【第四話】さよならの味
目覚めた瞬間、自分がどこにいるのか分からなかった。重い。まぶたも、体も、鉛のように重くて、熱い。
ぼんやりと視線を巡らせると、見慣れたはずの自分の部屋が、ひどく狭く感じられた。空気が濃密なのだ。熟しきった苺を煮詰めて、さらにリキュールを垂らしたような、むせ返るほどの甘い香り。それが部屋の隅々まで充満している。
「ん……起きた? 俺の陽菜」
耳元で、熱い吐息とともに低い声がした。寝返りを打とうとした私の体を、キイチの腕ががっしりと抱きすくめている。彼の体温は、人のそれよりも明らかに高い。まるで熱源そのものだ。
「キイチ……今、何時……?」
「さあね。昼過ぎじゃないかな。君のスマホ、うるさかったから電源切っといたよ」
彼は悪びれもせず、私の首筋に顔を埋めてクスクスと笑った。昼過ぎ。その言葉に、私はぼんやりとした頭で理解する。大学の講義を、完全にすっぽかしてしまったのだ。本来なら焦るべき状況だ。単位が、出席日数が。けれど、キイチの熱に触れていると、そんな現実社会のルールが、どうでもいいことのように思えてくる。
「……いい子だね、陽菜。外の世界なんて、忘れちゃえばいい」
私の思考を読んだように、キイチが満足げに囁く。彼の指先が、私の鎖骨のあたりをゆっくりとなぞった。そこには、昨夜彼がつけた、赤い花びらのような跡がいくつも残っている。
「君の体、すごいことになってる。全部、俺のしるしだ」
キイチは痕跡の一つに、愛おしそうに口づけを落とした。ちゅ、と湿った音が静かな部屋に響く。その音だけで、昨夜の熱気が蘇り、体の芯が再び疼く。
「ねえ、今日もサボっちゃおうよ。あと二日しかないんだ。一秒だって、他のことに使わせたくない」
あと二日。その言葉が、甘い毒のように私の理性を麻痺させる。そうだ。あと少しで、この熱は消えてしまう。なら、今は――。
私は無言で、彼にしがみついた。それが答えだった。キイチは喉の奥で嬉しそうに唸ると、私をベッドに押し戻した。
窓の外は、平日昼間の明るい光に満ちているはずだ。けれど、カーテンを閉め切ったこの部屋だけは、昼も夜もない、蜜のようにドロドロとした時間に沈んでいた。
***
時間が溶けていく。食事をするのも忘れ、私たちはただ、互いの存在を確かめ合うように触れ合っていた。肌が触れるたび、キイチの体から滲み出る甘い香りが、私の毛穴から染み込んでいくようだ。
日が暮れて、部屋が完全な闇に包まれる頃。キイチの様子が、少し変わった。それまでの、余裕のある愛撫ではない。どこか焦燥に駆られたような、痛いほど強い力で私を抱きしめたのだ。
「……陽菜。陽菜……っ」
私の名前を呼ぶ声が、震えているように聞こえた。彼は私の唇を塞ぐと、息継ぎの間も与えないほど深く、激しく求め始めた。
「ん、っ……キイ、チ……くるし……っ」
酸素が足りない。けれど、彼は許してくれない。彼の舌が口内を蹂躙し、唾液が混じり合う。その味は、涙が出るほど甘く、そして切ない味がした。まるで、自分の存在すべてを私の中に流し込もうとしているかのような、必死な口づけ。
「忘れないで。お願いだ、俺の味を、俺の熱さを、絶対に忘れないでくれ……」
唇が離れた一瞬の隙に、彼が懇願するように囁いた。その瞳は、欲望で赤く濁っているのに、どこか迷子のように泣き出しそうに見えた。
「俺は、君の寂しさから生まれたんだろ? なら、俺がいなくなったら、君はまた一人で泣くのか?」
彼の指が、私の頬を濡らす涙を拭う。私も泣いていたのだと、その時初めて気づいた。
「そんなの、嫌だ。……俺が消えた後も、君はずっと俺に焦がれていればいい。他の男なんて見えなくなるくらい、俺の毒で満たされてしまえばいい」
キイチは私のうなじに噛み付いた。痛い。けれど、その痛みが、彼が今ここに生きているという証拠だった。
「愛してる、陽菜。……こんなに甘く作りやがって。馬鹿なご主人様だ」
彼の体が、熱い塊となって私にのしかかる。私はもう、抵抗することはおろか、考えることさえ放棄していた。ただ、彼が与えてくれる熱と、甘い痛みの波に、溺れるように身を委ねた。
部屋の隅で、空っぽのガラス瓶が月明かりを反射して光る。その冷たい輝きが、「終わり」の時がすぐそこまで来ていることを残酷に告げていた。けれど今夜だけは。この体が溶けてシロップになってしまうまで、彼の一部でいたかった。




