを、本能的に理解した。 けれど、彼に触れられた首筋は、今までで一番、清潔で、熱かった。




