【第二話】甘い猛毒
カーテン越しに差し込む朝日は、昨日よりもずっと眩しく感じられた。私は、まだ夢の続きにいるような感覚でまぶたを擦る。引越し直後の硬いマットレスの感触。けれど、いつもと決定的に違うのは、隣に自分以外の「熱」があることだ。
「……あ」
横を見ると、キイチが頬杖をついて私を眺めていた。昨夜のシャツははだけ、鎖骨のラインが露わになっている。赤い髪が枕に散り、朝日を浴びて宝石のように煌めいている。そのあまりに整った顔立ちを間近で見て、私は心臓が跳ね上がるのを感じた。
「おはよ、陽菜。よく眠れた?」
低く甘い声。昨日の出来事は、私の妄想でも幻覚でもなかったのだ。キイチは私の返事を待たず、スッと細い指を伸ばして私の髪を指先に絡めた。
「な、なんで……まだ、いるの……」
「ひどいな。一週間は消えないって言っただろ? 君が俺をあんなに甘く作ったんだから、責任取ってよ」
クスクスと笑いながら、彼は私の額に自分の額をコツンとぶつけた。その瞬間、またあの香りがした。完熟した苺をさらに煮詰めて、芳醇な蜜を垂らしたような――胸の奥が熱くなるような匂い。
「お腹、空いてない? 君、昨日から何も食べてないだろ」
「あ……言われてみれば……」
キイチはひらりとベッドから抜け出すと、私の小さなキッチンへと向かった。引越し初日に買ったきりの食パンと、冷蔵庫のわずかな中身。彼は迷いのない手つきでフライパンを握り、手際よく調理を始める。その後ろ姿は、どこか普通の大学生のようにも見えて、私は一瞬、自分が異常な状況にいることを忘れそうになった。
数分後、テーブルに並べられたのは、バターの香りが食欲をそそるトーストとオムレツ。そして、小さなグラスに注がれた「真っ赤な液体」。
「はい、これ。俺の本体……っていうか、お裾分け」
キイチはグラスを私の目の前に置いた。瓶の中で苺と氷砂糖が溶け合ってできた、あのシロップだ。昨夜は空っぽだったはずなのに、いつの間にか小さな瓶に小分けにされている。
「これを……食べるの?」
「栄養満点だよ。俺の力……エネルギーを分けてあげる。ほら、飲んでみて」
彼に促され、私はおずおずとグラスを口に運んだ。とろりとした液体が舌の上に乗った瞬間、衝撃が走った。
甘い。けれど、ただの砂糖の甘さじゃない。苺の瑞々しい酸味が弾け、その後に氷砂糖の澄んだ甘みが追いかけてくる。喉を通るたびに、冷え切っていた胃の腑がじんわりと温まり、指先まで力が満ちていくような感覚。
「おいしい……」
「だろ? 俺も、君に食べてもらうのが一番嬉しいんだ」
キイチは私の向かい側に座り、自分が食べるわけでもないのに、満足そうに目を細めた。ふと、彼の指先が、私の唇の端に触れた。
「あ、シロップ、ついてる」
拭ってくれるのかと思った次の瞬間。彼は自分の指についたシロップを、そのまま自分の口内に運んで、ゆっくりと舐めとった。
「…………っ!」
エロティックなその仕草に、顔が火が出るほど熱くなる。彼は私の動揺を楽しむように、いたずらっぽく目を細めた。
「うん。やっぱり俺、最高に甘いな」
――この男は、危険だ。優しくて、世話焼きで、私の孤独を埋めてくれる。けれど、その一挙手一投足が、私の「女性としての本能」を容赦なくかき乱してくる。
カチ、と壁の時計が音を立てた。現実に引き戻される。今日は、大学のガイダンスがある日だ。
「あの、私、学校に行かなきゃ」
「学校? ……ふーん。あんな退屈そうな場所、行く必要ある?」
キイチの顔から、一瞬だけ「表」の笑顔が消えた。わずかに低くなった声。私の手首を掴む指の力が、少しだけ強くなる。
「一週間しかないんだよ? 俺と君の、大事な時間。……他の男に、その匂い嗅がれたくないんだけどな」
その言葉に含まれた重すぎる独占欲に、私は呼吸を忘れた。
***
大学の大きな講堂は、新入生たちの熱気と期待に満ちた話し声で溢れかえっていた。私はパイプ椅子の硬い感触を確かめながら、ガイダンスの説明に耳を傾けようと努力する。けれど、スピーカーから流れる教授の声は、まるで水槽の外の出来事のように遠く感じられた。
(……帰りたい)
入学したばかりの大学で、そんなことを思うなんて不謹慎だ。頭では分かっている。けれど、私の意識は、ここではない場所――あの甘い香りが充満する、六畳一間のワンルームに囚われていた。
ふとした拍子に、自分の手首から微かに甘い匂いがする気がして、心臓が跳ねる。朝、キイチが触れた場所だ。周囲の学生たちが楽しそうに連絡先を交換している中、私だけが「誰にも言えない秘密」を抱えている。その背徳感は、私の孤独を癒やすどころか、奇妙な高揚感へと変えていく。
ガイダンスが終わると同時に、私は逃げるように席を立った。誘われるサークルのビラを適当に受け流し、早足で駅へと向かう。一刻も早く、あの部屋に戻らなければならない。そんな焦燥感に駆られていた。
アパートのドアノブに手をかけた瞬間、心臓が早鐘を打った。鍵を開け、ドアを少しだけ開く。
「……ただいま」
恐る恐る声をかけると、室内から、むせ返るような濃厚な香りが溢れ出した。
「おかえり、陽菜。遅かったね」
玄関のたたきに足を踏み入れた瞬間、視界が反転した。ドン、と背中がドアに押し付けられる。目の前には、不機嫌そうに目を細めたキイチの顔があった。
「き、キイチ……? いきなり、何……」
「何って。待ちくたびれたんだよ。君がいない部屋なんて、つまんない」
朝の穏やかな雰囲気とは違う。彼の赤い瞳の奥には、昏い熱が渦巻いていた。逃げ場を塞ぐように、私の顔の横に両手をつく。至近距離で、彼は私の首筋に鼻先を寄せ、深く息を吸い込んだ。
「……やっぱり。外の変な匂いがついてる」
「え? 変な匂いって、ただの電車の匂いとか、埃とか……っ!」
言葉を遮るように、首筋に熱いものが押し当てられた。唇だ。ちゅ、と音を立てて吸いつかれる。甘噛みのような、それでいて所有権を主張するような強い刺激に、膝の力が抜けそうになる。
「だめだよ、陽菜。君は今週、俺だけのものなんだから」
キイチの声は、砂糖を煮詰めたように甘く、そして重い。
「他の場所の匂いなんて、つけてきちゃ嫌だ。……上書きしないと」
彼の手が私の腰に回る。抵抗する隙も与えず、強く抱き寄せられる。彼の体温は、普通の人間よりも少し高い気がした。その熱がシャツ越しに伝わり、私の体温まで引き上げていく。
「俺の匂いで、いっぱいにしてあげる」
耳元で囁かれ、耳たぶを甘く噛まれる。抗えない。彼のこの、強引なまでの「私への執着」が、大学で感じた空虚な穴を、熱い蜜で満たしていく。
玄関先での抱擁は、それ以上の行為へ進む一歩手前で、寸止めのように長く続いた。私は彼の熱に浮かされながら、ぼんやりと悟る。この甘い毒のような生活から、私はもう、抜け出せないのかもしれない、と。




