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シロップ男子。~賞味期限付きの愛~  作者: ぐうすけ


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【第五話】冷たい朝

目が覚めた瞬間、世界から色が消えていた。


 シーツの間に残っていた熱はとうに失われ、指先が触れたのは、刺すように冷たい空気だけだった。  私は跳ね起きるようにして、隣を確かめる。


「……キイチ?」


 かすれた声で呼んでみる。けれど、返ってくるのは冷蔵庫の低い唸り音だけ。数日前まで当たり前だったはずの、むしろどこか望んでいたはずの「独りの静寂」が、今は耳を塞ぎたくなるほど不快で、恐ろしかった。


 枕元には、彼がつけていた真っ赤な髪の毛が一筋だけ落ちていた。それに触れようと指を伸ばした瞬間、さらりと、灰のように崩れて消えた。魔法が解けたのだ。一週間。シロップが食べ頃になれば、彼は消える。彼が言っていた通りの、あまりに正確で、そして残酷な幕切れ。


「っ……あ……」


 胸の奥が、ぎりぎりと音を立てて軋む。パジャマのボタンを外し、鏡の前に立つ。首筋や鎖骨には、まだ彼が残した「上書き」の痕跡が、淡く紫色の花びらのように残っている。もったりと首をかかげて眺めた鏡の中の私は、ひどく惨めな顔をしていた。

大学をサボり、生活を捨て、ただ一人の「幻」に、すべてを捧げた成れの果て……。


(忘れないで。俺の熱さを、絶対に忘れないで――)


 耳元で、彼の掠れた声がリフレインする。忘れるわけがない。むしろ、覚えていることがこれほどの地獄だなんて、聞いていなかった。部屋にはまだ、微かに苺の香りが漂っている。それが消えてしまうのが怖くて、私は窓を開けることさえできない。


 ふらふらとした足取りで、キッチンへ向かう。カウンターの隅に、あの大きなガラス瓶が鎮座していた。


 昨夜まであんなに眩しく彼を輝かせていた瓶は、今は空っぽだ。けれど、ふと違和感を感じ、よく見ると――底の方に、数ミリ。真っ赤な、ドロリとした濃密なシロップが、名残惜しそうに溜まっていた。


 私は震える指でその滴を掬い、そっと口に含んだ。

「……っ、う……」


 喉が焼けるような甘さ。そして、暴力的なまでのキイチの味。指に残った最後の一滴を啜り上げた瞬間、涙が溢れて止まらなくなった。もう、この味を知る前の私には戻れない。独りの静寂に耐えられる私には、二度と。


 私は縋り付くようなふらふらとした手つきで、空になった瓶を洗った。スポンジがガラスを擦る音が、静かな部屋に空虚に響く。ふと、瓶の底の方に、昨日まではなかった「筋」があることに気づいた。


「これ……傷?」


 髪の毛よりも細い、小さなヒビ。けれど、今の私にはそんなことを強く気にする余裕はなかった。私はからっぽの心のまま、棚の奥から、父が瓶と一緒に持たせてくれた古い手帳を取り出す。そこには掠れた文字で、シロップ作りの「心得」が記されていた。


『果実は、季節の呼応を待たねばならない。さみしいからと、焦ってはいけないよ。』


 ――季節の、呼応。私はキッチンに置かれた、一玉の檸檬を見つめる。今すぐにでもこれを切り刻み、新しい「誰か」にこの孤独を埋めてほしい。けれど、私の体にはまだキイチの熱が、苺の香りがこびりついている。この状態で新しいシロップを仕込んでも、きっとキイチの残像を追うだけになってしまう。


 私は檸檬を冷蔵庫の奥に押し込んだ。今はまだ、この痛みを抱えていなければいけない気がした。それが、私を「愛してくれた」彼への、唯一の弔いのような気がして。



 それからの五月は、灰色だった。大学へは行く。講義も受ける。友人たちと昼食を食べ、当たり障りのない会話に微笑みを返す。けれど、私の心は常に、あの狭いワンルームに置き去りにされていた。


 帰宅してドアを開けるたび、苺の香りが薄れていく。シーツを洗えば、彼の体温は消える。首筋の痕が消えたとき、私はお風呂場で声を殺して泣いた。現実の世界は、彼がいなくても、残酷なほど正しく、美しく、滑らかに回っていた。


 ――寂しい。誰でもいい、私を狂わせて。


 そんな祈りが届いたのか。カレンダーが六月に差し掛かり、窓の外がじっとりとした梅雨の湿気に包まれ始めた頃。キッチンカウンターに置かれた「空の瓶」が、パキリ、と小さく音を立てた。


 底のヒビが、少しだけ深くなっている。瓶自体には意識は無いはずなのに……まるで、中身を欲して喉を鳴らしているかのように。


「……もう、限界だよ」


 私は冷蔵庫の奥から、出番を待っていた檸檬を取り出した。苺の季節は終わった。次は、この喉に焼け付くような、甘く苦しい未練を、すべて酸っぱく洗い流してくれるような――。


 私は、鋭いナイフを檸檬の皮に立てた。弾けるような爽快な香りが、澱んでいた部屋の空気を切り裂く。


 チリン、と。新しい氷砂糖が、ガラスの底で乾いた音を立てた。初夏の気配とともに、私は二度目の禁忌に、静かに手を伸ばした。それが良いことなのかは、誰にもわからないまま。

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