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シロップ男子。~賞味期限付きの愛~  作者: ぐうすけ


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【第一七話】甘いさよなら、本当の祝福

 そこは、果てしなく広がる白い光の庭だった。

 天井も壁もなく、どこまでも続く透明な静寂。足元には薄く霧が立ち込め、歩くたびに波紋のような光が広がっていく。


 その空間の中央に、四人の男たちがいた。

 かつて私の狭いアパートを、鮮やかなシロップの色で染め上げた者たち。


「……みんな」


 私が静かに呼ぶと、四人が一斉に振り返った。

 現実の世界ではあんなに恐ろしかった威圧感は消え、彼らはまるで、長い旅を終えたばかりの旅人のような、晴れやかで柔らかな表情を浮かべていた。


***


「……やあ。ずいぶん、しっかりした足取りになったね、陽菜」


 最初に歩み寄ってきたのは、キイチだった。

 彼の周りには、あの最初の日と同じ、完熟した苺の濃厚な香りが漂っている。けれど、今の彼の瞳は、私を食い尽くそうとするような激しさはなく、焚き火の終わりのような穏やかな熱を帯びていた。


「キイチ。私……あなたに、たくさん酷いことを言った。わがままばかり言って、最後は追い出すみたいにして」


「いいんだよ。俺は君の『情熱』だった。孤独で凍えそうだった君が、自分を愛したい、誰かに触れたいと心の底から願ったから、俺はあそこにいたんだ。君が流した涙も、俺を求めた指先も、全部本物だったよ」


 キイチは私の頬に、そっと手を寄せた。その熱はもう、私を焼き尽くすことはない。


「俺の熱は、君を動かすための火種だった。でも、もう君には、隣で一緒に歩いてくれる本物の『体温』がある。……佐藤っていう男、不器用だけど、あいつの熱は俺たちよりずっと、君を長く温めてくれるはずだ」


***


 キイチが下がると、次にネモが静かに歩み出た。

 銀縁の眼鏡の奥にある瞳は、相変わらず冷徹なまでに澄んでいる。けれど、その口元には、微かな、本当に微かな微笑みが浮かんでいた。


「陽菜さん。私はあなたの『秩序』でした」


「ネモ。あなたは私を厳しく律してくれた。……本当は、壊れてしまいそうな自分を止めてほしくて、私はあなたを呼んだのね」


「左様です。カオスの中にいたあなたは、誰かに『正解』を決めてほしかった。だから私は、あなたを支配し、調教した。……ですが、今のあなたにはもう、私の冷たい論理は必要ありません。あなたは自分の過ちを認め、泥臭い現実の中で、自分だけの『正解』を探し始めている」


 ネモは私の目の前に立ち、深く一礼した。


「論理よりも、ずっと不確かで、矛盾に満ちた『愛』という名の不合理。……それをあの男と育みなさい。私の教科書には載っていない、最高の答えをね」


***


「陽菜ちゃん。……最後は、僕のことも嫌いになっちゃったかな?」


 コウが、かつての少年のような無邪気さで、ひょっこりと顔を出した。

 彼の周りには、あの甘い蜜柑の香りが淡く漂っている。


「……嫌いになんて、なれなかった。コウ、あなたは私の『安らぎ』だった。何もしなくていい、ただ眠っていればいいって言ってくれたこと、本当はすごく嬉しかったの」


「あはは。そうだね。僕は、君が世界に絶望して、消えてしまいたいって思ったときの『逃げ場』だったんだ。でもね、陽菜ちゃん。……雨に濡れるのを嫌がっていた君が、今はその雨の冷たさを『生きてる証拠』だって笑ってる。……僕の全肯定よりも、佐藤くんの『一緒に頑張ろう』っていう不器用な言葉の方が、君をずっと遠くまで連れて行ってくれるんだね」


 コウは私の頭を優しく撫でると、少しだけ寂しそうに、けれど満足げに笑った。


「バイバイ、僕の小さなお姫様。……もう、夢の中で溺れちゃダメだよ」


***


 最後に、(サク)が重厚な足取りで進み出た。

 彼は言葉少なに、けれど誰よりも深く私を見つめた。


「……陽菜。お前は、強くなった」


「サク……。あなたは、私を押し潰す『重石』だと思っていた。でも、違ったのね」


「私はお前の『防衛』だった。外界の毒からお前を守るため、お前自身が作り上げた最後の砦だ。お前が佐藤を呼び、私を退けた瞬間、お前の心は外界を受け入れる準備が整った。……呪いとは、自らを守るためにかけた『拒絶』の名なのだ」


 朔は私の肩に手を置き、その「重み」を最後の一瞬だけ伝えてきた。それはもう、私を縛り付ける鎖ではなく、地に足をつけさせるための確かな「実在」の感覚だった。


「……お前が引き寄せた我らは、お前の心が求めた『盾』だった。だが、盾を持ったままでは、誰かを抱きしめることはできん。……さあ、行け。あの男の待つ、ままならない現世へ」


 四人が並んで、私を見つめている。

 その姿が、足元からゆっくりと、透明な光の粒子へと変わっていく。


「みんな、待って!!」


 私は叫んだ。彼らが「呪い」の産物だとしても、私を孤独から救ってくれたのは、紛れもなく彼らだったから。


「私たちは、消えるわけじゃないよ」


 キイチの声が、光の波に乗って聞こえてきた。


「形を変えるだけだ。君が食べる果実の甘さの中に。道端で誰かが貸してくれた傘の中に。冬の朝の、少しだけ暖かい陽だまりの中に。……僕らはいつでも、世界の端っこから君を見守っているから」


 白い世界が、眩い光に包まれていく。

 彼らの姿が完全に消える寸前、私は四人が揃って、祝福するように私に手を振るのを見た。

 

 ――ありがとう。

 

 私の唇が、音もなくその言葉を紡いだ。



***



四人の男たちが、ゆっくりと光の中に溶けていく。

 彼らがいた場所には、もう輪郭さえ残っていない。ただ、最後に残ったのは、四つの果実の香りが混ざり合った、不思議と爽やかで切ない風だけだった。


「……ありがとう。さようなら」


 私が最後の一言を口にした瞬間、視界を埋め尽くしていた白銀の光が、猛烈な速度で収束を始めた。

 吸い込まれるような感覚。

 重力が戻り、硬い床の感触が背中に伝わってくる。


「……っ」


 目を開けた。

 そこは、自分のアパートの、見慣れた天井だった。

 

 窓の外は、まだ夜が明けきらない深い群青色。

 静かだった。耳を澄ませても、もうキイチがキッチンで包丁を叩く音も、ネモがページをめくる音も、コウの甘い笑い声も聞こえない。


(……本当に、終わったんだ)


 喪失感に胸が締め付けられそうになった、その時。

 隣から「スースー」と、少し間の抜けた、けれど力強い寝息が聞こえてきた。


 横を見ると、佐藤くんが私の手を握ったまま、床で丸くなって眠っていた。

 寝癖はひどいし、少しだけ口を開けて、お世辞にも「美しい王子様」とは呼べない姿。けれど、彼が握っている私の右手からは、確かな、嘘偽りのない「熱」が伝わってきている。

 

 ふと、自分の指先を見た。

 

 爪の先から、微かな黄金色の粒子が立ち上っている。

 それは私がこれまで、無意識に、あるいは自暴自棄に振りまいていた「解釈の力」の残滓。

 

 その光は、まるで導かれるように、枕元に置いてあった父の古いノートへと吸い込まれていった。

 ページがパラパラとひとりでにめくれ、最後の真っ白なページに、その光が静かに沈み込む。

 

 カチリ、と。

 

 心の奥底で、何かが閉じる音がした。

 私の体から、あの「万能感」という名の毒が完全に抜けた瞬間だった。

 

「……ん、うぅ……。陽菜さん?」


 佐藤くんが、眩しそうに目を擦りながら起き上がった。

 彼はまだ状況が飲み込めていないようで、きょろきょろと部屋を見渡し、最後に私と目が合うと、ホッとしたように顔を綻ばせた。


「……おはよう。変な夢でも見てた? 君、寝ながらちょっと笑ってたぞ」

「……うん。懐かしい人たちに、お別れを言ってきたの」

「そっか。……それなら、よかった」


 佐藤くんは深く追求しなかった。彼は、私が抱えていたものが彼には理解できない領域のものだと分かっていて、それでも「今」の私をそのまま受け入れてくれている。


「……ねえ、佐藤くん。窓、開けてみて」

「え? 寒いよ?」

「いいから」


 佐藤くんが億劫そうに立ち上がり、窓を開ける。

 

 入り込んできたのは、冬の朝の、痛いほど冷たくて澄んだ空気。

 マンションの向こう側から、ゆっくりと、薄桃色の太陽が顔を出し始めていた。

 

 かつて私が見ていた、加工された黄金色の夜明けじゃない。

 少し霞んでいて、眩しすぎて、直視すれば涙が出るような、暴力的なまでに剥き出しの「本物の朝」。


「綺麗だね」

「ああ。……でも、今日も授業、サボったらまずいな」


 佐藤くんの現実的な呟きに、私は思わず吹き出した。

 

 指先はもう疼かない。

 世界を私の都合で書き換える力は、もうない。

 

 けれど、佐藤くんと手を繋いで歩くこれからの道は、どんなシロップよりも深く、複雑で、そして豊かな味がすることだろう。

 

 私はノートをそっと閉じて、棚の奥へとしまった。

 かつての呪いは、いまやただの「思い出」という名の記録に変わっていた。

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