【第一八話】甘くない世界で、一番甘い恋を【最終回+おまけ】
季節は巡り、マンションの麓にある桜の木が、淡い桃色の蕾を膨らませ始めていた。
私の部屋には、もう甘ったるいシロップの匂いはない。代わりに、窓から入り込む春の土の匂いと、干したばかりの洗濯物の、少し潔癖なほど清潔な香りが満ちている。
大学のゼミ室へ向かう足取りは、かつてのように浮ついてはいない。
一週間サボったツケは大きく、再提出したレポートは真っ赤な修正で埋め尽くされていたけれど、それを一つずつ直していく作業は、不思議と苦ではなかった。
「あー、やっと終わった……!」
図書館の席で大きく伸びをすると、隣でノートを広げていた佐藤くんが、小声で「お疲れ」と笑った。
「陽菜さん、本当に根詰めるよな。たまには息抜きしないと、また変なもん呼び出すぞ」
「もう呼び出せないよ。……それに、今はもう、その必要がないもの」
窓の外を見つめた。
かつて、孤独が極まったときに現れたあの「力」は、もう二度と疼くことはない。自分に都合のいい世界を作る魔法を失った代わりに、私は「思い通りにならない他者」と向き合う強さを手に入れたのだ。
夕暮れの帰り道、私たちは駅前のスーパーに寄った。
「今日は何にする? 安売りしてるから、カレーかな」
「いいね。あ、待って。……これ、美味しそう」
私が手に取ったのは、果物売り場の隅に置かれた、少し形の悪い苺のパックだった。
かつてのキイチが用意してくれたような、宝石のような大粒ではない。けれど、鼻を近づけると、力強い、野生的な酸味の混じった香りがした。
「……ふふ」
「どうしたの?」
「ううん。なんだか、応援されてる気がして」
レジを済ませて外に出ると、空は燃えるような茜色に染まっていた。
ネモが言っていた「秩序」としての夕陽でも、コウが望んだ「永遠」の夕景でもない。刻一刻と表情を変え、数分後には暗闇に消えてしまう、一期一会の現実の空。
不意に、強い風が吹き抜けた。
その風の中に、ほんの一瞬だけ。
凛とした檸檬の清涼感と、柔らかな蜜柑の温もり、そして、すべてを包み込むような青梅の静謐さが混ざったような――そんな不思議な気配を感じて、私は足を止めた。
(……見守ってるから)
キイチが最後に言った言葉が、風の音に混じって聞こえた気がした。
彼らは消えたのではない。私の「解釈」という檻から解き放たれ、世界そのものへと還っていったのだ。
私が誰かに優しくするとき。
私が自分の足で立ち上がるとき。
彼らはきっと、名もなき善意となって、私の隣を通り過ぎていく。
「陽菜さん? 行こう、冷えてきた」
佐藤くんが、私の手を取った。
彼の掌は相変わらず不器用で、少し荒れていて、そして、何よりも熱い。
「……ねえ、佐藤くん。私、今すごく幸せ」
「カレーで? 安上がりな幸せだなあ」
「違う違う。……世界が、甘くないからね」
私は、彼の手を強く握り返した。
この世界は、ままならない。
雨は降るし、お腹は空くし、人はいつか死ぬ。
けれど、その不自由な現実の中で、誰かの体温を選び取り、一緒に生きていく。
それこそが、どんなシロップよりも味の濃い、尊い「奇跡」なのだと、今の私なら、胸を張って言える。
私たちは、混み合う街の中へと溶け込んでいった。
背後で、カバンに忍ばせた父のノートが、春の風に吹かれて小さく音を立てたような気がした。
***
・おまけ1 幸せな「不自由」を噛み締めて
「……すごい人だね」
思わず零れた呟きは、遊園地の入り口に響く陽気なBGMにかき消された。
春休みということもあって、チケット売り場から最後尾が見えないほどの行列。かつての私なら、この光景を見た瞬間に目眩を感じ、背を向けていただろう。
(誰もいない、私だけの静かな庭。待ち時間のない、完璧な世界……)
そんな妄想が頭をよぎりそうになった瞬間、グイッと、少し乱暴に腕を引かれた。
「陽菜さん、ぼーっとしてるとはぐれるぞ。ほら、最後尾あっちだ」
振り返ると、首にタオルを巻き、リュックを背負った佐藤くんが苦笑いしていた。
彼はスマホの画面を確認しながら、「待ち時間90分かぁ……まあ、想定内だな」と、頼もしいのか頼りないのか分からない独り言を言っている。
「……90分も、並ぶの?」
「そりゃそうだよ。人気のアトラクションだもん。……あ、嫌だった? やっぱり映画とかの方が――」
「ううん、いいの。並ぼう。……佐藤くんと一緒に」
私は彼のシャツの裾を掴んで、ゆっくりと列に並んだ。
90分という待ち時間は、かつての私にとっては、永遠と同義だった。
けれど、佐藤くんとの90分は、驚くほど騒がしくて、そして退屈しなかった。
彼は次に乗る乗り物の攻略法を熱弁したり、さっき見かけた変な看板の真似をして私を笑わせたりした。足は少しずつ重くなり、春とはいえ日差しは少し強くて、首筋にじんわりと汗が滲む。
(……ああ、私、今『不自由』だ)
喉が渇いても、魔法で冷たい水が出てくることはない。ここにあるのは、佐藤くんがわざわざ自販機まで歩いて、買ってきてくれたサイダー。
でも、そのサイダーを二人で分け合って飲むとき、私の胸に広がる充足感は、何者にも代えがたいと思った。
「……はい、あーん。これ、名物のメガ盛りクレープ」
「え……ちょっと、佐藤くん。大きすぎて口に入らないよ」
アトラクションを降りた後、私たちはベンチに座って、クリームとはちみつがこれでもかと乗ったクレープを頬張った。
案の定、クリームが鼻の先についてしまい、佐藤くんが「子供かよ」と笑いながら、自分の指でそれを拭い取った。
「……っ」
心臓が跳ねる。
指先から伝わる彼の体温は、少し荒っぽくて、どこか照れ臭そうで、あまりにも「生身の人間」の近さだった。
「……佐藤くん。私ね、今日一日で、三回くらい『疲れた』って思ったの」
「えっ、やっぱり無理させた!? ごめん、すぐ休憩――」
「待って! 違う、そうじゃないの。……疲れるっていうことが、こんなに嬉しいなんて思わなかったの。自分の体を使って、自分の時間を使って、誰かと一緒に何かを待つ。それがこんなに『生きてる』感じがするなんて」
私は、彼の肩にそっと頭を預けた。
魔法の庭にいた頃、私は一度も疲れを知らなかった。
望むものはすべて与えられ、不都合なものはすべて排除されていた。
けれど、そこには「明日への期待」もなかった。
「……俺はさ、陽菜さんと一緒にいると、自分がすごく『普通』だって実感できるんだ。かっこいいことは言えないし、魔法も使えないけど……でも、こうやって君が疲れた時に肩を貸すことくらいはできるから」
佐藤くんは、空いた方の手で私の手をぎゅっと握った。
「……来年も、また来よう。今度は120分待ちでも、俺が全部笑わせてやるからさ」
「ふふ、すごい自信。それなら、私ももっと面白い話を用意しておかないとね」
夕暮れの観覧車が、ゆっくりと回り始める。
空は少しずつ、混じり気のない深い藍色へと溶けていく。
甘くない世界。
不便で、ままならなくて、時々少しだけ傷つく世界。
けれど、その世界で彼と手を繋いでいる限り。私は、きっと。
「……大好きよ、佐藤くん」
「……え、あ、急に何!? ちょ、そういうのは心の準備が……!」
真っ赤になって狼狽える彼を見て、私は今日一番の笑顔で笑った。
魔法を捨てた私が手に入れた、世界で一番甘くて、一番不確かな、本物の恋だった。
***
・おまけ2 世界の端っこの守護者たち
魔法が消えた後の世界は、驚くほど騒がしく、そして相変わらず不親切だった。
初夏の陽気が差し込む大学のキャンパス。
私は、締め切り間際のレポート資料を探して、古い資料室の書架をさまよっていた。指先は埃で汚れ、背負ったリュックの重みが肩に食い込む。
「……あ、あった」
高い棚の隅に見つけた一冊。けれど、背伸びをしても指先がわずかに届かない。
かつての私なら、願うだけで本が手元に滑り落ちてきただろう。あるいは、銀髪の理知的な「彼」が、ため息をつきながら代わりに取ってくれたはずだ。
「……お困りですか?」
不意に、背後から落ち着いた声がした。
振り返ると、そこには眼鏡をかけた年配の司書が立っていた。彼は踏み台を持ってくると、手際よくその本を取り出し、私に差し出した。
「この資料は貴重ですからね。大切に読んでください」
その、無駄のない動きと、少しだけ厳しいけれど温かい眼差し。
私は一瞬、彼の中にネモの面影を見た気がして、胸が熱くなった。
「……ありがとうございます」
司書が去った後、私は手の中の本を抱きしめた。
彼はネモではない。ただの、仕事に誇りを持つ司書さんだ。けれど、世界には確かに「秩序」を守り、誰かを導こうとする意志がある。
大学を出ると、駅前で小さな騒ぎが起きていた。
赤い風船を離してしまった子供が、泣きじゃくっている。
それを見つけた一人の若者が、噴水の縁を軽やかに飛び越え、街路樹に引っかかった風船を鮮やかにキャッチした。
彼は子供に風船を渡すと、ニカッと太陽のような笑顔を見せて、スケートボードで風のように去っていった。
(……キイチみたい)
弾けるような情熱と、誰かを元気づけたいと願う真っ直ぐなエネルギー。
さらに歩けば、公園のベンチで、お年寄りの横にそっと寄り添って眠る野良猫が見えた。その微かな喉の鳴らし方は、コウが与えてくれたあの深い安らぎによく似ていた。
そして、横断歩道でふらついた私を、無言で支えてくれた通りすがりの大人の、岩のような安定感。それは紛れもなく、私を守り抜こうとした朔の強さだった。
「……陽菜さん! こっちこっち!」
駅の改札前。人混みの中で一生懸命に手を振る、佐藤くんの姿があった。
彼の手には、二人分のアイスクリームが握られている。
「遅いよー、溶けちゃうだろ」
「ごめん。……ちょっと、探し物をしてて」
「本? 見つかった?」
「うん。……本も、それ以外も。全部見つかった」
私は彼のアイスを受け取り、一口かじった。
溶けかけのバニラの味が、身体中に染み渡る。
私は、新しい世界を作る力を持っていた。けれど、まったく新しい「善意」を作ることはできなかったのだ。
私が作り出したシロップ男子たちは、きっと、この世界にもともと存在していた「誰かの優しさ」や「世界の美しさ」で。私の寂しさが、かき集めて、形にしたものだったのだろう。
彼らは人の形をしていないかもしれないけれど。今もこの街のあちこちに、破片となって散らばっている。
困っている時に差し伸べられる手。
ふとした瞬間の笑顔。
冬の陽だまり、夏の夕立の匂い。
「……ねえ、佐藤くん。私、魔法を失って本当によかった」
「え、急に何だよ。……まあ、俺も今の陽菜さんの方が、目が離せなくて好きだけどさ」
佐藤くんは照れ隠しにアイスを口に放り込み、私の手を握った。
もう、指先から黄金色の光は出ない。
けれど、握りしめた彼の手の温かさが、何よりも強い「現実」となって私を支えてくれている。
空を見上げると、そこには加工されていない、眩しい初夏の青空が広がっていた。
――君はもう、大丈夫だ。
風が、そんな風に囁いた気がして、私は隣にいる愛おしい「現実」と一緒に、明日という名の不確かな未来へ向かって、力強く一歩を踏み出した。
シロップ男子 完




