【第十六話】解けていく呪い、結ばれる手
数日ぶりに戻った自分の部屋は、驚くほど静かだった。
佐藤くんが鍵を直してくれた玄関のドアを開けると、そこにはもう、噎せ返るような蜜の匂いも、刺すような青梅の冷気もない。ただ、主を失った廃墟のような、埃っぽくて空虚な空間が広がっていた。
「ひどいもんだな。……俺、さっきそこで掃除道具買ってきたから。骨が折れそうだが……一緒にやろう。やり始めたら、いつか終わるからな」
佐藤くんが大きなレジ袋を床に置いた。中には強力な洗剤や雑巾、そして何十枚ものゴミ袋。
私は袖を捲り上げ、彼と一緒に、夢の……現実の片付けを始めた。
キイチが情熱を注いでいたキッチン。そこには彼が作った料理ではなく、傷んだ食材と、こびりついた正体不明のシロップの跡があった。
ネモが座っていた椅子。そこにはもう、彼が愛読していたような難しい本はなく、ただの古びた木製の椅子が、斜めに傾いて置かれている。
雑巾で床を拭くたびに、私の腰は痛み、手は洗剤で荒れていった。
けれど、その痛みが心地よかった。魔法で一瞬にして綺麗にするのではなく、自分の時間と体力を使って、少しずつ世界を元に戻していく。このもどかしさこそが、今の私が求めている、生きている実感そのものだった。
「……陽菜さん。これ、落ちてたけど……相当年季が入ってる。大事なものなんじゃない?」
佐藤くんが差し出したのは、家具の隙間に挟まっていたという、父の古いノートだった。
表紙はシロップで汚れて波打っている。私はそれを手に取り、窓際でページをめくった。
ノートの最後の方には、これまで読んだ覚えのない、殴り書きのような文字が並んでいた。
『……この力は、愛を望む者にしか現れない。
だが、真の愛とは、自分の望む形に相手を歪めることではなく……自分の望まない形をした相手を、そのまま受け入れることにある。
この呪いが解けるとき、それはお前が、誰かの「不完全さ」を愛せるようになった証だ。
そのとき、お前の世界は、本当の意味で色づき、鮮やかになるだろう』
私はノートを胸に抱きしめ、夕暮れに染まる部屋を見渡した。
しっかりと、私の目を通して見る現実の夕陽は、私の解釈が生み出す、絵本のような黄金色ではなく。少し煤けた街の空気を透かした、ほんのりと淡い茜色。
「……お父さん。やっとわかったよ」
不意に、後ろから佐藤くんが、私の肩に手を置いた。
彼は掃除でベトベトになった顔で、少し照れくさそうに笑っている。
「……よし、陽菜さん。だいたい片付いた。最後の一袋、俺が捨ててくるよ」
「あ……ありがとう、佐藤くん」
「いいって。……お礼に、今度またあのファミレス、付き合ってくれよ」
私は頷き、彼の手をきゅっと握った。
指先が、もう疼かない。
世界を書き換えたいという渇望は、彼の掌の温かさに満たされ、穏やかに消えていった。
一族の呪いは、たった一人の「不完全な人間」の存在によって、完全にその牙を抜かれたのだ。
**
その夜、私は佐藤くんを部屋に泊めることにした。
もちろん、何か深い意味や意図があるわけではない。ただ、一人で眠るのが少しだけ、ほんの少しだけ怖かったからだ。
佐藤くんは「俺は床でいいよ」と固辞したが、結局、二人で並んで布団を敷いて寝ることになった。
暗闇の中、隣で聞こえる彼の少し不規則な寝息。
それは、シロップ男子たちが決して立てなかった、生きている証……生命の息吹だ。
「……佐藤くん、起きてる?」
「……ん、んー……半分くらい……。何かあったか?」
「ううん。……呼んでみただけ」
私は暗闇の中で、彼の手を探し、そっと指を絡めた。
彼は少し驚いたようにぴくんと体を震わせたが、すぐに優しく、力強く握り返してくれた。
「……陽菜さん。俺、今日はちゃんと寝てさ……明日の朝は、ちゃんと起きるからな。陽菜さんも、一限、遅れるなよ」
「ふふ、わかってるって。……おやすみなさい、佐藤くん」
「ん、おやすみ!」
心地よい静寂。
私は深い、深い眠りへと落ちていった。
***
意識が遠のく中、ふと、不思議な感覚に包まれた。
現実の部屋の壁が、ゆっくりと、けれど穏やかに透き通っていく。
そこは、かつて私が見ていた「シロップの海」でも、コウの「偽物の青空」でもなかった。
真っ白な、けれど温かい光に満ちた、精神の奥底。
そこには、四人の男たちが立っていた。
キイチ、ネモ、コウ、そして朔。
彼らはもう、私を惑わすような誘惑の瞳も、私を縛り付けるような冷徹な意志も持っていなかった。
ただの、懐かしい友人を見るような、穏やかな笑みを浮かべて、そこに並んでいた。
「……あ」
私は、彼らに向かって一歩踏み出した。
お別れの時間が来たのだと、本能的に理解していた。
彼らは、私の一族の「呪い」が作り出した、ただの幻覚に過ぎなかったかもしれない。
けれど彼らは、決して悪い存在ではなかった。私が辛い時に、私を孤独から守ろうとしてくれた、私の心の一部でもあったから。
そんな彼らを、無視することはできなかった。私は、私自身の不完全な部分も、受け入れて、抱きしめたいと思ったから。私が佐藤くんにそうしたように……佐藤くんが、私にそうしてくれたように。
きっと、今がその時なんだ。
私は、夢の中で微笑む彼らに向かって、ゆっくりと口を開いた。




