【第三話】恋人ごっこ
翌朝、私は大学の講義が午後からだったこともあり、少しだけゆっくりとした目覚めを迎えた。キッチンからは、小気味よい包丁の音と、香ばしいパンの匂いが漂ってくる。
「あ、起きた? おはよう、陽菜」
エプロン姿――といっても、私の部屋にあった可愛らしいフリルのついたものを無理やり身につけたキイチが、フライパンを片手に振り返った。赤い髪を後ろで適当に結び、少しだけ露出したうなじが朝の光にさらされている。その姿は、まるですでに何年も連れ添った恋人のようで、私の胸をちくりと刺した。
「おはよう、キイチ。……本当に、料理上手だね」
「君がちゃんと食べないと、俺、美味しくなくなっちゃうからね」
彼はさらりとそう言って、トーストを皿に並べた。食事の間も、キイチは私の視線を逃さない。まるで、私が目を離した隙にどこかへ消えてしまうのを恐れているかのように。
「ねえ、陽菜。今日、これから買い物に行かない? 冷蔵庫、もう空っぽだよ」
「えっ、外に出るの? キイチが?」
「当たり前だろ。俺、一応実体はあるんだよ? 君以外の人間にも見えるし、触れる。……まあ、君以外に触らせる気はないけど」
いたずらっぽく、けれど瞳の奥に独占欲を宿して彼は笑った。確かに、彼は完全に人間の姿をしている。外に出ても、少し人目を引くほど整った容姿の青年、として扱われるだけだろう。
「わかった。……じゃあ、準備するね」
駅前のスーパーまでの短い道のり。私は、キイチと並んで歩くことに、かつてない緊張感を覚えていた。大学での私は、風景の一部のように誰にも気づかれない存在だ。けれど、隣に立つキイチは、すれ違う人々が思わず二度見してしまうほどの圧倒的なオーラを放っている。
「陽菜、離れすぎ。もっとこっちに来て」
キイチは当然のように私の腰を引き寄せた。人混みの中で、彼の体温がダイレクトに伝わってくる。
「ちょ、キイチ……。外なんだから……」
「外だからだよ。君が他の誰かにぶつかったり、誰かに見惚れられたりするの、俺、我慢できないんだけど」
彼は私の耳元で、甘く、けれど拒絶を許さないトーンで囁いた。スーパーに入っても、彼の「護衛」は続いた。野菜を選んでいるときも、肉のパックを手に取っているときも、彼は常に私の背後に寄り添い、ときおり私の肩に顎を乗せて「これにする?」と覗き込んでくる。
店内に流れる安っぽいBGMさえ、彼と一緒にいると特別な映画の劇伴のように聞こえてくるから不思議だ。ふと、果物売り場で足が止まった。そこには、パックに詰められた真っ赤な苺が並んでいた。
「……あ。これ……」
「ん? ああ、俺の仲間?」
キイチは並んだ苺を眺めて、ふっと自嘲気味に笑った。
「これ、甘そうだね。買う?」
「ううん……。だって、私にはキイチがいるし」
無意識に出た言葉だった。キイチは一瞬、目を見開いた後、私の手首を掴んで、陳列棚の影に私を押し込んだ。
「……陽菜。今の、もう一回言って」
「えっ、何、急に……」
「『私にはキイチがいる』って。……ねえ、言ってよ」
彼の瞳が、熱を帯びて私を射抜く。スーパーの通路、人目がすぐそこにあるというのに。キイチの指先が私の手の甲をなぞり、ゆっくりと指を絡めていく。
「……君がそうやって俺を必要としてくれるなら。俺、一週間じゃなくて、一生ここにいたくなっちゃうじゃないか」
その言葉は、甘い約束のようでいて、守られないことが決まっている「呪い」のようにも聞こえた。
***
買い出しを終えて部屋に戻ると、窓の外は燃えるような残照に包まれていた。オレンジ色から深い紫へと溶けていく空の色は、まるで熟しすぎた果実のようだ。
「……ふう。結構買っちゃったね」
キッチンカウンターにレジ袋を置き、荷解きを始める。卵、牛乳、お肉、そしてあの真っ赤な苺。日常の風景。けれど、その横でキイチが私の手から牛乳パックを取り上げ、冷蔵庫にしまうのを手伝ってくれる。そのごく当たり前の動作が、今の私には奇跡のように思えて、視界がわずかに熱くなった。
ふと、壁にかけたカレンダーが目に入る。キイチが現れてから、今日で三日目。一週間という期限の、半分が過ぎようとしている。
「……っ」
無意識に、数字を数えてしまった。途端に、心臓を冷たい手が握りつぶしたような痛みが走る。あと、四日。四回夜を越せば、この温かな体温も、部屋を満たす甘い香りも、すべて幻のように消えてしまう。
「陽菜」
背後から、低い声が降ってきた。振り返る間もなく、キイチの腕が私の腰を背後から抱きしめる。大きな手のひらが、私の腹部を圧迫し、逃げ場を塞ぐ。
「カレンダー、見ないでって言っただろ。……今、すごく悲しい匂いがした」
彼の顔が、私の肩口に埋められる。深い吐息とともに、うなじを熱い唇がかすめた。
「……だって、もう半分だよ、キイチ。……私、どうすればいいの」
「何もしなくていい。俺だけ見てればいいんだ。君が不安になるたびに、俺の味が、もっと濃くなる……」
キイチは私をくるりと自分の方へ向かせると、キッチンカウンターに私の体を押し付けた。逃げられない。背中には硬い大理石の感触。目の前には、欲望を隠そうともしない、真っ赤な瞳。
「陽菜。……さっきの続き、しよ」
スーパーの苺売り場で中断された、あの熱。彼は私の顎を指先で掬い上げ、ゆっくりと顔を近づけてくる。 「……っ、ん……」
唇が重なった瞬間、脳内が真っ白に弾けた。キイチのキスは、朝のそれよりもずっと深く、貪るような熱を帯びている。舌先が絡み合うたび、口内に濃厚な苺のシロップが溢れ出すような感覚。甘い。あまりに甘くて、呼吸を忘れる。
彼の手がパジャマの下から這い上がり、素肌を直接なぞり始めた。指先が触れるたび、皮膚が粟立ち、熱が全身を駆け巡る。
「あ……っ、キイチ……」
「逃がさない。君が俺のこと、一生忘れられないように……。心臓の奥まで、俺の砂糖で漬け込んであげる」
キイチの言葉は、まるで呪文のように私の理性を溶かしていく。彼は私の首筋に深く顔を埋めると、脈打つ場所に執拗に吸いついた。痛いほどの刺激。けれど、それが「彼がここにいる」という唯一の証明のように思えて、私は彼の背中に必死に指を立てた。
夕闇に包まれた室内。キッチンの隅で、空になったあの大きな瓶が、二人の姿を歪んだガラス越しに見守っている。砂糖が果実を溶かすように。キイチの愛は、私の「日常」を、一歩ずつ、確実に壊し始めていた。
明日のことなんて考えたくない。ただ、この甘い猛毒に全身を浸して、永遠に眠っていたい。
「陽菜……もっと、俺を食べて……」
キイチの囁きに、私はただ、涙をこらえて彼を抱きしめ返すことしかできなかった。




